第102話「王都を去る前に」
第102話「王都を去る前に」
王都最終日の朝は、澄んでいた。
空が高い。石畳に光が落ちている。馬車の音と人々の声が、窓の外から聞こえてくる。
こういう朝を、最初に王都を離れた日にも迎えた気がする。でも、あの日の胸の底には冷たさがあった。
今は、違う。
午前中にシュテファン殿下との面会があった。
謁見室ではなく、殿下の執務室に通された。書棚が三面を覆い、羊皮紙の束がいくつも積まれている。殿下は書状に目を落としていたが、わたくしたちが入ると立ち上がった。
「よく来てくれた。今日はゆっくりできる時間がある」
椅子を勧められた。お茶が出た。殿下が向かいに座った。
「婚約発表、おめでとう。父上も喜んでいた——昨日の書状でそう読んだ」
「陛下のご祝辞、身に余ります」
殿下が少し笑った。
「辺境伯領のことだが」
静かな声に切り替わった。執務の顔だった。
「先の連邦との交渉の報告を、改めて精査した。あなた方の対応は、王国としての最善だった。辺境伯領は——今や王国の模範的な統治例になりつつある」
「過分なお言葉です」
「過分ではない。数字が証明している。辺境の税収、治安、人口動態——三年前と今を比べれば、誰にでもわかる」
殿下がカイン様に目を向けた。
「カイン殿。不器用だが、信頼に値する男だ」
「……ありがとうございます」
カイン様の声は短い。でも、この人なりの最大限の返答だということは、わかる。殿下も、それを知っているようだった。微かに口元が緩んだ。
「一つ、話しておきたいことがある」
殿下の声が、さらに落ちた。
「父上の体調が、最近優れない」
わたくしはカイン様と視線を交わした。
「王城の医師たちは、疲労と言っているが——長引いている。冬から改善しない。父上自身も、その……覚悟のようなものを口にされることが増えた」
殿下が窓の外を見た。
「王位の継承は——近いかもしれない」
静かな言葉だった。
王位の継承。シュテファン殿下が国王になる。
(前世の感覚でいえば、政権交代だ。ただしこちらの世界では、親から子への継承)
「殿下」
言葉を選んだ。
「シュテファン様が国王になられた暁には——辺境のことも、どうぞよろしくお願いいたします」
「もちろんだ。それが、今日あなた方に会った理由の一つでもある。辺境伯、あなたを必要としている。王国は、あなたと——この方を必要としている」
殿下がわたくしを見た。
わたくしを。
「辺境の経済政策を考えた者がいる。その知恵は、辺境だけにとどめておくには惜しい。時が来たら、王国規模での相談に乗っていただけるか」
「もちろんです」
即答した。
でも、それよりも、殿下がこういう形で認めてくださっていたことの方が、胸に沁みた。
面会が終わり、廊下を歩いた。
ヴァルトシュタイン邸への帰り道。いつもとは少し違う経路を選んでいた。
気づいたのは、見覚えのある広い扉の前に来たときだった。
大広間だった。
足が止まった。
昼間の大広間は、明るかった。清掃の使用人が遠くで動いている。シャンデリアの硝子が日の光を受けて輝いている。
あの夜見た、月明かりだけの広間とは全く別の場所のようだった。
「エリナ」
カイン様が隣に立った。
「ここは」と言いかけた。でも、カイン様はもう知っているだろう。あの夜、大広間まで追いかけてきてくれたのだから。
「前に——一人でここに来ました。連邦との騒動のときです」
「覚えている」
短く言った。
大広間を見渡した。人々が行き来している。使用人が椅子を並べ直している。どこかで足音がする。
日常の広間だった。
「もう、ここは——ただの広間ですわ」
声に出してみた。
それが本当だとわかった。
一年半前のあの夜の恐怖も、前世の夜に泣いたことも、全部この場所で完結した。もう終わったことだ。今のわたくしには、怖い場所ではない。
ただ、王城にある広い部屋。それだけだった。
「行くか」
カイン様が言った。
「はい」
二人で歩き出した。
大広間の前を通り過ぎた。振り返らなかった。
ヴァルトシュタイン邸への道を歩きながら、空を見た。
青い空だった。春の終わりの王都の空。
シュテファン殿下の言葉が、まだ胸の中にあった。
王位の継承が近い。新しい国王の治世が始まる。その中で、辺境が認められている。
(前世でいえば、次の時代に向かっている感じだ。新しい局面)
「カイン様」
「何だ」
「辺境に帰ったら——また二人でお茶を飲みましょう。何でもない日の、何でもない朝に」
カイン様が少し間を置いた。
「……ああ」
短い返事だった。
でも、その声が好きだった。
王都での最後の昼が、静かに過ぎていった。
明日の朝、辺境に向かう。帰り道には、少し寄り道をする予定がある。
