第105話「母への手紙」
第105話「母への手紙」
辺境に戻って三日目の夜、わたくしは机の前に座っていた。
帳簿ではない。
便箋を一枚、机の上に置いていた。
王都から戻ってくる馬車の中で、ずっと考えていたことがあった。
父の顔。あの廊下で聞いた話。肖像画の中の、母の目。
「お母様。わたくしは——」
声に出してみた。
続きが、出なかった。
(こんなに言葉が出ないのは、久しぶりだ。帳簿の数字が合わないときも、連邦の交渉が行き詰まったときも、こんなふうに詰まった覚えはない)
筆を取った。
便箋の上に筆先を持っていった。
止まった。
何を書けばいいのか、わからなかった。
「お母様へ」と書いても、その先が続かない。
何を伝えればいいのか。記憶がほとんどない人に、どんな言葉を送ればいいのか。
(わたくしは母のことをほとんど知らない。顔は肖像画で見た。花が好きだったと父に聞いた。それだけだ。声も、手の感触も、もう残っていない)
筆を置いた。
窓の外に、夜の辺境が広がっていた。
この地に来てから一年半を超えた。帳簿を読み、交渉をして、村を歩いた。困難があれば解決策を考え、失敗があれば学んだ。
でも今、一枚の便箋の前で、わたくしは手が動かなかった。
(前世でも——そうだった)
記憶が浮かんだ。
前世の母。日本の、あの家。
(あの頃のわたしは、仕事のことばかり考えていた。残業が終わって帰れば、食事をとってすぐ寝る。休日も書類を持ち帰った。母から電話が来ても、短く切り上げた。次の会議があるから、と。接待があるから、と)
最後に話したのは、いつだったか。
(冬の夜だったと思う。電話口で「元気か」と聞かれて、「元気よ、忙しいけど」と答えた。用件だけ聞いて、五分で電話を切った。次があったから。いつも、次があったから)
二つの「母のいない記憶」が、同じ場所に重なっていた。
前世の母には、生きているうちに伝えたいことを伝えなかった。
今世の母には、記憶がないまま、もう逢えない。
(どちらの母にも——ちゃんと向き合えなかった)
便箋が、白いままだった。
ため息が出た。
(こういうとき、ヨハンナに相談できればいいのに。でも——何と言えばいい。「母への手紙が書けません」では、ヨハンナを困らせるだけだ。それに、これはわたくしが自分で考えるべきことだ)
椅子を引いた。帳簿部屋に行こうと思った。
数字を見ている方が、今は楽だった。数字は正直だ。わからないことはわからないとはっきり示してくれる。
立ちかけたとき、扉が二度、静かに叩かれた。
「……何だ」
開けると、カイン様だった。
「遅い」
短い一言だった。
手に白い器を持っていた。
「ヨハンナに頼んだ。夜に——お茶を飲むだろう」
差し出されたのは、白い器に入った紅茶だった。
湯気が細く立っている。
「……ありがとうございます」
わたくしは受け取った。
器が、手の中でじんわりと熱を伝えてくる。
カイン様が部屋の中を少し見た。
机の上の白い便箋と、置かれたままの筆。
「……手紙か」
「ええ。書こうとしていたのですが、少し難しくて」
「そうか」
カイン様はそれ以上聞かなかった。
「ゆっくり書け」
それだけ言って、扉を閉めた。
足音が遠ざかっていく。
わたくしは紅茶の器を両手で包んで、窓際の椅子に移った。
夜の辺境。
城下の灯りがいくつか、暗い中に点在している。大河の方向に、月の光が落ちている。
「ゆっくり書け」か。
(書ける日が来るのかどうか、今のわたくしにはわからない。でも——今夜は書けなくていい、とカイン様は言ったのかもしれない)
紅茶を一口飲んだ。
ゾフィが渡してくれた茶葉の、少し甘い香りがした。
机の上の便箋は、白いままだった。
明日、また向き合おうと思った。
---
翌日も、便箋は白いままだった。
朝のお茶の時間、カイン様と向かい合っていた。カイン様は書類を見ていた。わたくしも帳簿を開いていた。
