第107話「母の部屋」
第107話「母の部屋」
夕方、カイン様が見当たらなかった。
書斎にも、執務室にも、いなかった。厩舎にも、城壁にも。
ディートリヒに尋ねると、「少し前に東の棟の方へ向かわれたと思います」という答えが返ってきた。
東の棟は、あまり使われていない区画だ。
廊下が少し暗く、埃の匂いがする。壁に沿って古い燭台が並んでいる。
奥の扉の前で、明かりが漏れていた。
扉を叩くのを、一度だけ迷った。
でも、ここまで来た足が、もう止まらなかった。
「カイン様?」
少しの間があった。
「……入れ」
扉を開けた。
窓の少ない部屋だった。
夕の光が斜めに入って、金色に埃を照らしていた。
部屋の奥に、肖像画があった。
金茶色の髪。緑がかった灰色の目。静かに、こちらを見ている女性の絵。
カイン様が、肖像画の前に立っていた。
「……失礼いたしました。出直しましょうか」
「いや」
カイン様が首を動かさずに言った。
「いてくれ」
わたくしは静かに扉を閉めた。
近づいた。カイン様の隣に立った。
肖像画の女性の顔を見た。
カイン様の面影が、ある。目の形。口元の、かすかな引き方。
しばらく、二人とも黙っていた。
「母に——報告したかった」
カイン様が言った。
静かな声だった。
「結婚することを。誰かがいてくれることを」
わたくしは何も言わなかった。
「母は——俺が結婚すると知ったら」
少し間があった。
「笑ったと思う。笑って、泣いたと思う」
カイン様の声が、かすかに揺れた。
見上げると、カイン様が肖像画を見ていた。
目の奥に、光が揺れていた。
(この人がこんな顔をするのを、見たことがなかった)
わたくしは、そっと手を伸ばした。
カイン様の手に、そっと重ねた。
カイン様の手が、一瞬止まった。
それから、ゆっくりと——指が、わたくしの手を包んだ。
「リーゼロッテ様は——きっと、見ておいでです」
わたくしは言った。
「この城で——カイン様が咲かせてきたもの全部を。わたくしが来てから、一緒に作ってきたものも。全部、見ておいでだと思います」
カイン様が黙っていた。
「すまない」
小さな声だった。
「謝らないでください」
わたくしは言った。
「泣いてもいいのですよ、カイン様」
カイン様の肩が、かすかに揺れた。
泣き崩れるような人ではない。でも、その言葉が届いたのはわかった。
目の奥の光が、少しだけ揺れた。
(誰かに言ってもらわないと、泣くことすら思い出せない人がいる。この人は、そういう人だ)
手に、力が込められた。
わたくしも、そっと握り返した。
しばらく、そのままでいた。
夕の光が少しずつ薄れていった。
部屋が静かだった。
肖像画の女性が、変わらずこちらを見ていた。
「——花が好きだったんだ。母は」
カイン様が言った。
先ほどより、少し落ち着いた声だった。
「雨の日の朝は、必ず歌っていた。温室に行って——鈴蘭の世話をして、歌っていた」
「どんな歌だったのですか」
「……昔の民謡だ。辺境の——雨の歌」
「覚えていますか」
カイン様が少し黙った。
「……覚えている」
「いつか——聞かせていただけますか」
短い間があった。
「……考える」
「はい」
考える、と言うときのカイン様は、たいてい応じてくれる。
部屋の外で、夕暮れが広がっていた。
肖像画のリーゼロッテ様が、少しだけ微笑んでいるように見えた。
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翌朝、温室に行くと、鈴蘭が咲いていた。
白い小さな花が、細い茎に鈴のように並んでいた。
やわらかい朝の光の中で、かすかに揺れていた。
「咲いたのですね」
一人で言った。
誰もいなかったから。
でも、少しして、後ろで扉が開く音がした。
「来ていたのか」
カイン様だった。
「おはようございます」
「ああ」
カイン様が温室の中に入ってきた。
わたくしの隣に立って、鈴蘭を見た。
「母が——好きだった花だ」
静かに言った。
「はい。リーゼロッテ様が育てていたと聞きました」
「この株は、母が植えたものだ。毎年春に咲く」
カイン様が少し屈んで、花の一つに顔を近づけた。
そのままじっと、見ていた。
わたくしは横から、その横顔を見た。
(昨夜より、顔が違う。何かが少し緩んでいる)
「カイン様」
「何だ」
「結婚式に——この花も飾りましょう」
カイン様が顔を上げた。
「教会の祭壇に。鈴蘭を。リーゼロッテ様が好きだった花を、式の日に一緒に飾りたいと思います」
カイン様が、わたくしを見た。
しばらく、黙っていた。
それから、頷いた。
一度だけ。でも、しっかりと。
「——そうしよう」
それだけ言って、また鈴蘭を見た。
わたくしも並んで、鈴蘭を見た。
白くて、小さくて、静かな花だった。
その日の午後、城下でゲルツに会った。
クレイン村の鉱夫親方だ。腕が太く、手が硬い。いつも直線的に話す人だ。
「……エリナ様」
少しだけ珍しい顔をしていた。改まった顔だった。
「何ですか」
ゲルツが少し咳払いをした。
「……実は、結婚祝いに——何か作ろうと思いまして」
「まあ」
「ルーン石を使った装飾品です。小さいものですが、お二人に」
