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婚約破棄されたので辺境で好きに生きます〜なぜか辺境伯に溺愛されていますが〜  作者: きなこ
第4章「辺境の花嫁と永遠の約束」

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第106話「二人の母の花」

第106話「二人の母の花」


 朝の空気は、まだ少し冷たかった。


 ヨハンナが話してくれたことを、一晩かけて整理した。


 母が最後にヨハンナへ頼んだ言葉。

 「この子を——どうか、笑顔の多い場所へ連れて行ってあげて」。


 眠れなかった。泣きすぎて、目が重かった。

 でも、不思議と清々しかった。


 カイン様は書斎にいた。


 扉を叩くと、「入れ」という短い声がした。入ると、書類を広げたまま、こちらを見た。


 「少し、よろしいですか」


 「ああ」


 向かいの椅子を引いた。


 窓から朝の光が入っている。カイン様の横顔が、少し眩しそうだった。


 何から話せばいいのか、少し迷った。


 でも、伝えずにいられなかった。


 「昨夜、ヨハンナから——母のことを聞きました」


 カイン様が手を止めた。


 「お母様のことです。マルグリット様。辺境に来たかった、と——おっしゃっていたそうで」


 カイン様が、ゆっくりと書類を置いた。


 少しの間、黙っていた。


 「父上から、聞いたことがある」


 低い声だった。


 「父上が母と結婚した頃、王立学院の同窓が辺境の話を手紙で送ってきたと。その人がお前の母上だったらしい」


 息が、一瞬止まった。


 「母は——辺境に花を咲かせたかった、と言っていた。お前の母上は——辺境に来たかったと聞いた」


 カイン様の声は静かだった。でも、その言葉は静かなまま、まっすぐに届いた。


 「王立学院で学友だったそうです。マルグリット様とリーゼロッテ様」


 「……ああ」


 カイン様が頷いた。


 その頷きに、何かが込められていた気がした。


 王立学院の学友。一人は辺境に嫁ぎ、辺境の土を耕した。一人は王都の公爵家に嫁ぎ、辺境に行けないまま、幼いわたくしを残して世を去った。


 その娘たちが——今、この辺境で、同じ空の下にいる。


 「母たちが見たかった景色を——俺たちが見ている」


 カイン様が言った。


 窓の外を見ながら、独り言のように。でも、それはわたくしに向けた言葉だった。


 (その一言で、全部わかった気がした)


 何かが、ゆっくりと胸の中で溶けていった。


 記憶のない母。会えなかった母。名前しか知らなかった母が——リーゼロッテ様と並んで、どこかで笑っているような気がした。


 「手紙を書こうと思います」


 わたくしは言った。


 「母への手紙です。もう届かない宛先に、それでも書いてみようと思って」


 カイン様が黙って聞いていた。


 「昨夜は何も書けなかったのですが、今日は書ける気がします」


 窓から光が増してきた。


 カイン様が静かに頷いた。


 部屋を辞して、自室に戻った。


 机の前に座った。白い紙。新しいペン。


 少しだけ迷った。それから、書き始めた。


 「母上へ」


 次の一行を書くのに、しばらくかかった。


 でも、今度は筆が止まらなかった。


 「わたくしは辺境で——花を咲かせています」


 それだけ書いた。


 短い手紙だった。


 でも、全部だと思った。


 封をして、ヨハンナに頼んだ。王都の父上に、と。「母上のお墓に供えてほしいと書き添えてください」。


 ヨハンナが、何も言わずに受け取った。


 目が少し濡れていたが、笑っていた。


 窓の外で、朝の風が揺れていた。


 遠くで、鳥の声がした。


 母上が見たかった辺境の空は——こんな色だったでしょうか。


 わたくしは窓の外を見た。


 春の朝の、澄んだ青だった。



---


 ディートリヒが羊皮紙を三枚広げて、なぜか遠い目をしていた。


 「……招待客の件ですが」


 「はい」


 「辺境伯領の各村の代表が……七十二名」


 「はい」


 「王都からの参列予定者が……二十一名」


 「はい」


 「その他の申し出が、まだ増えています」


 ディートリヒが三枚目の羊皮紙を開いた。


 また遠い目になった。


 「招待客は——多くなりそうですね」


 (落ち着いた顔で言っているが、目が訴えている気がする)


 わたくしは軽く咳払いをした。


 「会場の調整、よろしくお願いします」


 「……はい。喜んで」


 遠い目のまま、ディートリヒは次の羊皮紙を手にした。


 この方の「喜んで」には、時々すごい重みが乗っている。


 翌日、ゾフィが台所から来た。


 「式の料理ですけど」


 エプロンを外しながら、目が輝いていた。


 「燻製サーモンはガルスさんに頼む。麦のパンはザウアー翁のところの最高の麦を使う。スープはうちの畑のもの。あとはわたしが腕によりをかけたパイを——」


 一息で言い切った。


 「ゾフィ」


 「なんですか」


 「全部、お任せします」


 ゾフィが一瞬止まった。それから、にっと笑った。


 「任せてください。今まで作った中で一番のものにしますから」


 なんだか、笑いたくなった。嬉しくて。


 この人はいつも、仕事を楽しんでいる。辺境はそういう人たちで動いている。


 城下での調整をしていると、ルーカスが走ってきた。


 「エリナ様!」


 息が切れていた。何かに駆け込んできたような顔だった。


 「どうしましたか」


 「僕——結婚式、何かできますか」


 まっすぐな目で言った。


 (この子は、いつも何かをしたがっている。前に来たときも、そうだった)


