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婚約破棄されたので辺境で好きに生きます〜なぜか辺境伯に溺愛されていますが〜  作者: きなこ
第4章「辺境の花嫁と永遠の約束」

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第109話「父からの贈り物」

第109話「父からの贈り物」


 式の前日の昼、ヴィルヘルム公爵家の紋章がついた荷が届いた。


 大きくはない。木箱が一つ。それとは別に、封書が一通。


 「お父様から、ですね」とヨハンナが言った。


 封書を開けた。


 父の文字は変わっていない。几帳面で、少し右に傾く字だ。


 『エリナへ。婚礼の祝いを贈る。箱の中身を見てほしい。母上のものだ。お前に——使ってもらいたかった。母上もきっと喜ぶ』


 それだけだった。


 短い。父らしい。


 (「母上のもの」……)


 胸が、静かに動いた。


 木箱の蓋を、ヨハンナが開けた。


 中に、白い布が折り畳まれていた。


 ヨハンナが両手で持ち上げた。


 広がった。


 ヴェールだった。


 薄い、繊細なレースの布。


 縁に、小さな花の刺繍が入っていた。


 花弁が丸く、葉が細い。どこかで見たような花の形。


 「……お嬢様」


 ヨハンナの声が、かすかに揺れた。


 わたくしはヴェールを受け取った。


 両手で持つと、布がふわりと重みを持った。


 軽い。でも、確かな重みがある。


 (これが、お母様の)


 「ヨハンナ」


 「……はい」


 「このヴェールを——お母様がお召しになったことが、ありますか」


 ヨハンナが少し間を置いた。


 「あります。マルグリット様がヴィルヘルム様とご婚約されたときに」


 「婚約の日に」


 「はい。王都の夜会でした。とても——お似合いでした」


 ヨハンナの目が、遠くを見ていた。


 「マルグリット様は、そのヴェールをつけて、ヴィルヘルム様の隣に立っておられました。わたくしは後ろから見ていただけですが——あの日のお姿は、今も目に焼きついています」


 わたくしは、ヴェールの刺繍に目を落とした。


 小さな花。一つ一つが、細かく縫われている。


 (この花は、辺境の野花に似ている。リーゼロッテ様が好きだった花とも、少し似ている)


 (お母様は辺境の花が見たかった、とお父様が言っていた。だからこの刺繍を)


 胸の中で何かが揺れた。


 「ヨハンナ」


 「はい」


 「お母様は——辺境に来たかったのでしたね」


 ヨハンナが静かに頷いた。


 「リーゼロッテ様と学院でお友達だったと聞きました。リーゼロッテ様は辺境伯家に嫁がれた。マルグリット様はお体の都合で遠くへは行けなかった。でも——辺境の話を聞くのがお好きで」


 「リーゼロッテ様からの手紙を、大切にしておいでました」


 ヴェールをもう一度見た。


 刺繍の花が、灯火の中で白く光っていた。


 (お母様)


 口の中で、声にならない言葉が動いた。


 (わたくし、明日——このヴェールをつけて、辺境で式を挙げます。お母様が来たかった辺境で。リーゼロッテ様のお子様と。届いていますか)


 目の奥が熱くなった。


 こらえようとしたが、こぼれた。


 「……お嬢様」


 ヨハンナがそっと近づいた。


 「泣いてもよろしいのですよ」


 (その言葉を、今また)


 わたくしは頷いた。


 泣いた。


 静かに、声を出さずに。


 ヴェールを両手で持ったまま、しばらくそうしていた。


 やがて落ち着いた。


 目を拭いた。


 ヴェールを丁寧に折り直した。


 「明日、つけます」


 ヨハンナが頷いた。


 「マルグリット様が——とても喜ばれると思います」


 「……そうですね」


 わたくしは父への返事を書いた。


 短い手紙にした。


 『お父様へ。ヴェールを受け取りました。明日、つけます。お母様に——辺境に届いたと、伝えてください』


 封をして、ヨハンナに渡した。


 窓の外に夕空が広がっていた。


 橙色から、青紫へ変わっていくところだった。


 (お母様、明日——見ていてください)


 ヴェールを入れた木箱を、机の上に置いた。


 明日の朝まで、ここに。


 部屋に静けさが戻った。



---


 夜が更けても、眠れなかった。


 寝台に入って、目を閉じた。


 でも、頭の中が静かにならなかった。


 明日の朝のこと。


 教会への道のこと。


 カイン様の横顔のこと。


 ぐるぐると、静かに、眠れなかった。


 起き上がって、燭台に火を灯した。


 廊下に出ると、奥のお茶の間に灯りが見えた。


 扉を開けると、ヨハンナがいた。


 小さなテーブルに、お茶のカップが一つ。


 ヨハンナがわたくしを見て、少し目を見開いた。


 「お嬢様」


 「……眠れなくて」


 「わたくしも——眠れません」


 ヨハンナが言った。


 少しの間、二人でお互いを見た。


 「……ご一緒しても、いいですか」


 「もちろんです」


 ヨハンナがお茶を入れた。


 向かい合って、座った。


 しばらく、何も言わなかった。


 お茶の湯気が、静かに上がった。


 「こういう夜に、ぴたりと眠れる人はあまりいません」


 ヨハンナが柔らかく笑った。


 「ヨハンナも、そうでしたか」


 「はい。マルグリット様がご婚儀を挙げられた前夜も——わたくしは眠れませんでした。お仕えする方の大事な日は、眠れないものです」


 (ヨハンナがそんな夜を過ごしていたとは知らなかった)


