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婚約破棄されたので辺境で好きに生きます〜なぜか辺境伯に溺愛されていますが〜  作者: きなこ
第4章「辺境の花嫁と永遠の約束」

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第103話「あの日の答え」

第103話「あの日の答え」


 殿下の目を、真っ直ぐに見た。


 疲れた目だった。


 ただそれだけではない。何かをずっと抱えてきたような目だった。


 「はい」


 わたくしは答えた。


 「あの日の『ありがとうございます』は、嘘ではありませんでした」


 殿下が動かなかった。


 「あの日のおかげで、わたくしは辺境に行けました。だから、ありがとうございます、は本心でした」


 静かに言った。責める声ではなく、怒りの声でもなく。ただ、事実として。


 殿下が目を伏せた。


 「そうか」


 低い声だった。


 安堵でも、納得でもなく、もっと複雑な何かが混じっている声だった。


 「わたくしはあの頃、辺境に行くことを恐れていました。でも今から思えば——あの婚約破棄がなければ、わたくしは今もこの王都で、誰かの期待に応えようとしていたと思います」


 殿下が顔を上げた。


 「辺境で、どうだったのだ」


 少しだけ、声が変わった。


 命令でも質問でもない。独り言に近いような聞き方だった。


 「最初は、大変でした」


 率直に言った。


 「冬が厳しくて、仕事の量も多くて、自分に何ができるのかわからなくて。何度か、挫けそうになりました」


 「でも?」


 「でも、必要とされる場所がありました。わたくしの仕事が、誰かの生活を変えた。それが嬉しかったのです」


 殿下が黙って聞いていた。


 「帳簿を整えたら村の収支が安定した。取引を仲介したら燻製の産品が王都まで届いた。村の子供に読み書きを教えたら、その子が将来の目標を持てた。小さなことですが、全部、自分の手で積み上げたものでした」


 (前世では仕事の成果が自分のものになっている実感がなかった。会社の数字に埋もれていくだけだった。辺境は違った)


 殿下が庭の石畳を見た。


 「俺は……」


 言いかけて、止まった。


 続きを待った。


 「俺は、お前が辺境で活躍していると聞いたとき……何を感じたのか、自分でもわからなかった」


 「それは——」


 「何も感じなかったわけではない。ただ……うまく言葉にならなかった。お前が幸せそうだと知ったとき——悔しかったのか、それとも良かったと思ったのか、今もわからない」


 その言葉は、予想していなかった。


 「良かった、と思ったのではないですか」


 わたくしは言った。


 「殿下は、根っからの悪人ではありません。わたくしはそう思っています」


 殿下が顔を上げた。


 驚いたような目だった。


 「根っから、ではない——か」


 「はい。ただ、あの頃の殿下は見えていなかったものが多かった。わたくしのことも。わたくし以外の人のことも。きっと、自分自身のことも」


 殿下の顎が少し動いた。何かを飲み込むような動きだった。


 庭に、風が来た。


 春の終わりの風だった。草の香りがした。


 「今は、見えているか」


 殿下が、ほとんど独り言のように言った。


 「蟄居してから、本を読むようになった。農業の本。流通の本。辺境の報告書の写し」


 意外だった。でも、そう言われると、この一年で殿下の顔から何かが変わった理由がわかる気がした。


 傲慢さが抜けた分、何かが出てきたのかもしれない。まだ形にはなっていないが、何かが。


 「良かったと思います」


 本音で言った。


 「わたくしが言えることではないかもしれませんが、これからの時間を無駄にしないでください」


 殿下が少し目を細めた。


 「お前は——変わったな」


 もう一度、同じ言葉を言った。


 「変わりました。辺境が変えてくれました。カイン様が……」


 言いかけて、止めた。


 「大切な方がいるのだな」


 殿下が言った。


 「はい」


 迷わず答えた。


 殿下が頷いた。静かに、一度だけ。


 その顔に、あの大広間の夜の殿下の面影が、少しだけ重なった。


 でも、重なったのは一瞬だけだった。今目の前にいる殿下は、あの夜の殿下とは別の人間だった。


 「殿下」


 わたくしは言った。


 「まだ、聞いていただけますか」


 殿下が目を上げた。


 「わたくしはあの日のことを——怒っていないかと言えば、嘘になります。あの夜の大広間は、怖かったし、惨めでした」


 殿下の目が揺れた。


 「でも——それも、今となっては過去のことです。あの日があったから今がある。今が幸せだから——あの日を憎むことに、意味を感じなくなりました」


 殿下がゆっくりと息を吐いた。


 「そうか」


 静かな声だった。


 「明日は——ない、とは言えない。でも、お前がそう言ってくれるなら」


 言葉が続かなかった。


 続かなくて、いいと思った。


 わたくしはもう一度、殿下の目を見た。


 伝えたいことは、伝えた。


 殿下が何かを、まだ言おうとしているのがわかった。


 でも、その言葉はまだ出てこなかった。


 急がなかった。


 この場所で、この人が言葉を探している。それを待つのに、何の苦もなかった。


 庭の端の花が、風に揺れていた。



---


 庭の石畳に、光が斜めに落ちていた。


 少し雲が出ている。庭木の影が揺れる。風がまた吹いて、草の香りを運んだ。


 殿下がしばらく、何も言わなかった。


 わたくしも待った。


 急かすつもりはなかった。この沈黙は、必要な沈黙だと思っていた。


 「……エリナ」


 殿下が言った。


 名前を呼ばれたのは、久しぶりだった。婚約していた頃も、こんなに静かな声では呼ばれなかった。


 「すまなかった」


 殿下の頭が下がった。


 深く、ゆっくりと。


 (これは本物だ)


