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婚約破棄されたので辺境で好きに生きます〜なぜか辺境伯に溺愛されていますが〜  作者: きなこ
第4章「辺境の花嫁と永遠の約束」

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第101話「母の肖像画」

第101話「母の肖像画」


 その肖像画の前を、わたくしは何度も通り過ぎてきた。


 夜会の翌日、邸の中は静かだった。


 昨夜の片付けを使用人たちが進め、花の匂いがまだどこかに残っている。


 ヨハンナは早朝から洗濯物の確認をしていた。カイン様は父と書斎で何か話し込んでいるらしい。


 わたくしは一人、邸の廊下を歩いていた。


 子供の頃から知っている廊下だ。石の床の継ぎ目の位置も、壁に掛かる絵画の順番も、変わっていない。


 東翼の突き当たりに、一枚の肖像画がある。


 わたくしはその前で、足を止めた。


 マルグリット・フォン・ヴァルトシュタイン。


 わたくしの母。


 肖像画の中の女性は、薄い色の服を着て、少し微笑んでいた。


 銀灰色の髪。それがわたくしと同じだと気づいてはいた。


 でも、今日は、それ以上のものを見ようとして、立ち止まった。


 (いつもここを通るとき、わたくしはどこか目を逸らしていた。意識せずに)


 顔を、正面から見た。


 鼻の形。口の端のわずかな上がり方。


 そして、目。


 「……この目が、わたくしに似ている」


 声に出すと、少し胸が痛くなった。


 母の記憶は、ほとんどない。


 病で亡くなったのは、わたくしがまだ小さい頃だ。手の感触も声も、もうほとんど残っていない。


 (前世の母。最後に話したのは、いつだったか。仕事が忙しくて、年に数回の電話だけになっていた。最後の電話は三分で切った。次の会議があるから、と)


 二つの「母がいない」記憶が、同じ場所に重なっていた。


 「エリナ」


 振り返ると、父がいた。


 書斎から出てきたのだろう、書類を手に持っていた。廊下でわたくしと目が合って、少し足を止めた。


 「……見ているのか」


 父がわたくしの隣に来て、肖像画を見た。


 「はい。お父様、母のことを聞かせていただけますか」


 父が、少し間を置いた。


 「何を」


 「どんな方だったか。わたくしには、ほとんど記憶がなくて」


 父の手の中で、書類がわずかに動いた。


 沈黙があった。


 十秒ほど、ただ肖像画を見ていた。


 「……あの人は」


 父が、静かに言い始めた。


 「花が好きだった」


 「花、ですか」


 「何種類も育てていた。春になると邸中が香っていたよ。お前が生まれたときも、産室に花を持ち込もうとして、侍女たちに止められた」


 (産室に花を。それは確かに止められる)


 「どんな花が好きだったのですか」


 父が少し考えた。


 「すべてが好きだったが、特に辺境の花が見たいと言っていた」


 辺境の花。


 「辺境の花、を」


 「ドラクロワ家に嫁いだ友人が手紙で知らせてくれたらしい。辺境には王都では見られない種類の花があると。とても行きたがっていたが、体を壊して……結局、行けなかった」


 ドラクロワ家に嫁いだ友人。


 「その友人というのは、どなたですか」


 父がわたくしを見た。


 「……カイン殿の母上だ。リーゼロッテ殿。マルグリットの王立学院時代の学友だった」


 胸の中で、何かが音を立てた気がした。


 (リーゼロッテ様とお母様が、学友だった。カイン様が母上から聞いていた話と繋がる)


 「知っていましたか?」


 わたくしが尋ねると、父は首を振った。


 「ドラクロワ家の婚約が整ったとき、初めて確かめた。気づくのが遅すぎた。そういう話を、マルグリットとゆっくりする機会がなかった」


 後悔の入った声だった。


 「リーゼロッテ殿からの手紙は、今も大切に保管している。マルグリットが亡くなってからも、処分する気になれなかった」


 (カイン様のお母様が、わたくしの母に手紙を書いていた。辺境の花のことを。そしてお母様はその花を見たかった)


