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婚約破棄されたので辺境で好きに生きます〜なぜか辺境伯に溺愛されていますが〜  作者: きなこ
第4章「辺境の花嫁と永遠の約束」

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第102話「王都を去る前に」

第102話「王都を去る前に」


 王都最終日の朝は、澄んでいた。


 空が高い。石畳に光が落ちている。馬車の音と人々の声が、窓の外から聞こえてくる。


 こういう朝を、最初に王都を離れた日にも迎えた気がする。でも、あの日の胸の底には冷たさがあった。


 今は、違う。


 午前中にシュテファン殿下との面会があった。


 謁見室ではなく、殿下の執務室に通された。書棚が三面を覆い、羊皮紙の束がいくつも積まれている。殿下は書状に目を落としていたが、わたくしたちが入ると立ち上がった。


 「よく来てくれた。今日はゆっくりできる時間がある」


 椅子を勧められた。お茶が出た。殿下が向かいに座った。


 「婚約発表、おめでとう。父上も喜んでいた——昨日の書状でそう読んだ」


 「陛下のご祝辞、身に余ります」


 殿下が少し笑った。


 「辺境伯領のことだが」


 静かな声に切り替わった。執務の顔だった。


 「先の連邦との交渉の報告を、改めて精査した。あなた方の対応は、王国としての最善だった。辺境伯領は——今や王国の模範的な統治例になりつつある」


 「過分なお言葉です」


 「過分ではない。数字が証明している。辺境の税収、治安、人口動態——三年前と今を比べれば、誰にでもわかる」


 殿下がカイン様に目を向けた。


 「カイン殿。不器用だが、信頼に値する男だ」


 「……ありがとうございます」


 カイン様の声は短い。でも、この人なりの最大限の返答だということは、わかる。殿下も、それを知っているようだった。微かに口元が緩んだ。


 「一つ、話しておきたいことがある」


 殿下の声が、さらに落ちた。


 「父上の体調が、最近優れない」


 わたくしはカイン様と視線を交わした。


 「王城の医師たちは、疲労と言っているが——長引いている。冬から改善しない。父上自身も、その……覚悟のようなものを口にされることが増えた」


 殿下が窓の外を見た。


 「王位の継承は——近いかもしれない」


 静かな言葉だった。


 王位の継承。シュテファン殿下が国王になる。


 (前世の感覚でいえば、政権交代だ。ただしこちらの世界では、親から子への継承)


 「殿下」


 言葉を選んだ。


 「シュテファン様が国王になられた暁には——辺境のことも、どうぞよろしくお願いいたします」


 「もちろんだ。それが、今日あなた方に会った理由の一つでもある。辺境伯、あなたを必要としている。王国は、あなたと——この方を必要としている」


 殿下がわたくしを見た。


 わたくしを。


 「辺境の経済政策を考えた者がいる。その知恵は、辺境だけにとどめておくには惜しい。時が来たら、王国規模での相談に乗っていただけるか」


 「もちろんです」


 即答した。


 でも、それよりも、殿下がこういう形で認めてくださっていたことの方が、胸に沁みた。


 面会が終わり、廊下を歩いた。


 ヴァルトシュタイン邸への帰り道。いつもとは少し違う経路を選んでいた。


 気づいたのは、見覚えのある広い扉の前に来たときだった。


 大広間だった。


 足が止まった。


 昼間の大広間は、明るかった。清掃の使用人が遠くで動いている。シャンデリアの硝子が日の光を受けて輝いている。


 あの夜見た、月明かりだけの広間とは全く別の場所のようだった。


 「エリナ」


 カイン様が隣に立った。


 「ここは」と言いかけた。でも、カイン様はもう知っているだろう。あの夜、大広間まで追いかけてきてくれたのだから。


 「前に——一人でここに来ました。連邦との騒動のときです」


 「覚えている」


 短く言った。


 大広間を見渡した。人々が行き来している。使用人が椅子を並べ直している。どこかで足音がする。


 日常の広間だった。


 「もう、ここは——ただの広間ですわ」


 声に出してみた。


 それが本当だとわかった。


 一年半前のあの夜の恐怖も、前世の夜に泣いたことも、全部この場所で完結した。もう終わったことだ。今のわたくしには、怖い場所ではない。


 ただ、王城にある広い部屋。それだけだった。


 「行くか」


 カイン様が言った。


 「はい」


 二人で歩き出した。


 大広間の前を通り過ぎた。振り返らなかった。


 ヴァルトシュタイン邸への道を歩きながら、空を見た。


 青い空だった。春の終わりの王都の空。


 シュテファン殿下の言葉が、まだ胸の中にあった。


 王位の継承が近い。新しい国王の治世が始まる。その中で、辺境が認められている。


 (前世でいえば、次の時代に向かっている感じだ。新しい局面)