 「そうですね……」


 わたくしは少し考えた。


 「教会への道に、花を並べてもらえますか。城下の子供たちと一緒に。摘んできた野の花でいい。道の両側に並べてくれたら、とても嬉しい」


 ルーカスが目を大きく開けた。


 「本当に、それだけで、いいんですか」


 「それだけで十分です。とても大事なことです」


 ルーカスが頷いた。力強く、一度。


 「わかりました。絶対にやります」


 駆けていった。


 走るのが速くなった。来た頃より、ずっと。


 夕方、マルタが部屋に来た。


 「あのっ、エリナ様! 花を集めたいんですけど。結婚式の飾りに、城下の女性たちと一緒に!」


 もう走ってきた勢いのまま、一息で言い切った。ルーカスと同じだ。この城で育った子は、思い立ったら走ってくる。


 「もちろんです」


 「ほんとですか!?」


 跳ねるように喜んで、ウルズラさんの名前と村の人たちの名前を次々に並べ始めた。


 城下全体が、少しずつ動いていた。


 夜、部屋に戻ったとき、ふと思った。


 準備という名の何かが、城中を動かしている。


 ディートリヒの遠い目も、ゾフィの輝く目も、ルーカスの駆けていく背中も、マルタの跳ねるような声も——全部、同じ方向を向いている。


 (前世では、こういう日のことを想像できなかった。会社帰りの深夜に、誰かが自分の人生を祝福してくれる日のことなんて)


 窓の外に、星が出ていた。


 辺境の夜空は、相変わらず広かった。


 わたくしは窓を少し開けた。冷たい空気が入ってきた。


 春の夜の、かすかな草の香り。


 来年の今頃は——どんな春だろう。


 そう思ったら、なんだかおかしかった。


 ここにいる先のことを、こんなに自然に考えていた。



---


 最初に気づいたのは、お茶の時間だった。


 カイン様が、いつもより静かだった。


 「……エリナ」


 「はい?」


 「……いや」


 それだけ言って、お茶に視線を戻した。


 (…………?)


 それきり、何も言わなかった。


 わたくしも聞かなかった。


 一度や二度なら、よくあることだと思った。


 ところが翌日も、同じことがあった。


 夕食の席で、カイン様が何かを言いかけた。「——エリナ」。わたくしが「はい」と答えると、少し間があって、「……なんでもない」。


 三日後の朝、廊下ですれ違ったとき。名前を呼ばれた。「エリナ」。振り返ると、カイン様がこちらを見ていた。何かを言うような顔だった。三秒ほど待った。


 カイン様は、ゆっくりと目を伏せた。


 「……行くか」


 そのまま執務室へ向かった。


 (なにかあるのは確かだ。でも何かわからない)


 その夜、廊下でディートリヒに会った。


 「少し聞いていいですか」


 「何でしょう、エリナ様」


 「カイン様が——最近、少しだけ様子が違うように感じるのですが。気のせいでしょうか」


 ディートリヒが少し黙った。


 「……私もです」


 意外な答えだった。


 「何か、心当たりがありますか」


 「……わかりません」


 ディートリヒが真顔で言った。


 「こういうことは稀にありまして——旦那様が何か考えておいでのとき、沈黙が増えるのです。ただ今回は——通常の沈黙とは、少し種類が違うように思います」


 「何が違うのですか」


 「通常の沈黙は——考えているときです。今回は——何かを言おうとして、止まっておられる。その差でしょうか」


 ディートリヒが、少しだけ困ったような顔をした。


 「旦那様が言いたいことを言えないというのは——非常に珍しいことですので」


 (そうか。カイン様は基本的に、言えないことは言わない人だ。黙るか、短く言うか、どちらかだ。言いかけて止まるというのは、確かに珍しい)


 「……何か、わたくしが何かしましたか」


 ディートリヒが首を横に振った。


 「そういうことではないと思います。旦那様は——エリナ様に何かを伝えようとしている。ただ、うまく言葉が出てきていない、というふうに見えます」


 「伝えたいこと、とは」


 「……私にも、わかりません」


 また真顔で言った。


 (そこはわからないんですね)


 翌朝、温室の前でカイン様に会った。


 こちらを向いた目が、一瞬だけ何かを言おうとした。


 わたくしは少し待った。


 カイン様の口が、かすかに動いた。


 でも、言葉は出てこなかった。


 「……いい天気だ」


 結局、そう言った。


 「そうですね」


 並んで、しばらく空を見た。


 朝の光が、城壁の上に乗っていた。


 わたくしは、隣のカイン様をちらりと見た。


 横顔は、いつもと同じように静かだった。でも、どこか別のことを考えている顔だった。


 (何かが、この人の中にある。何かを、言おうとしている。でも今は——待つべき時間だと思う)


 わたくしは空に視線を戻した。


 急かさなかった。


 カイン様はいつだって、時間をかけて言葉を選ぶ人だ。


 この沈黙が、何かを孕んでいることは、もうわかっていた。


---


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