第108話「国王の祝辞」
第108話「国王の祝辞」
手紙が届いたのは、式の三日前だった。
差出人の名を見て、ディートリヒが「……おや」という顔をした。
「何ですか」
「王都からの書状です。封蝋が——シュテファン殿下のものではなく」
ディートリヒが言い止まった。
「国王の紋章ですね、これは」
カイン様に報告した。執務室で書類を見ていたカイン様が、手を止めた。
「持ってきてくれ」
二人で書状を開いた。几帳面な文字で書かれていた。
『辺境伯カイン・ドラクロワ殿ならびにヴァルトシュタイン令嬢エリナ殿へ。婚礼のご準備が整いつつあると伺い、王として祝辞を申し上げる機会を頂きたい。——この書状を認める時、私はすでに退位の準備を進めている。体の衰えにより、もはや国を担うに十分な力が残っていないことを、私は自らよく知っている』
カイン様が読む手を止めた。
続きを目で追った。
『長男シュテファンは、王たる器を持っている。私より——よほどよく見え、よほど先を考える男だ。彼に任せることに、一点の迷いもない。新国王として即位後、婚礼への祝辞は改めてシュテファンから届くであろう。だが、このひと言だけは、私の言葉で伝えたかった』
カイン様が、少し息を吐いた。
『辺境伯よ。あなたは長年、辺境という王国の果てで黙々と生きてきた。王宮の政争とは無縁のところで、人を守り、地を守り、冬を越えてきた。私はそれを、ずっと見ていた。——令嬢と共に、これからも変わらずいてほしい』
最後の一文を読んだ。
『婚礼の日、二人の上に晴れがあることを祈っている。——テオドール三世より』
部屋が静かだった。
(テオドール国王。あの方が、こういう手紙を書く人だとは思っていなかった)
わたくしは書状を折り返した。
「カイン様」
「ああ」
カイン様が、少し間を置いた。
「……よく見ていたのだな」
短く言った。それだけだったが、声に何かが混じっていた。
翌日、もう一通来た。
今度はシュテファン——いや、新国王の封蝋がついていた。
ディートリヒが「昨日と今日で、国が変わりましたね」と言った。
淡々とした口調だったが、少しだけ感慨深そうな顔をしていた。
書状を開いた。
シュテファンの文字は、父君とは違い、少し勢いがある。
『辺境伯カイン・ドラクロワ殿ならびにエリナ・フォン・ヴァルトシュタイン殿。新国王として、まず最初に祝辞を贈る相手がこの二人であることを、私は光栄に思っている』
「光栄に思っている、か」
カイン様が小声で読んだ。
「シュテファン殿下らしくない文章だな」
「そうですか?」
「あの方は普段、もっと簡潔だ」
(確かに。王族の書状にしては、少し温かみがある)
続きを読んだ。
『辺境伯よ。あなたは不器用だが、信頼に値する男だ。私はそれを、令嬢に初めてお目にかかった日から確信していた。——令嬢がいることで、あなたはより強くなった。それは王国にとっても、喜ばしいことだ』
そして最後に、カイン様への一文があった。
『辺境伯。あなたとヴァルトシュタイン令嬢が王国の未来の一部であることを、新しい国王として、ここに保証する。辺境は王国の礎だ。二人でそれを守り続けてほしい。——新国王シュテファンより』
カイン様が書状を畳んだ。窓の外に目を向けた。辺境の夕暮れが広がっていた。
「……保証する、か」
静かに言った。
「重い言葉ですね」
「ああ。だから重く受け取る」
フリッツが書類を持って入ってきた。
ディートリヒが「テオドール陛下の退位と、シュテファン新国王の即位、正式に決まりました」と報告した。
フリッツが一度だけ目を伏せた。
「……時代が変わりますな」
「変わる」とカイン様が言った。「だが——辺境は変わらない」
フリッツが頷いた。
わたくしは、二通の書状をそっと重ねた。
父王と息子王。二つの世代から、同じ方向を向いた言葉が届いた。
(この辺境が、王国の中に——ちゃんと見えていた)
胸の奥が、静かに温かくなった。
窓の外に、辺境の夕空が広がっていた。