 「お父様。わたくし、辺境で鈴蘭を育てています」


 父が目を向けた。


 「リーゼロッテ様が植えた鈴蘭が、温室にあります。今年また、新しい芽が出ました。お母様が見たかった花が、辺境に咲いています」


 父の表情が、わずかに変わった。


 「そうか」


 声が、少し掠れた。


 「——マルグリットが聞いたら、喜んだだろう」


 わたくしは肖像画を見た。


 母の目が、こちらを見ている。


 怒ってもいない。悲しんでもいない。ただ、穏やかに、微笑んでいた。


 (記憶はほとんどない。でも——この目が、わたくしに似ている。そしてわたくしは今、お母様が見たかった場所にいる)


 「お父様、一つお願いがあります」


 父が待った。


 「母の好きだった花の種類を、教えていただけませんか。覚えている範囲で構いません。辺境で、育ててみたいと思います」


 父が、しばらく肖像画を見ていた。


 「……春の花が多かった。スミレ、ライラック、白いチューリップ」


 「ありがとうございます」


 父が、書類をもう一方の手に持ち替えた。


 「辺境は——花が育てやすいか」


 「土が豊かです。春の光がよく入ります」


 「そうか」


 父がゆっくりと歩き出した。


 少し行って、足を止めた。


 「……エリナ」


 振り返らずに、言った。


 「辺境で幸せにしろ。それが——父の望みだ」


 それだけ言って、歩いていった。


 廊下に、わたくしと母の肖像画だけが残った。


 母の目が、静かに微笑んでいた。


 (わかりました、お母様。ちゃんと、幸せにします)


 春の光が窓から差し込んで、肖像画の上に落ちた。


 明日、辺境に帰る。


 そしてわたくしは、お母様が見たかった花のそばで生きる。



---


 夜が更けると、邸の中が静かになる。


 婚約発表の夜会から二日が経っていた。明後日には王都を発つ。荷物の整理も、挨拶回りもほぼ終わった。ヴァルトシュタイン邸の廊下は、昼間の慌ただしさが嘘のように落ち着いていた。


 居間で書き物をしていると、扉を叩く音がした。


 「いるか」


 クラウスお兄様だった。


 「どうぞ」


 お兄様が入ってきた。片手に葡萄酒の瓶を持っている。グラスが二つ。


 「飲むか」


 「いただきます」


 椅子を引いて、向かいに座った。グラスに葡萄酒が注がれた。深い赤色が、燭台の光を受けて揺れた。


 しばらく、何も話さなかった。


 グラスを持ったまま、お兄様がただ黙っていた。


 こういう沈黙には慣れている。子供の頃から、お兄様との時間はこういう感じだった。一緒にいる。それだけで十分な時間。


 「婚約発表、うまくいったな」


 お兄様が言った。視線は窓の外に向いている。


 「はい。おかげさまで」


 「あの辺境伯のスピーチには笑った。一言でいいのか、あれで」


 「カイン様らしいですわ」


 「確かにな」


 お兄様が口の端を上げた。でも、すぐに表情が戻った。


 「エリナ」


 声のトーンが変わった。


 「お兄様?」


 お兄様がグラスを置いた。窓の外から視線を戻して、こちらを見た。


 こういう顔は、珍しかった。いつもの軽口も、からかいも、カイン様への牽制もない。


 ただ、兄の顔だった。


 「お前がいなくなって——正直、寂しかった」


 わたくしは何も言えなかった。


 「辺境に行ったと聞いたとき。最初は、父上が何を考えているんだと思った。婚約破棄された娘を、あんな遠い土地に一人でやるなんて。もしお前が不幸なら、俺がすぐ迎えに行くつもりだった」


 お兄様が葡萄酒を一口飲んだ。


 「でも、お前からの手紙を読むたびに——何だかわからなくなってきた。楽しそうで。生き生きしていて。あの辺境伯への文句ひとつ書かずに、帳簿がどうとか村の水路がどうとか、そんなことばかり」


