第101話「母の肖像画」
第101話「母の肖像画」
その肖像画の前を、わたくしは何度も通り過ぎてきた。
夜会の翌日、邸の中は静かだった。
昨夜の片付けを使用人たちが進め、花の匂いがまだどこかに残っている。
ヨハンナは早朝から洗濯物の確認をしていた。カイン様は父と書斎で何か話し込んでいるらしい。
わたくしは一人、邸の廊下を歩いていた。
子供の頃から知っている廊下だ。石の床の継ぎ目の位置も、壁に掛かる絵画の順番も、変わっていない。
東翼の突き当たりに、一枚の肖像画がある。
わたくしはその前で、足を止めた。
マルグリット・フォン・ヴァルトシュタイン。
わたくしの母。
肖像画の中の女性は、薄い色の服を着て、少し微笑んでいた。
銀灰色の髪。それがわたくしと同じだと気づいてはいた。
でも、今日は、それ以上のものを見ようとして、立ち止まった。
(いつもここを通るとき、わたくしはどこか目を逸らしていた。意識せずに)
顔を、正面から見た。
鼻の形。口の端のわずかな上がり方。
そして、目。
「……この目が、わたくしに似ている」
声に出すと、少し胸が痛くなった。
母の記憶は、ほとんどない。
病で亡くなったのは、わたくしがまだ小さい頃だ。手の感触も声も、もうほとんど残っていない。
(前世の母。最後に話したのは、いつだったか。仕事が忙しくて、年に数回の電話だけになっていた。最後の電話は三分で切った。次の会議があるから、と)
二つの「母がいない」記憶が、同じ場所に重なっていた。
「エリナ」
振り返ると、父がいた。
書斎から出てきたのだろう、書類を手に持っていた。廊下でわたくしと目が合って、少し足を止めた。
「……見ているのか」
父がわたくしの隣に来て、肖像画を見た。
「はい。お父様、母のことを聞かせていただけますか」
父が、少し間を置いた。
「何を」
「どんな方だったか。わたくしには、ほとんど記憶がなくて」
父の手の中で、書類がわずかに動いた。
沈黙があった。
十秒ほど、ただ肖像画を見ていた。
「……あの人は」
父が、静かに言い始めた。
「花が好きだった」
「花、ですか」
「何種類も育てていた。春になると邸中が香っていたよ。お前が生まれたときも、産室に花を持ち込もうとして、侍女たちに止められた」
(産室に花を。それは確かに止められる)
「どんな花が好きだったのですか」
父が少し考えた。
「すべてが好きだったが、特に辺境の花が見たいと言っていた」
辺境の花。
「辺境の花、を」
「ドラクロワ家に嫁いだ友人が手紙で知らせてくれたらしい。辺境には王都では見られない種類の花があると。とても行きたがっていたが、体を壊して……結局、行けなかった」
ドラクロワ家に嫁いだ友人。
「その友人というのは、どなたですか」
父がわたくしを見た。
「……カイン殿の母上だ。リーゼロッテ殿。マルグリットの王立学院時代の学友だった」
胸の中で、何かが音を立てた気がした。
(リーゼロッテ様とお母様が、学友だった。カイン様が母上から聞いていた話と繋がる)
「知っていましたか?」
わたくしが尋ねると、父は首を振った。
「ドラクロワ家の婚約が整ったとき、初めて確かめた。気づくのが遅すぎた。そういう話を、マルグリットとゆっくりする機会がなかった」
後悔の入った声だった。
「リーゼロッテ殿からの手紙は、今も大切に保管している。マルグリットが亡くなってからも、処分する気になれなかった」
(カイン様のお母様が、わたくしの母に手紙を書いていた。辺境の花のことを。そしてお母様はその花を見たかった)
「お父様。わたくし、辺境で鈴蘭を育てています」
父が目を向けた。
「リーゼロッテ様が植えた鈴蘭が、温室にあります。今年また、新しい芽が出ました。お母様が見たかった花が、辺境に咲いています」
父の表情が、わずかに変わった。
「そうか」
声が、少し掠れた。
「——マルグリットが聞いたら、喜んだだろう」
わたくしは肖像画を見た。
母の目が、こちらを見ている。
怒ってもいない。悲しんでもいない。ただ、穏やかに、微笑んでいた。
(記憶はほとんどない。でも——この目が、わたくしに似ている。そしてわたくしは今、お母様が見たかった場所にいる)
「お父様、一つお願いがあります」
父が待った。
「母の好きだった花の種類を、教えていただけませんか。覚えている範囲で構いません。辺境で、育ててみたいと思います」
父が、しばらく肖像画を見ていた。
「……春の花が多かった。スミレ、ライラック、白いチューリップ」
「ありがとうございます」
父が、書類をもう一方の手に持ち替えた。
「辺境は——花が育てやすいか」
「土が豊かです。春の光がよく入ります」
「そうか」
父がゆっくりと歩き出した。
少し行って、足を止めた。
「……エリナ」
振り返らずに、言った。
「辺境で幸せにしろ。それが——父の望みだ」
それだけ言って、歩いていった。
廊下に、わたくしと母の肖像画だけが残った。
母の目が、静かに微笑んでいた。
(わかりました、お母様。ちゃんと、幸せにします)
春の光が窓から差し込んで、肖像画の上に落ちた。
明日、辺境に帰る。
そしてわたくしは、お母様が見たかった花のそばで生きる。
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夜が更けると、邸の中が静かになる。
