第104話「連邦からの報せ」
第104話「連邦からの報せ」
辺境に戻る道の、三日目だった。
馬車の窓から見える景色が、少しずつ変わってきていた。
王都の整然とした石畳の道は遠くなり、土の道に砂利が混じり始めている。空の高さが違う。木の並び方が違う。
(帰っている。ちゃんと、帰っている)
宿場町を出てから半刻ほど経ったところで、馬車が一度緩やかに速度を落とした。
「お嬢様。宿場の伝令が届いております」
ヨハンナが窓越しに言った。わたくしは手を伸ばした。
ルドルフ・ハルト商会の封蝋だった。
封を切る。折りたたまれた便箋を広げると、ルドルフらしい、大きくて勢いのある字が並んでいた。
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辺境伯夫人殿、婚約発表のご成功、おめでとうございます。
ついでに一点、商人として入手した情報をお伝えします。
ベルドラント連邦にて、メリア・シュヴァルツなる人物の消息が判明しました。
連邦の中堅貴族に取り入り、当初は「王国の聖女」を名乗って厚遇を受けておりました。しかし、治癒の力を求められた際に何一つ示すことができず、嘘が露見。ある晩餐会の席で「偽者」と公言され、その場を追われたとのこと。
その後は名を変え、連邦の地方都市で平民として暮らしている模様。王国の内部情報を売り尽くした後は用済みとなり、庇護者もなく、以前の生活とは似ても似つかぬ暮らしだそうです。
これ以上の動きは見られず、商人ネットワークでの監視も解除してよいと判断しております。
本件はご報告のみ。続報は特になし。
次はご婚礼の祝いで参ります。
読み終えて、わたくしは便箋を折り戻した。
「メリア・シュヴァルツの消息が判明したそうです」
向かいの席で書類を見ていたカイン様が、顔を上げた。
「連邦の地方都市で、平民として暮らしているとのことです」
カイン様がしばらく黙った。
「……そうか」
「はい」
窓の外を、木々が流れていく。車輪が小石を踏む音がした。
わたくしは手紙を膝の上に置いた。
(聖女として称えられ、王子の寵愛を受けた人が、今は平民として見知らぬ土地にいる。それが正しいかどうかは、わたくしが判断することではない)
「自分の選択の結果ですわ」
口にすると、それが正確な言葉だと思った。
余分なものが何もない言葉。怒りでも哀れみでもなく、ただそのままの事実。
カイン様がもう一度、口を開いた。
「気の毒だ」
静かな一言だった。
わたくしはカイン様を見た。表情は変わっていない。ただ、その言葉が本心であることはわかった。
(この人はいつも、こういう言い方をする。敵であっても、道を誤った人であっても、「気の毒だ」と言える人だ)
「そうですね」
わたくしは言った。
「……そうですね」
もう一度、繰り返した。
それ以上は、何も言わなかった。
手紙を封筒に戻して、荷物の中に入れた。
次の報告はない、とルドルフは書いていた。監視も解除する、と。
それが正しい判断だと思った。
(もう、終わった話だ)
窓の外では、道が少しずつ広くなっている。左手に農地が見えた。収穫の後の土が、陽の光を受けて黒く光っていた。
「続きに」
カイン様が、何かを言いかけた。
「何ですか?」
「いや。——ルドルフが、婚礼の祝いに来ると言っていたのか」
「ええ。また騒がしくなりそうですね」
「……そうだな」
カイン様が小さく息を吐いた。その口元に、わずかに何かが過ぎった気がした。
(ルドルフが来ると聞いて、そういう顔をするのですね、カイン様)
「何か」
「いいえ、何でもありません」
わたくしは窓の外に目を戻した。
土の道が続いている。木々の向こうに、川の光が見えた。
辺境の大河は、まだ先にある。でも、近づいている。
手紙のことは、もう考えなかった。
考えるべきことは、帰ってからにしよう。大河が、もうすぐだった。
◇
連邦の地方都市。名前も知らない小さな街の、安い宿の一室。
窓の外から、市場の喧騒が聞こえている。
メリアは寝台の端に座っていた。
膝の上に置いた手が、何もしていなかった。
この街に来て、もう三月になる。名前を変えた。髪を切った。王国の聖女を名乗ったことは、もう誰にも言わない。
あの晩餐会のことを思い出す。
「治癒を見せてもらおうか」。連邦の貴族がそう言ったとき、手が震えた。石がなかった。あの光る石さえあれば——。
何も起きなかった。
「偽者だ」という声が、広間に響いた。笑い声が追いかけてきた。
あの夜から、全てが変わった。
庇護者はいなくなった。使用人もいなくなった。ドレスも、宝石も、「聖女様」と呼んでくれる声も。
宿の窓から空を見上げた。知らない街の、知らない空だった。
