表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
婚約破棄されたので辺境で好きに生きます〜なぜか辺境伯に溺愛されていますが〜  作者: きなこ
第4章「辺境の花嫁と永遠の約束」

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
107/119

第105話「母への手紙」

第105話「母への手紙」


 辺境に戻って三日目の夜、わたくしは机の前に座っていた。


 帳簿ではない。


 便箋を一枚、机の上に置いていた。


 王都から戻ってくる馬車の中で、ずっと考えていたことがあった。


 父の顔。あの廊下で聞いた話。肖像画の中の、母の目。


 「お母様。わたくしは——」


 声に出してみた。


 続きが、出なかった。


 (こんなに言葉が出ないのは、久しぶりだ。帳簿の数字が合わないときも、連邦の交渉が行き詰まったときも、こんなふうに詰まった覚えはない)


 筆を取った。


 便箋の上に筆先を持っていった。


 止まった。


 何を書けばいいのか、わからなかった。


 「お母様へ」と書いても、その先が続かない。


 何を伝えればいいのか。記憶がほとんどない人に、どんな言葉を送ればいいのか。


 (わたくしは母のことをほとんど知らない。顔は肖像画で見た。花が好きだったと父に聞いた。それだけだ。声も、手の感触も、もう残っていない)


 筆を置いた。


 窓の外に、夜の辺境が広がっていた。


 この地に来てから一年半を超えた。帳簿を読み、交渉をして、村を歩いた。困難があれば解決策を考え、失敗があれば学んだ。


 でも今、一枚の便箋の前で、わたくしは手が動かなかった。


 (前世でも——そうだった)


 記憶が浮かんだ。


 前世の母。日本の、あの家。


 (あの頃のわたしは、仕事のことばかり考えていた。残業が終わって帰れば、食事をとってすぐ寝る。休日も書類を持ち帰った。母から電話が来ても、短く切り上げた。次の会議があるから、と。接待があるから、と)


 最後に話したのは、いつだったか。


 (冬の夜だったと思う。電話口で「元気か」と聞かれて、「元気よ、忙しいけど」と答えた。用件だけ聞いて、五分で電話を切った。次があったから。いつも、次があったから)


 二つの「母のいない記憶」が、同じ場所に重なっていた。


 前世の母には、生きているうちに伝えたいことを伝えなかった。


 今世の母には、記憶がないまま、もう逢えない。


 (どちらの母にも——ちゃんと向き合えなかった)


 便箋が、白いままだった。


 ため息が出た。


 (こういうとき、ヨハンナに相談できればいいのに。でも——何と言えばいい。「母への手紙が書けません」では、ヨハンナを困らせるだけだ。それに、これはわたくしが自分で考えるべきことだ)


 椅子を引いた。帳簿部屋に行こうと思った。


 数字を見ている方が、今は楽だった。数字は正直だ。わからないことはわからないとはっきり示してくれる。


 立ちかけたとき、扉が二度、静かに叩かれた。


 「……何だ」


 開けると、カイン様だった。


 「遅い」


 短い一言だった。


 手に白い器を持っていた。


 「ヨハンナに頼んだ。夜に——お茶を飲むだろう」


 差し出されたのは、白い器に入った紅茶だった。


 湯気が細く立っている。


 「……ありがとうございます」


 わたくしは受け取った。


 器が、手の中でじんわりと熱を伝えてくる。


 カイン様が部屋の中を少し見た。


 机の上の白い便箋と、置かれたままの筆。


 「……手紙か」


 「ええ。書こうとしていたのですが、少し難しくて」


 「そうか」


 カイン様はそれ以上聞かなかった。


 「ゆっくり書け」


 それだけ言って、扉を閉めた。


 足音が遠ざかっていく。


 わたくしは紅茶の器を両手で包んで、窓際の椅子に移った。


 夜の辺境。


 城下の灯りがいくつか、暗い中に点在している。大河の方向に、月の光が落ちている。


 「ゆっくり書け」か。


 (書ける日が来るのかどうか、今のわたくしにはわからない。でも——今夜は書けなくていい、とカイン様は言ったのかもしれない)