 表面だけの謝罪ではないとわかった。どこかに言い訳が混じっているわけでも、取り繕いがあるわけでもない。


 ただ、それだけの言葉だった。


 わたくしは、少しだけ間を置いた。


 この答えは、ずっと考えていた。いや、考えようとするたびに、うまく言葉にならなかった。


 「恨んではおりません」


 言った。


 殿下が頭を上げた。


 「でも——許すとも、申しません」


 殿下の目が揺れた。


 「あなたがしたことは、あなた自身が引き受けるものです。わたくしが許すかどうかは、関係ない。あの夜のことは、あなたの行いとして、あなたの中にあり続ける」


 声を荒げなかった。


 諭すつもりもなかった。


 ただ、思っていることを言った。


 「わたくしはあの日から先を生きることができました。恨みを持ち続けるより、前を向く方がわたくしには大切でした。だから恨んでいない。それだけです」


 「……そうか」


 殿下の声が、低く掠れた。


 「それが……一番、辛い答えかもしれない」


 「そうですか」


 「怒ってくれた方が——まだよかったかもしれない」


 「では怒りましょうか」


 殿下が少し目を見開いた。わたくしは微かに微笑んだ。


 「でも、わたくしに怒る気力は残っていません。もうそういう気持ちは、どこかに置いてきました」


 「置いてきた」


 「はい。辺境の大河のそばに、でも、帳簿の中に、あるいは村の畑の土の下に。一つずつ置いてきました」


 殿下が何かを言おうとして、止まった。


 その代わりに、低い声で呟いた。


 「——兄上のようになれなかった」


 小さな言葉だった。


 でも、聞こえた。


 シュテファン殿下。聡明で、静かで、公正な第一王子。


 弟として、ずっと比べられてきたのかもしれない。


 「シュテファン殿下も、きっと完璧ではありません」


 わたくしは言った。


 「ただ、あの方は自分の弱さを知っていると思います。知った上で、丁寧に動いている。それだけの違いかもしれません」


 殿下が俯いた。


 「知った上で——か」


 「はい。今のあなたは、あの頃より多くのものを見ているはずです。本を読んでいると言っていました。農業の本も、流通の本も。それは、知ろうとしているということですわ」


 殿下がゆっくりと顔を上げた。


 目が少し違った。最初に会ったときより、何か違う光が入っている。


 「お前は——甘いのか、厳しいのか、わからない女だな」


 「甘くも厳しくもありません。ただ正直なだけです」


 殿下が息を吐いた。


 「そうだな」


 静かな声だった。


 「——お前が辺境に行ったとき。あの頃の俺には、こういう話ができる余裕がなかった。何かを見ようとしていなかった。見ていたのは自分のことだけだった」


 「それが変わりました」


 「変われたかどうかはわからない。ただ、知ろうとはしている。それだけだ」


 「それで十分だと思います」


 殿下が短く頷いた。


 わたくしは一歩、引いた。


 「ご自愛ください」


 最後に言った。


 礼儀のための言葉ではなかった。本心だった。


 目の下に影があって、頬がこけているこの人が、この先どうなるかはわからない。蟄居が続くのか、いつか社会に戻れるのか。わたくしには関係のないことだ。


 でも、ここまでこの人が辿り着いたことは、事実だった。


 「……ああ」


 殿下が答えた。


 もう一度、頭を下げた。今度は深くではなく、ただ静かに。


 わたくしは踵を返した。


 庭の石畳を戻っていく。砂利の音が静かに響く。


 来たときと同じ道。でも、帰りは軽かった。


 門が近づいてきた。


 カイン様が、門の脇に立っていた。


 腕を組んだまま、壁に寄りかかっていた。先ほどと同じ場所に、同じ姿勢で。


 でも、顔だけがこちらを向いていた。


 「——終わった」


 わたくしは言った。


 「ああ」


 短く答えた。


 それだけだった。


 何を話したか、聞かなかった。どうだったか、問わなかった。


 ただ、手が伸びてきた。


 わたくしの手を取った。そのまま馬車に向かった。


 手が、肌に熱を伝えてくる。指先が力を帯びている。


 馬車に乗った。扉が閉まった。


 向かいの席に座ると、カイン様がそのまま隣に来た。いつもより近い場所に座った。


 何も言わなかった。


 肩が触れていた。


 馬車が動き出した。


 窓の外に、離宮の白い壁が遠ざかっていく。庭木の影が消えていく。


 目を閉じた。


 全部、終わった。


 恨んでいない。


 許してもいない。


 でも、決着がついた。


 あの夜は、わたくしの始まりだった。そしてこれからも、そのまま記憶の中にあり続ける。ただ、もう重くはない。


 目を開けると、カイン様が前を向いていた。


 「カイン様」


 「何だ」


 「帰りましょう」


 カイン様が頷いた。


 「ああ。帰るぞ」


 馬車が大きく揺れた。辺境への道に入ったのだろう。


 わたくしは窓の外に目を向けた。


 空が広かった。


 王都の空より、少しだけ高いような気がした。


 辺境の空は、きっともっと広い。


 帰る場所がある。


 待っている人たちがいる。


 この人が、隣にいる。


 それで、十分だった。



 離宮の二階の窓から、男が見ていた。


 あの女が門に向かって歩いてくる。真っ直ぐな背中だった。


 門の前で、男が壁から身を起こした。手を伸ばした。あの女がその手を取った。迷いなく。自然に。


 二人の背中が馬車に消えていく。


 アルフレートは窓枠に手をついたまま、動けなかった。


 (俺には一度も——あんなふうに、手を差し出されたことがなかった)


 いや。差し出さなかったのは、俺の方だ。


---


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