雲が少なく、よく晴れていた。
---
式の二日前から、城下が変わり始めた。
各村からの荷が、朝のうちから届き始めた。
馬車が何台も列をなして城の方へ向かっている。
フィア村から、麦の袋が何俵も届いた。
荷台から降ろされる最中に、ザウアー翁が直々についてきた。
「エリナ様」
七十を超えた老人が、丸い背をなんとか伸ばして立っていた。
「ザウアー翁。わざわざおいでになったのですか」
「当たり前だ。大事な荷は自分で届ける。それがうちのやり方だ」
ザウアー翁が荷台を手で叩いた。
「今年の麦の中で、一番のものだ。式の祝いのパンを焼いてもらいたい。ゾフィさんに渡してくれ」
「ありがとうございます」
「礼はいらん。うちの畑が豊かになったのは——あんたが最初の冬に種の手配をしてくれたからだ」
ザウアー翁が、皺の深い顔でわたくしを見た。
「お互い様だ」
それだけ言って、荷の確認に戻っていった。
ミルト村からは、ガルスが来た。
大きな木箱を荷車に積んで、少し照れたような顔で立っていた。
「燻製サーモンだ。今年の最高のやつを取っておいた。それと——」
ガルスが荷車の端から、花束のようなものを取り出した。
白い花だった。
細い茎に、小さな白い花弁が幾重にも重なっている。
「ヴァッサーブルーメだ。大河の花。式の飾りに使えればと思って」
(大河の白い花——ガルスが「春に咲く。この辺境で一番きれいな花だ」と言っていた)
「ありがとうございます。川の花が——教会に飾られます」
ガルスが、こくりと頷いた。
少し、目が潤んでいた。
クレイン村のゲルツが城の門をくぐったのは、昼を少し過ぎた頃だった。
馬の背に、小さな木箱を一つ。
「……できた」
丁寧に蓋を開けた。
中に、二つのペンダントが入っていた。
小さなルーン石を銀の細工で囲んだ、シンプルな作りだった。
一つは青みがかった石。もう一つは温かみのある白だった。
「カイン様のと、エリナ様の。対になるようにした。魔力の安定を保つ作りにしてある」
「……素晴らしい」
「採掘場を立て直すのを手伝ってもらったとき——いつかきちんと返したいと思っていた。こういう形になったが」
「こういう形の方が、よほどうれしいです」
ゲルツが少し目を細めた。
何も言わなかったが、それが答えだった。
夕方までに、城下は一変していた。
ウルズラが城の広間に城下の女性たちを集めて、ドレスの仕上げの刺繍に取り組んでいた。
「あんたのドレスに、みんなの花を入れた。全部で三十二人分ある」
ウルズラが刺繍の裾を広げて見せた。
細かい花模様が、裾の内側に沿って並んでいた。小さいが、一つ一つ形が違う。それぞれの人が縫ったのだとわかった。
「礼はいい。これは全員の気持ちだから」
(三十二人分の花が、ドレスの裾に入っている。この辺境で出会った人たちの数だ)
声が少し震えた。
「あんたが辺境に来たとき、正直どんな貴族の娘が来るかと思ってた。でも、あんたは真剣に辺境のことを考えてくれた。だから、みんな本気で祝いたいんだよ」
「……ありがとうございます」
ベルンハルトとレムケが式当日の警備計画を持ってきたのは、夕食前だった。
「万全の態勢で臨みます」
「ありがとうございます。——でも、あなた方も式を見てください。警備は大切ですが、見なくていいわけではありません」
ベルンハルトが少し驚いた顔をした。
「……エリナ様は、そういうことを言う方ですね」
「当然のことです」
レムケが小さく笑った。
夜になって、部屋に戻った。
窓から城下を見ると、まだ灯りが点いていた。
(辺境の全員が——この結婚式のために動いている)
胸の中でそう思ったとき、目が熱くなった。
泣くまいとしたが、こぼれた。
一粒だけ。
(前世では、誰かに祝ってもらう日のことを想像できなかった。あの頃のわたしが見たら——今夜の城下を見たら、どんな顔をするだろう)
きっと、信じられないと思う。
でも、本当のことだ。
辺境の夜が広がっていた。
至るところに灯りがある。
---