 紅茶を一口飲んだ。


 ゾフィが渡してくれた茶葉の、少し甘い香りがした。


 机の上の便箋は、白いままだった。


 明日、また向き合おうと思った。



---


 翌日も、便箋は白いままだった。


 朝のお茶の時間、カイン様と向かい合っていた。カイン様は書類を見ていた。わたくしも帳簿を開いていた。


 でも、数字が頭に入ってこなかった。


 (どうした。数字が読めないなんて、らしくない)


 「カイン様、少し温室に行ってきてもよろしいですか」


 「ああ」


 短い答え。いつもと変わらない。


 温室に入ると、少し息が楽になった。


 土の匂いと、葉の緑と、光。ここは静かだ。


 鈴蘭を見た。


 葉が伸びている。昨日より少し高い。


 (リーゼロッテ様が育てた花。カイン様のお母様が、この手で植えた花)


 見つめていると、胸の奥に何かが引っかかった。


 (わたくしの母は——何を残してくれたのだろう)


 父に聞いた話を思い返した。


 花が好きだった。辺境の花を見たかった。でも体を壊して——行けなかった。それだけだった。


 (肖像画の中の目だけは、知っている。でも声は知らない。笑うとどんな顔をするのか——全部、ない)


 日常の仕事をしているときは気づかなかった。帳簿の数字が、今は違う意味を持って見えた。


 (記憶がないまま、花嫁になろうとしている)


 重くなった足で、鉢の前にしゃがみ込んだ。


 土が黒くしっとりしている。根がしっかりと張っている。水を吸い上げて、葉の先まで届かせている。


 扉が開いた。


 「いたか」


 カイン様だった。


 「大丈夫ですわ。少し花を見ていただけで——」


 言いかけて、カイン様の目を見た。


 (ああ。この人には、通じない。誤魔化しが)


 「……少し、うまくいかないことがあるのです」


 「仕事か」


 「いいえ。仕事ではなく——個人的なことです」


 カイン様が待った。急かさなかった。


 「もう少し、自分で考えてみます。すみません、心配させてしまいました」


 「そうか」


 カイン様が頷いた。それ以上は聞かなかった。


 「——無理に急くな」


 それだけ言って、温室を出ていった。


 扉が静かに閉まった。


 (この人は、いつもそうだ。深く踏み込まない。でも、いなくならない。急かさない。でも、そばにいる)


 わたくしはもう一度、鈴蘭の前にしゃがみ込んだ。


 (カイン様のお母様と、わたくしのお母様は——どちらも、子供の記憶の中にいない)


 鈴蘭の白い蕾が、ひとつ、光の中でかすかに揺れた。


 その夜、部屋で帳簿を広げていたが、内容は頭に入らなかった。


 「お嬢様」


 扉が叩かれた。ヨハンナが入ってきた。お茶の盆を持っていたが、目の方が何かを伝えていた。


 「お茶をお持ちしました」


 「ありがとう」


 ヨハンナがお茶を置いて——去らなかった。


 「お嬢様」


 少し間があった。


 「泣いてもよろしいのですよ」


 (——ヨハンナ)


 その一言で、胸の中で何かがひびを入れた。


 「大丈夫ですわ——」


 「お嬢様。今日の温室で、廊下から見えておりました」


 「——わたくし、母のことを何も知らない。知らないまま、花嫁になろうとしている」


 声が、自分でも思わないところから出た。


 「記憶がほとんどない。顔は肖像画で見た。花が好きだったと聞いた。でも——声も笑い方も、何も、ない」


 涙が出た。拭こうとしたら、止まらなかった。


 (今さら——でも止まらない)


 ヨハンナが隣に来た。ただ、そこにいた。


 「手紙が書きたい。でも——何を書けばいいのかもわからない。記憶のない人に、何を——」


 声が途切れた。


 しばらく、ヨハンナは黙っていた。


 「お嬢様」


 やがて、静かに言った。


 「明日——少し、お話ししてもよろしいでしょうか」


 「……何を」


 「マルグリット様のことを、わたくしが知っていることを」


 胸が、震えた。


 「——はい」


 「おやすみなさいませ、お嬢様」


 ヨハンナが一礼して、出ていった。


 部屋に一人になった。


 お茶を一口飲んだ。


 涙の後の目が、少し痛かった。でも、胸の中は——少し前より、軽かった。


 (明日、ヨハンナが話してくれる)