(石がなければ——わたしには、何もなかった)
それは、最初からわかっていたことだった。
(今も——何もない)
市場の喧騒が遠くなっていく。日が傾いてきた。
安い宿の薄い壁の向こうで、誰かが笑っている声がした。
メリアは膝の上の手を握り締めた。
涙は出なかった。泣く力も、もう残っていなかった。
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城門が見えたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
石造りの塔の先が、丘の向こうから顔を出した瞬間、胸の中で何かがほどけた。
(ああ。帰ってきた)
帰る場所がある、というのは、こういうことだった。
景色を見た瞬間に、体が先に知る。頭が「帰ってきた」と思うより前に、体がもう緩んでいる。
馬車が城下に入ると、道の両脇に人が出ていた。
「おかえりなさいませ!」
マルタの声が、どこかから飛んできた。
探すと、城下の入口に立っていた。髪が少し乱れている。走ってきたのだろう。
「婚約発表、成功でしたか!」
「もちろんですわ」
窓から顔を出して答えると、マルタが両腕を上げた。
「やったー!」
(元気だ。まったく変わっていない)
馬車が止まった。
扉が開いて、わたくしが先に降りると——
「エリナ様!」
走り込んでくる足音がした。
ルーカスだった。
息を切らしていた。頬が赤い。どこかに砂がついている。転んだのかもしれない。
「おかえりなさいませ!」
ルーカスが言った。
それから少し照れたように俯いて、「——えっと、ちゃんとした言い方で言えましたか」と付け加えた。
「とても上手に言えましたわよ、ルーカス」
「やった」
声を上げて、それからすぐ「あっ、礼儀」とまた背筋を伸ばした。
わたくしは笑いをこらえた。
(この子は本当に、いつも変わらない。ここへ来たばかりのころから、ずっとこうだ)
フリッツが正面玄関に立っていた。
いつものように直立している。表情は——と見ると、口の端がわずかに上がっていた。
フリッツが笑っていた。
わたくしは足を止めた。
「おかえりなさいませ」
低く静かな声。でも、口元だけが——笑っていた。
「ただいま戻りました、フリッツ」
フリッツが一礼した。また表情は元に戻ったが、わたくしはしっかり見た。
(フリッツが笑った。これは記録しておかなければ。カイン様に言っていいか)
カイン様の方を見ると、目が合った。カイン様がごく微かに頷いた。
(見ていたのですね。やはり、この人は気づいている)
城の中に入ると、ゾフィが厨房の方から出てきた。
「お帰りなさいよ!ご飯の用意してあるから、着替えたらすぐ来な。旅疲れにはあたしの鶏のスープが一番なんだから」
「ありがとうございます。楽しみにしていましたわ」
(謙遜というものをゾフィは知らない。でも実際に美味しいから、反論できない)
着替えを終えると、ヨハンナが温室から出てきた。
「お嬢様、少しよろしいですか」
温室の扉を開けた。
鈴蘭が、また育っていた。
葉の枚数が増えている。葉の緑が、出発前より少し深い。陽の光をちゃんと受けて、ここで育っていた。
「丁寧に見ていてくださったのですね」
「マルタも毎日見に来ておりました。ルーカス坊ちゃんも、一度水をやろうとして……」
「やろうとして?」
「ヨハンナに止められました」とマルタが廊下から顔を出した。「ルーカスが水をあげすぎようとしていたので」
「いつのまに聞いていたんですか、マルタ」
「ずっとここにいました。婚約発表の話、もっと聞かせてください! どんな様子でしたか? カイン様がスピーチをされたって本当ですか? 短すぎたって聞きましたけど、どれくらい短かったんですか?」
質問が止まらない。
(マルタはいつも、帰ってきたという実感をこんなふうに運んでくる)
「夕食のあとで、全部話しますわ」
「約束ですよ!」
マルタが走っていった。
わたくしはもう一度、温室の鈴蘭を見た。
緑の葉が、陽の光を受けて少し艶を持って光っている。
わたくしがいない間も、ここで育っていた。
(ちゃんとここにある。ちゃんと待っていてくれた)
「お嬢様」
ヨハンナが隣に来た。
「おかえりなさいませ」
声が、いつもより柔らかかった。
「ただいま戻りましたわ、ヨハンナ」
返すと、ヨハンナが小さく頷いた。
夕食の鶏のスープは、王都の料理よりずっと美味しかった。
ゾフィには黙っておいた。言ったら翌日から得意げになって、量が増えるとわかっていたから。
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