気は重くなかった。
ただ、決意があった。
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朝早く、王都を発った。
馬車が石畳の上を進む。王城の尖塔が遠ざかっていく。朝の市場が開き始めていて、野菜の売り声や荷馬の蹄の音が混じり合っている。
いつか来た道だ。でも、今日は別の場所に寄る。
馬車の窓から外を見ていると、カイン様が向かいの席から言った。
「今日の天気は持つ」
「雲が少ないですね」
「昼前には離宮の近くを通る」
短く、事実だけを言った。
それ以上は言わなかった。
わたくしも何も言わなかった。
窓の外を流れていく景色を見ながら、考えていた。
アルフレート殿下に何を言うつもりか。
正直に言えば——決めていない。
(前世でも、大切な話の前って、台本を作っておきたくなる性格だった。提案の前に話す内容を全部メモに書き出したり、謝罪の言葉を鏡の前で練習したりとか)
でも、今回はそういう気持ちにならなかった。
何を話すべきか。何を聞くべきか。何を伝えれば、双方にとって区切りになるのか。
それを考えようとするたびに、言葉が出てこなかった。
会ってみないとわからない。話してみないとわからない。
それだけが確かだった。
馬車が街道を外れた。離宮への分岐路だった。
緩い坂道を上っていく。木々の間から、白い建物が見えてきた。
かつては賓客を迎えるための離宮だったと聞いている。今は、蟄居の場所として使われている。
石造りの門が近づいてきた。
馬車が止まった。
「……着いた」
カイン様が言った。
わたくしは深く息を吸った。それから、カイン様に向き直った。
「いいえ。一人で——一人で、話をさせてください」
カイン様の目が動いた。
「カイン様が一緒だと、アルフレート殿下が本音を話せないと思います。それに——これは、わたくしとあの方の話です。わたくし一人で決着をつけなければならないことです」
カイン様が沈黙した。
長い沈黙だった。
窓の外に白い門が見える。門番らしい人影が二人、こちらを見ている。
カイン様が何かを考えていることがわかった。行かせたくない気持ちと、エリナの意思を尊重する気持ちが、あの人の中で戦っているのかもしれない。
「……わかった」
言葉が出た。
「門の前で待つ」
それだけだった。
「ありがとうございます」
馬車を降りた。
石畳が続いている。門番に名前を告げると、しばらく待たされた後で通された。
振り返ると、馬車が門の手前で止まっていた。
カイン様が馬車を降りて、門の脇に立っていた。
背筋が伸びていた。腕を組んで、壁に寄りかかっている。どこにも視線を向けていないようで、すべてを見ている目だった。
(守っている。ここから。自分なりの形で)
胸の奥がじんとした。
前を向いた。
離宮の庭に入った。
庭は静かだった。手入れはされているが、華やかさはない。石畳の道が続いている。季節の花が植えられているが、誰もそれを楽しみに来ない場所だとわかる庭だった。
砂利を踏む音がした。
遠くから、人が歩いてくる。
近づいてくるにつれて、顔がわかった。
アルフレート殿下だった。
記憶の中の殿下と——少し違った。
痩せていた。頬がこけている。目の下に影がある。あの大広間で婚約破棄を宣言した、あの傲慢さも冷たさも、影を潜めていた。
ただ、立っていた。
真っ直ぐに立って、こちらを見ていた。
「……久しぶりだな」
殿下が口を開いた。
「はい」
わたくしも答えた。
「お元気そうで、何よりです」
聞こえる言葉ではあるが、殿下の顔には「元気」という形容は当てはまらなかった。でも、それ以外に言いようがなかった。
殿下が少し目を細めた。
「お前は——変わったな」
「そうですか」
「気のせいかもしれない。ただ、顔が違う」
空が広い。庭の端で、鳥が鳴いた。
殿下が口を開こうとして、止まった。また開いた。
何を聞くか、自分でも迷っているようだった。
わたくしは待った。
焦らなかった。
今日は——ここに来たことが、全てだと思っていた。
「一つだけ——聞いてもいいか」
殿下の声が低くなった。
「あの日——婚約を破棄したとき、お前は『ありがとうございます』と言った」
知っていた。その言葉を、殿下が気にしていたことも、何となく想像していた。
「あれは——本心だったのか」
庭に、沈黙が落ちた。
わたくしはすぐには答えなかった。
正確に答えなければならなかった。嘘をつく必要はないし、誇張する必要もない。
少し間を置いて、言葉を選んだ。
今、答えを出す。ここで。
わたくしは殿下の目を見た。
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