第106話「二人の母の花」
第106話「二人の母の花」
朝の空気は、まだ少し冷たかった。
ヨハンナが話してくれたことを、一晩かけて整理した。
母が最後にヨハンナへ頼んだ言葉。
「この子を——どうか、笑顔の多い場所へ連れて行ってあげて」。
眠れなかった。泣きすぎて、目が重かった。
でも、不思議と清々しかった。
カイン様は書斎にいた。
扉を叩くと、「入れ」という短い声がした。入ると、書類を広げたまま、こちらを見た。
「少し、よろしいですか」
「ああ」
向かいの椅子を引いた。
窓から朝の光が入っている。カイン様の横顔が、少し眩しそうだった。
何から話せばいいのか、少し迷った。
でも、伝えずにいられなかった。
「昨夜、ヨハンナから——母のことを聞きました」
カイン様が手を止めた。
「お母様のことです。マルグリット様。辺境に来たかった、と——おっしゃっていたそうで」
カイン様が、ゆっくりと書類を置いた。
少しの間、黙っていた。
「父上から、聞いたことがある」
低い声だった。
「父上が母と結婚した頃、王立学院の同窓が辺境の話を手紙で送ってきたと。その人がお前の母上だったらしい」
息が、一瞬止まった。
「母は——辺境に花を咲かせたかった、と言っていた。お前の母上は——辺境に来たかったと聞いた」
カイン様の声は静かだった。でも、その言葉は静かなまま、まっすぐに届いた。
「王立学院で学友だったそうです。マルグリット様とリーゼロッテ様」
「……ああ」
カイン様が頷いた。
その頷きに、何かが込められていた気がした。
王立学院の学友。一人は辺境に嫁ぎ、辺境の土を耕した。一人は王都の公爵家に嫁ぎ、辺境に行けないまま、幼いわたくしを残して世を去った。
その娘たちが——今、この辺境で、同じ空の下にいる。
「母たちが見たかった景色を——俺たちが見ている」
カイン様が言った。
窓の外を見ながら、独り言のように。でも、それはわたくしに向けた言葉だった。
(その一言で、全部わかった気がした)
何かが、ゆっくりと胸の中で溶けていった。
記憶のない母。会えなかった母。名前しか知らなかった母が——リーゼロッテ様と並んで、どこかで笑っているような気がした。
「手紙を書こうと思います」
わたくしは言った。
「母への手紙です。もう届かない宛先に、それでも書いてみようと思って」
カイン様が黙って聞いていた。
「昨夜は何も書けなかったのですが、今日は書ける気がします」
窓から光が増してきた。
カイン様が静かに頷いた。
部屋を辞して、自室に戻った。
机の前に座った。白い紙。新しいペン。
少しだけ迷った。それから、書き始めた。
「母上へ」
次の一行を書くのに、しばらくかかった。
でも、今度は筆が止まらなかった。
「わたくしは辺境で——花を咲かせています」
それだけ書いた。
短い手紙だった。
でも、全部だと思った。
封をして、ヨハンナに頼んだ。王都の父上に、と。「母上のお墓に供えてほしいと書き添えてください」。
ヨハンナが、何も言わずに受け取った。
目が少し濡れていたが、笑っていた。
窓の外で、朝の風が揺れていた。
遠くで、鳥の声がした。
母上が見たかった辺境の空は——こんな色だったでしょうか。
わたくしは窓の外を見た。
春の朝の、澄んだ青だった。
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ディートリヒが羊皮紙を三枚広げて、なぜか遠い目をしていた。
「……招待客の件ですが」
「はい」
「辺境伯領の各村の代表が……七十二名」
「はい」
「王都からの参列予定者が……二十一名」
「はい」
「その他の申し出が、まだ増えています」
ディートリヒが三枚目の羊皮紙を開いた。
また遠い目になった。
「招待客は——多くなりそうですね」
(落ち着いた顔で言っているが、目が訴えている気がする)
わたくしは軽く咳払いをした。
「会場の調整、よろしくお願いします」
「……はい。喜んで」
遠い目のまま、ディートリヒは次の羊皮紙を手にした。
この方の「喜んで」には、時々すごい重みが乗っている。
翌日、ゾフィが台所から来た。
「式の料理ですけど」
エプロンを外しながら、目が輝いていた。
「燻製サーモンはガルスさんに頼む。麦のパンはザウアー翁のところの最高の麦を使う。スープはうちの畑のもの。あとはわたしが腕によりをかけたパイを——」
一息で言い切った。
「ゾフィ」
「なんですか」
「全部、お任せします」
ゾフィが一瞬止まった。それから、にっと笑った。
「任せてください。今まで作った中で一番のものにしますから」
なんだか、笑いたくなった。嬉しくて。
この人はいつも、仕事を楽しんでいる。辺境はそういう人たちで動いている。
城下での調整をしていると、ルーカスが走ってきた。
「エリナ様!」
息が切れていた。何かに駆け込んできたような顔だった。
「どうしましたか」
「僕——結婚式、何かできますか」
まっすぐな目で言った。