でも、数字が頭に入ってこなかった。
(どうした。数字が読めないなんて、らしくない)
「カイン様、少し温室に行ってきてもよろしいですか」
「ああ」
短い答え。いつもと変わらない。
温室に入ると、少し息が楽になった。
土の匂いと、葉の緑と、光。ここは静かだ。
鈴蘭を見た。
葉が伸びている。昨日より少し高い。
(リーゼロッテ様が育てた花。カイン様のお母様が、この手で植えた花)
見つめていると、胸の奥に何かが引っかかった。
(わたくしの母は——何を残してくれたのだろう)
父に聞いた話を思い返した。
花が好きだった。辺境の花を見たかった。でも体を壊して——行けなかった。それだけだった。
(肖像画の中の目だけは、知っている。でも声は知らない。笑うとどんな顔をするのか——全部、ない)
日常の仕事をしているときは気づかなかった。帳簿の数字が、今は違う意味を持って見えた。
(記憶がないまま、花嫁になろうとしている)
重くなった足で、鉢の前にしゃがみ込んだ。
土が黒くしっとりしている。根がしっかりと張っている。水を吸い上げて、葉の先まで届かせている。
扉が開いた。
「いたか」
カイン様だった。
「大丈夫ですわ。少し花を見ていただけで——」
言いかけて、カイン様の目を見た。
(ああ。この人には、通じない。誤魔化しが)
「……少し、うまくいかないことがあるのです」
「仕事か」
「いいえ。仕事ではなく——個人的なことです」
カイン様が待った。急かさなかった。
「もう少し、自分で考えてみます。すみません、心配させてしまいました」
「そうか」
カイン様が頷いた。それ以上は聞かなかった。
「——無理に急くな」
それだけ言って、温室を出ていった。
扉が静かに閉まった。
(この人は、いつもそうだ。深く踏み込まない。でも、いなくならない。急かさない。でも、そばにいる)
わたくしはもう一度、鈴蘭の前にしゃがみ込んだ。
(カイン様のお母様と、わたくしのお母様は——どちらも、子供の記憶の中にいない)
鈴蘭の白い蕾が、ひとつ、光の中でかすかに揺れた。
その夜、部屋で帳簿を広げていたが、内容は頭に入らなかった。
「お嬢様」
扉が叩かれた。ヨハンナが入ってきた。お茶の盆を持っていたが、目の方が何かを伝えていた。
「お茶をお持ちしました」
「ありがとう」
ヨハンナがお茶を置いて——去らなかった。
「お嬢様」
少し間があった。
「泣いてもよろしいのですよ」
(——ヨハンナ)
その一言で、胸の中で何かがひびを入れた。
「大丈夫ですわ——」
「お嬢様。今日の温室で、廊下から見えておりました」
「——わたくし、母のことを何も知らない。知らないまま、花嫁になろうとしている」
声が、自分でも思わないところから出た。
「記憶がほとんどない。顔は肖像画で見た。花が好きだったと聞いた。でも——声も笑い方も、何も、ない」
涙が出た。拭こうとしたら、止まらなかった。
(今さら——でも止まらない)
ヨハンナが隣に来た。ただ、そこにいた。
「手紙が書きたい。でも——何を書けばいいのかもわからない。記憶のない人に、何を——」
声が途切れた。
しばらく、ヨハンナは黙っていた。
「お嬢様」
やがて、静かに言った。
「明日——少し、お話ししてもよろしいでしょうか」
「……何を」
「マルグリット様のことを、わたくしが知っていることを」
胸が、震えた。
「——はい」
「おやすみなさいませ、お嬢様」
ヨハンナが一礼して、出ていった。
部屋に一人になった。
お茶を一口飲んだ。
涙の後の目が、少し痛かった。でも、胸の中は——少し前より、軽かった。
(明日、ヨハンナが話してくれる)
白い便箋は、まだ机の上にあった。
---
翌朝のお茶の時間が終わると、ヨハンナがわたくしの部屋を訪ねてきた。
「今よろしいですか、お嬢様」
「はい。どうぞ」
ヨハンナが入ってきた。向かい合って座った。
ヨハンナが少し間を置いた。
