第103話「あの日の答え」
第103話「あの日の答え」
殿下の目を、真っ直ぐに見た。
疲れた目だった。
ただそれだけではない。何かをずっと抱えてきたような目だった。
「はい」
わたくしは答えた。
「あの日の『ありがとうございます』は、嘘ではありませんでした」
殿下が動かなかった。
「あの日のおかげで、わたくしは辺境に行けました。だから、ありがとうございます、は本心でした」
静かに言った。責める声ではなく、怒りの声でもなく。ただ、事実として。
殿下が目を伏せた。
「そうか」
低い声だった。
安堵でも、納得でもなく、もっと複雑な何かが混じっている声だった。
「わたくしはあの頃、辺境に行くことを恐れていました。でも今から思えば——あの婚約破棄がなければ、わたくしは今もこの王都で、誰かの期待に応えようとしていたと思います」
殿下が顔を上げた。
「辺境で、どうだったのだ」
少しだけ、声が変わった。
命令でも質問でもない。独り言に近いような聞き方だった。
「最初は、大変でした」
率直に言った。
「冬が厳しくて、仕事の量も多くて、自分に何ができるのかわからなくて。何度か、挫けそうになりました」
「でも?」
「でも、必要とされる場所がありました。わたくしの仕事が、誰かの生活を変えた。それが嬉しかったのです」
殿下が黙って聞いていた。
「帳簿を整えたら村の収支が安定した。取引を仲介したら燻製の産品が王都まで届いた。村の子供に読み書きを教えたら、その子が将来の目標を持てた。小さなことですが、全部、自分の手で積み上げたものでした」
(前世では仕事の成果が自分のものになっている実感がなかった。会社の数字に埋もれていくだけだった。辺境は違った)
殿下が庭の石畳を見た。
「俺は……」
言いかけて、止まった。
続きを待った。
「俺は、お前が辺境で活躍していると聞いたとき……何を感じたのか、自分でもわからなかった」
「それは——」
「何も感じなかったわけではない。ただ……うまく言葉にならなかった。お前が幸せそうだと知ったとき——悔しかったのか、それとも良かったと思ったのか、今もわからない」
その言葉は、予想していなかった。
「良かった、と思ったのではないですか」
わたくしは言った。
「殿下は、根っからの悪人ではありません。わたくしはそう思っています」
殿下が顔を上げた。
驚いたような目だった。
「根っから、ではない——か」
「はい。ただ、あの頃の殿下は見えていなかったものが多かった。わたくしのことも。わたくし以外の人のことも。きっと、自分自身のことも」
殿下の顎が少し動いた。何かを飲み込むような動きだった。
庭に、風が来た。
春の終わりの風だった。草の香りがした。
「今は、見えているか」
殿下が、ほとんど独り言のように言った。
「蟄居してから、本を読むようになった。農業の本。流通の本。辺境の報告書の写し」
意外だった。でも、そう言われると、この一年で殿下の顔から何かが変わった理由がわかる気がした。
傲慢さが抜けた分、何かが出てきたのかもしれない。まだ形にはなっていないが、何かが。
「良かったと思います」
本音で言った。
「わたくしが言えることではないかもしれませんが、これからの時間を無駄にしないでください」
殿下が少し目を細めた。
「お前は——変わったな」
もう一度、同じ言葉を言った。
「変わりました。辺境が変えてくれました。カイン様が……」
言いかけて、止めた。
「大切な方がいるのだな」
殿下が言った。
「はい」
迷わず答えた。
殿下が頷いた。静かに、一度だけ。
その顔に、あの大広間の夜の殿下の面影が、少しだけ重なった。
でも、重なったのは一瞬だけだった。今目の前にいる殿下は、あの夜の殿下とは別の人間だった。
「殿下」
わたくしは言った。
「まだ、聞いていただけますか」
殿下が目を上げた。
「わたくしはあの日のことを——怒っていないかと言えば、嘘になります。あの夜の大広間は、怖かったし、惨めでした」
殿下の目が揺れた。
「でも——それも、今となっては過去のことです。あの日があったから今がある。今が幸せだから——あの日を憎むことに、意味を感じなくなりました」
殿下がゆっくりと息を吐いた。
「そうか」
静かな声だった。
「明日は——ない、とは言えない。でも、お前がそう言ってくれるなら」
言葉が続かなかった。
続かなくて、いいと思った。
わたくしはもう一度、殿下の目を見た。
伝えたいことは、伝えた。
殿下が何かを、まだ言おうとしているのがわかった。
でも、その言葉はまだ出てこなかった。
急がなかった。
この場所で、この人が言葉を探している。それを待つのに、何の苦もなかった。
庭の端の花が、風に揺れていた。
---
庭の石畳に、光が斜めに落ちていた。
少し雲が出ている。庭木の影が揺れる。風がまた吹いて、草の香りを運んだ。
殿下がしばらく、何も言わなかった。
わたくしも待った。
急かすつもりはなかった。この沈黙は、必要な沈黙だと思っていた。
「……エリナ」
殿下が言った。
名前を呼ばれたのは、久しぶりだった。婚約していた頃も、こんなに静かな声では呼ばれなかった。
「すまなかった」
殿下の頭が下がった。
深く、ゆっくりと。
(これは本物だ)
表面だけの謝罪ではないとわかった。どこかに言い訳が混じっているわけでも、取り繕いがあるわけでもない。