(この子は、いつも何かをしたがっている。前に来たときも、そうだった)
「そうですね……」
わたくしは少し考えた。
「教会への道に、花を並べてもらえますか。城下の子供たちと一緒に。摘んできた野の花でいい。道の両側に並べてくれたら、とても嬉しい」
ルーカスが目を大きく開けた。
「本当に、それだけで、いいんですか」
「それだけで十分です。とても大事なことです」
ルーカスが頷いた。力強く、一度。
「わかりました。絶対にやります」
駆けていった。
走るのが速くなった。来た頃より、ずっと。
夕方、マルタが部屋に来た。
「あのっ、エリナ様! 花を集めたいんですけど。結婚式の飾りに、城下の女性たちと一緒に!」
もう走ってきた勢いのまま、一息で言い切った。ルーカスと同じだ。この城で育った子は、思い立ったら走ってくる。
「もちろんです」
「ほんとですか!?」
跳ねるように喜んで、ウルズラさんの名前と村の人たちの名前を次々に並べ始めた。
城下全体が、少しずつ動いていた。
夜、部屋に戻ったとき、ふと思った。
準備という名の何かが、城中を動かしている。
ディートリヒの遠い目も、ゾフィの輝く目も、ルーカスの駆けていく背中も、マルタの跳ねるような声も——全部、同じ方向を向いている。
(前世では、こういう日のことを想像できなかった。会社帰りの深夜に、誰かが自分の人生を祝福してくれる日のことなんて)
窓の外に、星が出ていた。
辺境の夜空は、相変わらず広かった。
わたくしは窓を少し開けた。冷たい空気が入ってきた。
春の夜の、かすかな草の香り。
来年の今頃は——どんな春だろう。
そう思ったら、なんだかおかしかった。
ここにいる先のことを、こんなに自然に考えていた。
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最初に気づいたのは、お茶の時間だった。
カイン様が、いつもより静かだった。
「……エリナ」
「はい?」
「……いや」
それだけ言って、お茶に視線を戻した。
(…………?)
それきり、何も言わなかった。
わたくしも聞かなかった。
一度や二度なら、よくあることだと思った。
ところが翌日も、同じことがあった。
夕食の席で、カイン様が何かを言いかけた。「——エリナ」。わたくしが「はい」と答えると、少し間があって、「……なんでもない」。
三日後の朝、廊下ですれ違ったとき。名前を呼ばれた。「エリナ」。振り返ると、カイン様がこちらを見ていた。何かを言うような顔だった。三秒ほど待った。
カイン様は、ゆっくりと目を伏せた。
「……行くか」
そのまま執務室へ向かった。
(なにかあるのは確かだ。でも何かわからない)
その夜、廊下でディートリヒに会った。
「少し聞いていいですか」
「何でしょう、エリナ様」
「カイン様が——最近、少しだけ様子が違うように感じるのですが。気のせいでしょうか」
ディートリヒが少し黙った。
「……私もです」
意外な答えだった。
「何か、心当たりがありますか」
「……わかりません」
ディートリヒが真顔で言った。
「こういうことは稀にありまして——旦那様が何か考えておいでのとき、沈黙が増えるのです。ただ今回は——通常の沈黙とは、少し種類が違うように思います」
「何が違うのですか」
「通常の沈黙は——考えているときです。今回は——何かを言おうとして、止まっておられる。その差でしょうか」
ディートリヒが、少しだけ困ったような顔をした。
「旦那様が言いたいことを言えないというのは——非常に珍しいことですので」
(そうか。カイン様は基本的に、言えないことは言わない人だ。黙るか、短く言うか、どちらかだ。言いかけて止まるというのは、確かに珍しい)
「……何か、わたくしが何かしましたか」
ディートリヒが首を横に振った。
「そういうことではないと思います。旦那様は——エリナ様に何かを伝えようとしている。ただ、うまく言葉が出てきていない、というふうに見えます」
「伝えたいこと、とは」
「……私にも、わかりません」
また真顔で言った。
(そこはわからないんですね)
翌朝、温室の前でカイン様に会った。
こちらを向いた目が、一瞬だけ何かを言おうとした。
わたくしは少し待った。
カイン様の口が、かすかに動いた。
でも、言葉は出てこなかった。
「……いい天気だ」
結局、そう言った。
「そうですね」
並んで、しばらく空を見た。
朝の光が、城壁の上に乗っていた。
わたくしは、隣のカイン様をちらりと見た。
横顔は、いつもと同じように静かだった。でも、どこか別のことを考えている顔だった。
(何かが、この人の中にある。何かを、言おうとしている。でも今は——待つべき時間だと思う)
わたくしは空に視線を戻した。
急かさなかった。
カイン様はいつだって、時間をかけて言葉を選ぶ人だ。
この沈黙が、何かを孕んでいることは、もうわかっていた。
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