(ゲルツが、こういうことを言い出すとは思わなかった)
「ありがとうございます。でも、そんな、わざわざ」
「いや、わざわざじゃないです。あの冬、うちの村の採掘場を立て直してくれたのはエリナ様の仕事でしたから」
ゲルツが言った。照れているような、それでも真顔の顔だった。
「辺境伯様には昔から世話になってる。二人がちゃんと幸せになるのが、一番の礼になります」
胸の奥がじんとした。
「……ありがとうございます」
「完成したら、持ってきます」
それだけ言って、ゲルツは行ってしまった。
夕方、フリッツが書類を持ってきた。
式当日の警備計画の確認だった。
一通り話を聞いて、わたくしが「先代のご夫妻の式は——どのような式でしたか」と聞いた。
フリッツが少し止まった。
「……先代様の式でしたら」
「よろしければ」
フリッツが、珍しく少しだけ遠い目をした。
「小さな式でした。この教会で」
「この教会で、リーゼロッテ様も式を」
「はい。寒い時期でしたが、城下の人間が皆で祝いに来ました。先代様は、一言も余分なことを言わなかった。でも、笑っていました」
フリッツが、ほんの少し口元が動いた。
「あの日、ここが辺境らしくなったと、思いました」
(フリッツがそんなことを言う人だとは、思っていなかった)
「今回もそうなりますよ」
わたくしは言った。
「辺境らしい式に、なります」
フリッツが頷いた。一度、短く。
「そうなると、思います」
夜になった。
温室に寄ってから部屋に戻った。
鈴蘭はまだ咲いていた。夜の中で、白く、静かだった。
「リーゼロッテ様」
わたくしは小声で言った。
「式の日に——ここにいてください」
鈴蘭が、かすかに揺れた。
窓の外で、風が過ぎていった。
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衣装合わせが終わったのは、夜も深い時間だった。
試着用の台から降りて、ドレスを脱いで、仕立て職人を見送って。
部屋に一人になって、燭台の火だけが残った。
鏡があった。
大きな姿見。縁が銀で飾られた、カイン様の城で一番立派な鏡だ。
何となく、その前に立った。
灯火が揺れた。鏡の中のわたくしが、揺れた。
淡い銀灰色の髪。スミレ色の目。
前世のわたしとは、まるで違う顔だ。
(あなたに、話しかけたいと思う)
声には出さずに、思った。
(前世のわたしへ)
火が、静かに燃えている。
(あなたが死んだのは、二十六歳だった。冬の夜で、オフィスの灯りだけが点いていた。机の上には、やり切れなかった仕事の束と、飲みかけのまま冷えた缶コーヒーがあった)
胸の中で、あの夜の温度を思った。
寒かった。疲れていた。誰もいなかった。
(隣には、誰もいなかった)
今、窓の外に月が出ている。
辺境の夜は広い。城下のどこかで、明日の準備をしている人たちの声が、かすかに聞こえる。
わたくしは鏡を見た。
(でも今、わたしの隣には——指先の感覚が残っている。夕方、カイン様に手を引かれた、あの体温が)
胸の奥がじんとした。
(あなたが頑張ったから、わたしはここにいる)
そう思ったら、不思議と涙が出なかった。
あの冬の夜とは違う。あの夜は、自分を許す涙だった。
今夜は——
(あの日、あなたが最後に残したものは、タスクリストだけではなかった。四年間、コツコツ積み上げた実務の感覚。交渉の仕方。数字の読み方。人の話を最後まで聞く癖。理不尽に静かに立ち向かう根性。全部——全部、あなたが作ったものだ)
わたくしは帳簿を読める。
ルドルフと対等に交渉できる。
冬を越えられた。
村人の話を、最後まで聞ける。
(あなたがいたから、わたしはここで生きられた)
鏡の中の自分を、まっすぐに見た。
(だから、ありがとう)
燭台の火が、かすかに揺れた。
(前世のあなたが二十六年間積み上げたもの、わたしはここで使い続ける。忘れない。あなたの人生は、消えていない。わたしの中で——今日まで生きていた)
目の奥が、少しだけ熱くなった。
でも、泣かなかった。
(そして——もう、苦しまなくていい)
あの冬の夜、「もう休んでいいよ」と思った。
今夜は、もう少し先のことを思う。
(休むだけじゃなくて——ちゃんと届いたんだよ。あなたが渡してくれたものは、ちゃんとここまで届いた。明日、わたしは花嫁になる。辺境で、カイン様の隣で。あなたが望んでいた「ちゃんと生きる」の先に——こんな日がある)
(信じてくれなくてもいい。でも、本当のことだよ)
鏡の中のわたくしが、静かにこちらを見ていた。
わたくしは、小さく頷いた。
(ありがとう。——本当に、ありがとう)
燭台の火が揺れた。
部屋の中に、静けさが戻った。
鏡から離れた。
窓辺に寄った。
辺境の夜が広がっていた。
月が出ていた。丸みを帯びた月が、城壁の向こうに浮かんでいた。
明日——式の日だ。
(前世のわたしへ。——あなたが二十六年間生きてくれたことを、わたしは誇りに思う)
胸の中で、静かに言った。
星が、一つ流れた。
辺境の夜空は、今夜も広かった。
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