婚約発表の夜会から二日が経っていた。明後日には王都を発つ。荷物の整理も、挨拶回りもほぼ終わった。ヴァルトシュタイン邸の廊下は、昼間の慌ただしさが嘘のように落ち着いていた。
居間で書き物をしていると、扉を叩く音がした。
「いるか」
クラウスお兄様だった。
「どうぞ」
お兄様が入ってきた。片手に葡萄酒の瓶を持っている。グラスが二つ。
「飲むか」
「いただきます」
椅子を引いて、向かいに座った。グラスに葡萄酒が注がれた。深い赤色が、燭台の光を受けて揺れた。
しばらく、何も話さなかった。
グラスを持ったまま、お兄様がただ黙っていた。
こういう沈黙には慣れている。子供の頃から、お兄様との時間はこういう感じだった。一緒にいる。それだけで十分な時間。
「婚約発表、うまくいったな」
お兄様が言った。視線は窓の外に向いている。
「はい。おかげさまで」
「あの辺境伯のスピーチには笑った。一言でいいのか、あれで」
「カイン様らしいですわ」
「確かにな」
お兄様が口の端を上げた。でも、すぐに表情が戻った。
「エリナ」
声のトーンが変わった。
「お兄様?」
お兄様がグラスを置いた。窓の外から視線を戻して、こちらを見た。
こういう顔は、珍しかった。いつもの軽口も、からかいも、カイン様への牽制もない。
ただ、兄の顔だった。
「お前がいなくなって——正直、寂しかった」
わたくしは何も言えなかった。
「辺境に行ったと聞いたとき。最初は、父上が何を考えているんだと思った。婚約破棄された娘を、あんな遠い土地に一人でやるなんて。もしお前が不幸なら、俺がすぐ迎えに行くつもりだった」
お兄様が葡萄酒を一口飲んだ。
「でも、お前からの手紙を読むたびに——何だかわからなくなってきた。楽しそうで。生き生きしていて。あの辺境伯への文句ひとつ書かずに、帳簿がどうとか村の水路がどうとか、そんなことばかり」
(前世の癖が出すぎて、大変だった時期もあったけれど)
「お前が変わっていくのが、手紙から伝わってきた。良い方向に。俺が思っていたよりずっと大きく」
お兄様の言葉が途切れた。
「そして王都に来たとき——あの辺境伯の隣に立っているお前を見たら、もう何も言えなかった」
静かな声だった。
「俺が口出しする余地が、何一つなかった。お前の目が、違ったから」
目が、違う。
「どう違いましたか」
聞いた。素直に聞きたかった。
お兄様がしばらく考えた。
「王都にいた頃のエリナは——どこか、萎縮していた。アルフレートのことで余裕がなかったのかもしれない。でも辺境から戻ってきたお前は、地に足がついていた。自分の場所を持っている人間の顔をしていた」
「お兄様」
声が少し詰まった。
「わたくしがここまで来られたのは、お兄様がいてくれたからです」
お兄様が眉を上げた。
「手紙です。最初の、あの手紙」
辺境に着いたばかりの頃。誰も笑わなくて、寒くて、前途が全く見えなかった日に届いた手紙。
『エリナへ。どんな場所であっても、お前はお前だ。それだけを伝えたい。——クラウスより』
あの十数行が、わたくしを立たせてくれた。
「あれだけですよ。たった一枚の手紙で。でも、あの手紙があったから、わたくしは次の日も仕事ができました」
お兄様が目を逸らした。窓の外を見た。耳が少し赤い——ような気がしたが、燭台の灯りのせいかもしれない。
「……大げさだ」
「大げさではありません」
静寂が戻った。
でも、さっきとは違う静寂だった。
何かが解けたような時間だった。言葉にしなくても伝わっていたことが、ようやく言葉になった。そういう夜だった。
「それに」と、わたくしは続けた。
「お兄様が定期的に手紙をくださったから、王都のことがわかりました。貴族社会の動き、シュテファン殿下のご様子、父上の体調。孤立していなかったのは、お兄様のおかげです」
「そんなつもりで書いたわけじゃない」
「でも、わたくしには全部、ありがたかったのです」
お兄様が葡萄酒を飲み干した。もう一杯注いだ。
「——面倒な妹だ」
声に、笑いが混じっていた。
「お兄様こそ、面倒なお兄様ですわ」
「何が面倒だ」
「毎回カイン様に剣を向けるのは、そろそろやめてくださいませ」
「あれは挨拶だ」
「世間では挨拶と申しません」
お兄様が吹き出した。
わたくしも笑った。
こういう兄妹だった。感情をきちんと言葉にするのが苦手な二人。でも、伝わっていた。ずっと、ちゃんと伝わっていた。
「エリナ」
もう一度、お兄様が言った。
「幸せにしてもらえよ」
命令形だった。
でも、声が柔らかかった。
「はい」
短く答えた。それで十分だった。
二人でしばらく葡萄酒を飲んだ。
燭台の炎が、かすかに揺れていた。
「しかし」
お兄様が突然言った。
「あの辺境伯、いざとなったら俺の妹の膝で眠るような男だとは思わなかった」
「お兄様っ」
「ヨハンナから聞いた。旅の途中、ぐっすり眠ったそうじゃないか」
「あれは——事情がありまして」
「いや、いい。案外可愛いやつだとは思っている。保留期間をもう少し延ばしてやってもいい」
「殺す気は最初からないくせに」
お兄様がまた笑った。
その顔が好きだった。
本音を話してくれる夜が、好きだった。
窓の外に、王都の夜が広がっている。
ここにいるのも、あと少し。
でも、わたくしには帰る場所がある。
そして、兄がいる。
それだけで、十分すぎるほどだった。
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