 「カイン様」


 「何だ」


 「辺境に帰ったら——また二人でお茶を飲みましょう。何でもない日の、何でもない朝に」


 カイン様が少し間を置いた。


 「……ああ」


 短い返事だった。


 でも、その声が好きだった。


 王都での最後の昼が、静かに過ぎていった。


 明日の朝、辺境に向かう。帰り道には、少し寄り道をする予定がある。


 気は重くなかった。


 ただ、決意があった。



---


 朝早く、王都を発った。


 馬車が石畳の上を進む。王城の尖塔が遠ざかっていく。朝の市場が開き始めていて、野菜の売り声や荷馬の蹄の音が混じり合っている。


 いつか来た道だ。でも、今日は別の場所に寄る。


 馬車の窓から外を見ていると、カイン様が向かいの席から言った。


 「今日の天気は持つ」


 「雲が少ないですね」


 「昼前には離宮の近くを通る」


 短く、事実だけを言った。


 それ以上は言わなかった。


 わたくしも何も言わなかった。


 窓の外を流れていく景色を見ながら、考えていた。


 アルフレート殿下に何を言うつもりか。


 正直に言えば——決めていない。


 (前世でも、大切な話の前って、台本を作っておきたくなる性格だった。提案の前に話す内容を全部メモに書き出したり、謝罪の言葉を鏡の前で練習したりとか)


 でも、今回はそういう気持ちにならなかった。


 何を話すべきか。何を聞くべきか。何を伝えれば、双方にとって区切りになるのか。


 それを考えようとするたびに、言葉が出てこなかった。


 会ってみないとわからない。話してみないとわからない。


 それだけが確かだった。


 馬車が街道を外れた。離宮への分岐路だった。


 緩い坂道を上っていく。木々の間から、白い建物が見えてきた。


 かつては賓客を迎えるための離宮だったと聞いている。今は、蟄居の場所として使われている。


 石造りの門が近づいてきた。


 馬車が止まった。


 「……着いた」


 カイン様が言った。


 わたくしは深く息を吸った。それから、カイン様に向き直った。


 「いいえ。一人で——一人で、話をさせてください」


 カイン様の目が動いた。


 「カイン様が一緒だと、アルフレート殿下が本音を話せないと思います。それに——これは、わたくしとあの方の話です。わたくし一人で決着をつけなければならないことです」


 カイン様が沈黙した。


 長い沈黙だった。


 窓の外に白い門が見える。門番らしい人影が二人、こちらを見ている。


 カイン様が何かを考えていることがわかった。行かせたくない気持ちと、エリナの意思を尊重する気持ちが、あの人の中で戦っているのかもしれない。


 「……わかった」


 言葉が出た。


 「門の前で待つ」


 それだけだった。


 「ありがとうございます」


 馬車を降りた。


 石畳が続いている。門番に名前を告げると、しばらく待たされた後で通された。


 振り返ると、馬車が門の手前で止まっていた。


 カイン様が馬車を降りて、門の脇に立っていた。


 背筋が伸びていた。腕を組んで、壁に寄りかかっている。どこにも視線を向けていないようで、すべてを見ている目だった。


 (守っている。ここから。自分なりの形で)


 胸の奥がじんとした。


 前を向いた。


 離宮の庭に入った。


 庭は静かだった。手入れはされているが、華やかさはない。石畳の道が続いている。季節の花が植えられているが、誰もそれを楽しみに来ない場所だとわかる庭だった。


 砂利を踏む音がした。


 遠くから、人が歩いてくる。


 近づいてくるにつれて、顔がわかった。


 アルフレート殿下だった。


 記憶の中の殿下と——少し違った。


 痩せていた。頬がこけている。目の下に影がある。あの大広間で婚約破棄を宣言した、あの傲慢さも冷たさも、影を潜めていた。


 ただ、立っていた。


 真っ直ぐに立って、こちらを見ていた。


 「……久しぶりだな」


 殿下が口を開いた。


 「はい」


 わたくしも答えた。


 「お元気そうで、何よりです」


 聞こえる言葉ではあるが、殿下の顔には「元気」という形容は当てはまらなかった。でも、それ以外に言いようがなかった。


 殿下が少し目を細めた。


 「お前は——変わったな」


 「そうですか」


 「気のせいかもしれない。ただ、顔が違う」


 空が広い。庭の端で、鳥が鳴いた。


 殿下が口を開こうとして、止まった。また開いた。


 何を聞くか、自分でも迷っているようだった。


 わたくしは待った。


 焦らなかった。


 今日は——ここに来たことが、全てだと思っていた。


 「一つだけ——聞いてもいいか」


 殿下の声が低くなった。


 「あの日——婚約を破棄したとき、お前は『ありがとうございます』と言った」


 知っていた。その言葉を、殿下が気にしていたことも、何となく想像していた。


 「あれは——本心だったのか」


 庭に、沈黙が落ちた。


 わたくしはすぐには答えなかった。


 正確に答えなければならなかった。嘘をつく必要はないし、誇張する必要もない。


 少し間を置いて、言葉を選んだ。


 今、答えを出す。ここで。


 わたくしは殿下の目を見た。


---


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