 (前世の癖が出すぎて、大変だった時期もあったけれど)


 「お前が変わっていくのが、手紙から伝わってきた。良い方向に。俺が思っていたよりずっと大きく」


 お兄様の言葉が途切れた。


 「そして王都に来たとき——あの辺境伯の隣に立っているお前を見たら、もう何も言えなかった」


 静かな声だった。


 「俺が口出しする余地が、何一つなかった。お前の目が、違ったから」


 目が、違う。


 「どう違いましたか」


 聞いた。素直に聞きたかった。


 お兄様がしばらく考えた。


 「王都にいた頃のエリナは——どこか、萎縮していた。アルフレートのことで余裕がなかったのかもしれない。でも辺境から戻ってきたお前は、地に足がついていた。自分の場所を持っている人間の顔をしていた」


 「お兄様」


 声が少し詰まった。


 「わたくしがここまで来られたのは、お兄様がいてくれたからです」


 お兄様が眉を上げた。


 「手紙です。最初の、あの手紙」


 辺境に着いたばかりの頃。誰も笑わなくて、寒くて、前途が全く見えなかった日に届いた手紙。


 『エリナへ。どんな場所であっても、お前はお前だ。それだけを伝えたい。——クラウスより』


 あの十数行が、わたくしを立たせてくれた。


 「あれだけですよ。たった一枚の手紙で。でも、あの手紙があったから、わたくしは次の日も仕事ができました」


 お兄様が目を逸らした。窓の外を見た。耳が少し赤い——ような気がしたが、燭台の灯りのせいかもしれない。


 「……大げさだ」


 「大げさではありません」


 静寂が戻った。


 でも、さっきとは違う静寂だった。


 何かが解けたような時間だった。言葉にしなくても伝わっていたことが、ようやく言葉になった。そういう夜だった。


 「それに」と、わたくしは続けた。


 「お兄様が定期的に手紙をくださったから、王都のことがわかりました。貴族社会の動き、シュテファン殿下のご様子、父上の体調。孤立していなかったのは、お兄様のおかげです」


 「そんなつもりで書いたわけじゃない」


 「でも、わたくしには全部、ありがたかったのです」


 お兄様が葡萄酒を飲み干した。もう一杯注いだ。


 「——面倒な妹だ」


 声に、笑いが混じっていた。


 「お兄様こそ、面倒なお兄様ですわ」


 「何が面倒だ」


 「毎回カイン様に剣を向けるのは、そろそろやめてくださいませ」


 「あれは挨拶だ」


 「世間では挨拶と申しません」


 お兄様が吹き出した。


 わたくしも笑った。


 こういう兄妹だった。感情をきちんと言葉にするのが苦手な二人。でも、伝わっていた。ずっと、ちゃんと伝わっていた。


 「エリナ」


 もう一度、お兄様が言った。


 「幸せにしてもらえよ」


 命令形だった。


 でも、声が柔らかかった。


 「はい」


 短く答えた。それで十分だった。


 二人でしばらく葡萄酒を飲んだ。


 燭台の炎が、かすかに揺れていた。


 「しかし」


 お兄様が突然言った。


 「あの辺境伯、いざとなったら俺の妹の膝で眠るような男だとは思わなかった」


 「お兄様っ」


 「ヨハンナから聞いた。旅の途中、ぐっすり眠ったそうじゃないか」


 「あれは——事情がありまして」


 「いや、いい。案外可愛いやつだとは思っている。保留期間をもう少し延ばしてやってもいい」


 「殺す気は最初からないくせに」


 お兄様がまた笑った。


 その顔が好きだった。


 本音を話してくれる夜が、好きだった。


 窓の外に、王都の夜が広がっている。


 ここにいるのも、あと少し。


 でも、わたくしには帰る場所がある。


 そして、兄がいる。


 それだけで、十分すぎるほどだった。


---


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