「マルグリット様に初めてお仕えしたのは——わたくしが十九のときでした」
静かに、話し始めた。
「お嬢様と同じくらいの年でした。マルグリット様は十八で。わたくしより年下でしたが——あの方は、妙に落ち着いておられた」
「どんな方でしたか」
「お嬢様に——似ておいでです。芯が強くて、一人で全部背負おうとなさる。困った方でした」
「……似ていますね」
「はい。そっくりです」
ヨハンナが微かに笑った。
「花が大好きで、春になると邸のどこかに必ず花が増えていました。体調が優れないのに庭に出て——ヴィルヘルム様に叱られても、翌日もまた庭に出ておられました」
(叱られても庭に出る。この人だな、と思った)
笑い出しそうになったのを、こらえた。
ヨハンナが続けた。
「お嬢様が生まれたときは——産室でお嬢様を抱いて、声を上げて泣かれて。わたくしも、ヴィルヘルム様も——つられて泣きました」
胸の中で何かが揺れた。
「でも——体が、どんどん弱くなっていかれました」
ヨハンナの声が、少し低くなった。
「侍女を使えばいいのに——『わたくしがいる間にやりたい』とおっしゃって。ご自分が長くないとわかっておられたのでしょう。お嬢様が二歳のころには、もうほとんど床についておられました」
目の前が少し滲んだ。
「そして——お嬢様が三歳になる前の冬に、マルグリット様はわたくしを呼ばれました」
ヨハンナが、わたくしをまっすぐに見た。
「病床でした。声が出しにくくなっていた頃で——しっかりとした目で、わたくしを見ておっしゃいました」
「……何と」
「『この子を——どうか、笑顔の多い場所へ連れて行ってあげて』」
声が、出なかった。
「それだけでした。何か言いたそうでしたが——声が出なくて。でも、その目が——きちんとわたくしに伝えていました」
「笑顔の多い場所、へ——」
声が震えた。
「はい。その言葉を、三十年以上、覚えておりました。お嬢様が辺境に行くことになったとき——これが、マルグリット様のおっしゃった場所かもしれないと思いました」
(お母様——)
涙が出た。
拭こうとしても、止まらなかった。
「母は——わたくしのことを、ちゃんと考えていてくれたのですね」
声が割れた。
「はい」
ヨハンナが静かに答えた。
「マルグリット様は——お嬢様のことをいつも考えておいででした。笑えているか。楽しくやれているか。それだけを」
「でも——お嬢様は今、笑顔の多い場所にいます。マルグリット様が願った通りに」
(笑顔の多い場所)
わたくしは泣きながら、辺境の日々を思った。
冬越えで凍死者ゼロ。夏市でカイン様と踊った夜。ルーカスが文字を覚えたとき。ゾフィのスープ。フリッツの笑顔。
(全部——あった)
「ヨハンナ。三十年以上、覚えていてくれて——ありがとう」
ヨハンナが目を伏せた。
「三十年以上お仕えして——マルグリット様の願いが、ようやく叶ったのでございます」
声が、かすかに震えていた。
ヨハンナが泣いていた。わたくしも泣いていた。
どれくらいそうしていたか、わからない。
やがて、ヨハンナが静かに言った。
「……お嬢様。手紙は——今日、書かれますか」
わたくしは目を拭いた。
「……書きます」
「——笑顔の多い場所に来た、とだけ書けば、十分ではないでしょうか」
胸の中で何かが、静かに落ち着いた。
(そうだ。それだけで——それだけで、いい)
「ありがとう、ヨハンナ」
ヨハンナが立ち上がり、一礼した。
「では、わたくしはこれで」
出ていく前に、一度だけ振り返った。
「——マルグリット様も、きっとお喜びになります」
扉が閉まった。
わたくしは机に向かった。
便箋を一枚取り出した。
筆を取った。
「お母様へ」
書いた。
今度は、続きが来た。
「わたくしは今——」
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