 白い便箋は、まだ机の上にあった。



---


 翌朝のお茶の時間が終わると、ヨハンナがわたくしの部屋を訪ねてきた。


 「今よろしいですか、お嬢様」


 「はい。どうぞ」


 ヨハンナが入ってきた。向かい合って座った。


 ヨハンナが少し間を置いた。


 「マルグリット様に初めてお仕えしたのは——わたくしが十九のときでした」


 静かに、話し始めた。


 「お嬢様と同じくらいの年でした。マルグリット様は十八で。わたくしより年下でしたが——あの方は、妙に落ち着いておられた」


 「どんな方でしたか」


 「お嬢様に——似ておいでです。芯が強くて、一人で全部背負おうとなさる。困った方でした」


 「……似ていますね」


 「はい。そっくりです」


 ヨハンナが微かに笑った。


 「花が大好きで、春になると邸のどこかに必ず花が増えていました。体調が優れないのに庭に出て——ヴィルヘルム様に叱られても、翌日もまた庭に出ておられました」


 (叱られても庭に出る。この人だな、と思った)


 笑い出しそうになったのを、こらえた。


 ヨハンナが続けた。


 「お嬢様が生まれたときは——産室でお嬢様を抱いて、声を上げて泣かれて。わたくしも、ヴィルヘルム様も——つられて泣きました」


 胸の中で何かが揺れた。


 「でも——体が、どんどん弱くなっていかれました」


 ヨハンナの声が、少し低くなった。


 「侍女を使えばいいのに——『わたくしがいる間にやりたい』とおっしゃって。ご自分が長くないとわかっておられたのでしょう。お嬢様が二歳のころには、もうほとんど床についておられました」


 目の前が少し滲んだ。


 「そして——お嬢様が三歳になる前の冬に、マルグリット様はわたくしを呼ばれました」


 ヨハンナが、わたくしをまっすぐに見た。


 「病床でした。声が出しにくくなっていた頃で——しっかりとした目で、わたくしを見ておっしゃいました」


 「……何と」


 「『この子を——どうか、笑顔の多い場所へ連れて行ってあげて』」


 声が、出なかった。


 「それだけでした。何か言いたそうでしたが——声が出なくて。でも、その目が——きちんとわたくしに伝えていました」


 「笑顔の多い場所、へ——」


 声が震えた。


 「はい。その言葉を、三十年以上、覚えておりました。お嬢様が辺境に行くことになったとき——これが、マルグリット様のおっしゃった場所かもしれないと思いました」


 (お母様——)


 涙が出た。


 拭こうとしても、止まらなかった。


 「母は——わたくしのことを、ちゃんと考えていてくれたのですね」


 声が割れた。


 「はい」


 ヨハンナが静かに答えた。


 「マルグリット様は——お嬢様のことをいつも考えておいででした。笑えているか。楽しくやれているか。それだけを」


 「でも——お嬢様は今、笑顔の多い場所にいます。マルグリット様が願った通りに」


 (笑顔の多い場所)


 わたくしは泣きながら、辺境の日々を思った。


 冬越えで凍死者ゼロ。夏市でカイン様と踊った夜。ルーカスが文字を覚えたとき。ゾフィのスープ。フリッツの笑顔。


 (全部——あった)


 「ヨハンナ。三十年以上、覚えていてくれて——ありがとう」


 ヨハンナが目を伏せた。


 「三十年以上お仕えして——マルグリット様の願いが、ようやく叶ったのでございます」


 声が、かすかに震えていた。


 ヨハンナが泣いていた。わたくしも泣いていた。


 どれくらいそうしていたか、わからない。


 やがて、ヨハンナが静かに言った。


 「……お嬢様。手紙は——今日、書かれますか」


 わたくしは目を拭いた。


 「……書きます」


 「——笑顔の多い場所に来た、とだけ書けば、十分ではないでしょうか」


 胸の中で何かが、静かに落ち着いた。


 (そうだ。それだけで——それだけで、いい)


 「ありがとう、ヨハンナ」


 ヨハンナが立ち上がり、一礼した。


 「では、わたくしはこれで」


 出ていく前に、一度だけ振り返った。


 「——マルグリット様も、きっとお喜びになります」


 扉が閉まった。


 わたくしは机に向かった。


 便箋を一枚取り出した。


 筆を取った。


 「お母様へ」


 書いた。


 今度は、続きが来た。


 「わたくしは今——」


---


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