ただ、それだけの言葉だった。
わたくしは、少しだけ間を置いた。
この答えは、ずっと考えていた。いや、考えようとするたびに、うまく言葉にならなかった。
「恨んではおりません」
言った。
殿下が頭を上げた。
「でも——許すとも、申しません」
殿下の目が揺れた。
「あなたがしたことは、あなた自身が引き受けるものです。わたくしが許すかどうかは、関係ない。あの夜のことは、あなたの行いとして、あなたの中にあり続ける」
声を荒げなかった。
諭すつもりもなかった。
ただ、思っていることを言った。
「わたくしはあの日から先を生きることができました。恨みを持ち続けるより、前を向く方がわたくしには大切でした。だから恨んでいない。それだけです」
「……そうか」
殿下の声が、低く掠れた。
「それが……一番、辛い答えかもしれない」
「そうですか」
「怒ってくれた方が——まだよかったかもしれない」
「では怒りましょうか」
殿下が少し目を見開いた。わたくしは微かに微笑んだ。
「でも、わたくしに怒る気力は残っていません。もうそういう気持ちは、どこかに置いてきました」
「置いてきた」
「はい。辺境の大河のそばに、でも、帳簿の中に、あるいは村の畑の土の下に。一つずつ置いてきました」
殿下が何かを言おうとして、止まった。
その代わりに、低い声で呟いた。
「——兄上のようになれなかった」
小さな言葉だった。
でも、聞こえた。
シュテファン殿下。聡明で、静かで、公正な第一王子。
弟として、ずっと比べられてきたのかもしれない。
「シュテファン殿下も、きっと完璧ではありません」
わたくしは言った。
「ただ、あの方は自分の弱さを知っていると思います。知った上で、丁寧に動いている。それだけの違いかもしれません」
殿下が俯いた。
「知った上で——か」
「はい。今のあなたは、あの頃より多くのものを見ているはずです。本を読んでいると言っていました。農業の本も、流通の本も。それは、知ろうとしているということですわ」
殿下がゆっくりと顔を上げた。
目が少し違った。最初に会ったときより、何か違う光が入っている。
「お前は——甘いのか、厳しいのか、わからない女だな」
「甘くも厳しくもありません。ただ正直なだけです」
殿下が息を吐いた。
「そうだな」
静かな声だった。
「——お前が辺境に行ったとき。あの頃の俺には、こういう話ができる余裕がなかった。何かを見ようとしていなかった。見ていたのは自分のことだけだった」
「それが変わりました」
「変われたかどうかはわからない。ただ、知ろうとはしている。それだけだ」
「それで十分だと思います」
殿下が短く頷いた。
わたくしは一歩、引いた。
「ご自愛ください」
最後に言った。
礼儀のための言葉ではなかった。本心だった。
目の下に影があって、頬がこけているこの人が、この先どうなるかはわからない。蟄居が続くのか、いつか社会に戻れるのか。わたくしには関係のないことだ。
でも、ここまでこの人が辿り着いたことは、事実だった。
「……ああ」
殿下が答えた。
もう一度、頭を下げた。今度は深くではなく、ただ静かに。
わたくしは踵を返した。
庭の石畳を戻っていく。砂利の音が静かに響く。
来たときと同じ道。でも、帰りは軽かった。
門が近づいてきた。
カイン様が、門の脇に立っていた。
腕を組んだまま、壁に寄りかかっていた。先ほどと同じ場所に、同じ姿勢で。
でも、顔だけがこちらを向いていた。
「——終わった」
わたくしは言った。
「ああ」
短く答えた。
それだけだった。
何を話したか、聞かなかった。どうだったか、問わなかった。
ただ、手が伸びてきた。
わたくしの手を取った。そのまま馬車に向かった。
手が、肌に熱を伝えてくる。指先が力を帯びている。
馬車に乗った。扉が閉まった。
向かいの席に座ると、カイン様がそのまま隣に来た。いつもより近い場所に座った。
何も言わなかった。
肩が触れていた。
馬車が動き出した。
窓の外に、離宮の白い壁が遠ざかっていく。庭木の影が消えていく。
目を閉じた。
全部、終わった。
恨んでいない。
許してもいない。
でも、決着がついた。
あの夜は、わたくしの始まりだった。そしてこれからも、そのまま記憶の中にあり続ける。ただ、もう重くはない。
目を開けると、カイン様が前を向いていた。
「カイン様」
「何だ」
「帰りましょう」
カイン様が頷いた。
「ああ。帰るぞ」
馬車が大きく揺れた。辺境への道に入ったのだろう。
わたくしは窓の外に目を向けた。
空が広かった。
王都の空より、少しだけ高いような気がした。
辺境の空は、きっともっと広い。
帰る場所がある。
待っている人たちがいる。
この人が、隣にいる。
それで、十分だった。
◇
離宮の二階の窓から、男が見ていた。
あの女が門に向かって歩いてくる。真っ直ぐな背中だった。
門の前で、男が壁から身を起こした。手を伸ばした。あの女がその手を取った。迷いなく。自然に。
二人の背中が馬車に消えていく。
アルフレートは窓枠に手をついたまま、動けなかった。
(俺には一度も——あんなふうに、手を差し出されたことがなかった)
いや。差し出さなかったのは、俺の方だ。
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