 「明日——お嬢様は、花嫁になるのですね」


 静かな声だった。でも、その言葉には重みがあった。


 「ヨハンナ」


 「はい」


 「ありがとう」


 ヨハンナが少し目を上げた。


 「いつも、そばにいてくれて。ヴァルトシュタイン家にいたときから、辺境に来てからも、ずっと。あなたは何度もわたくしを助けてくれた。泣いてもいいと言ってくれた。お母様の話を聞かせてくれた。それは、仕事の範囲を超えていました」


 ヨハンナが目を伏せた。


 しばらく、何も言わなかった。


 「お嬢様」


 ヨハンナが、ゆっくりと顔を上げた。


 「マルグリット様に——お約束いたしました」


 「この子を——どうか、笑顔の多い場所へ連れて行ってあげて、と」


 「……はい」


 「その言葉を、三十年以上、覚えておりました。お嬢様が辺境に来たとき、ここが、その場所かもしれないと思いました。でも、まだ確かではなかった。お嬢様が笑えるようになるまでは、まだ、と思っていた」


 わたくしは何も言えなかった。


 「——ようやく、約束を果たせます」


 ヨハンナの目から、涙がこぼれた。


 静かだった。


 声は出なかった。


 ただ、涙が一粒、頬を伝った。


 わたくしの目も、熱くなった。


 「ヨハンナ」


 泣いた。


 でも、おかしかった。


 泣きながら、笑っていた。


 悲しくなかった。


 何かが、今夜、ここで完成した気がした。


 ヨハンナも泣いていた。


 でも、ヨハンナも笑っていた。


 二人で、お茶が冷えるのも忘れて、しばらくそうしていた。


 やがて落ち着いた。


 お茶を飲んだ。


 冷めていたが、おいしかった。


 「一つ、聞いてもいいですか」


 「はい」


 「お嬢様は——今、笑顔の多い場所にいますか」


 わたくしは少し考えた。


 カイン様のこと。


 ルーカスのこと。


 ゾフィのスープ。


 ゲルツのペンダント。


 城下の灯り。


 「——います」


 はっきり言えた。


 「辺境が、笑顔の多い場所でした。来てよかった、と、今は、こんなに思っています」


 ヨハンナがゆっくりと頷いた。


 「——マルグリット様に、伝えられます」


 その言葉が、静かに胸に落ちた。


 窓の外に、夜が広がっていた。


 月が少し傾いていた。


 「明日は——晴れますね」


 「きっと晴れます、お嬢様」


 もう少しだけ、二人でそこにいた。


 冷めたお茶を飲みながら、夜が少しずつ明けていくのを、静かに待った。



---


 目が覚めたとき、部屋の中がいつもより明るかった。


 カーテンの隙間から差し込む朝の光が、白い天井に細い縞を描いている。何時だろうと思い、横を向いて時計を探したとき——そうだ、今日だ、とわたくしは気づいた。


 今日が、結婚式の日だ。


 起き上がると、体が妙に軽かった。昨夜はなかなか眠れなくて、ヨハンナと夜半まで話し込んでいたのに、不思議なことに頭がはっきりしていた。


 窓の外を見ると、辺境の朝が静かに広がっていた。城下の屋根の向こうに、大河の反射光がきらりと光っている。薄く雲がかかっているが、それが光を柔らかく拡散して、いつもより穏やかな朝に見えた。


(今日は、いい天気になりそうね)


 扉が静かに開いて、ヨハンナが入ってきた。


 正装だった。いつもの端正なメイド服だが、胸元の飾りボタンが磨かれていて、髪が丁寧に結い上げられている。


「お嬢様。——お時間でございます」


 声が、かすかに震えていた。


 昨夜、二人でお茶を飲みながら泣いて笑って、夜半まで話し込んでいた。それでもヨハンナは今朝もこうして、一番に部屋に来ている。この人はいつも、そういう人だ。


「ええ」


 わたくしは足を床に下ろした。



---



 ドレスを着るのに、随分と時間がかかった。


 下着の上からまずスカートを重ね、次に胴衣を締める。ヨハンナの手が、いつもより慎重に、ひとつひとつの紐を通していく。


 白いドレスは、辺境の布地とヴァルトシュタイン家から届いた絹を合わせて仕立てたものだった。シンプルだが、胸元と袖口にウルズラたちが刺繍を入れてくれた。小さな野花の模様が、点々と続いている。ハンマーを振るうウルズラが、こんな細かい刺繍もできるとは思っていなかったが、布地を見たとき思わず息を飲んだ。


「……綺麗でございます」


 ヨハンナが小さく言った。


 鏡の中のわたくしは、まだドレス一枚だった。それでも、ヨハンナの目に涙が光っている。


「ヨハンナ。まだヴェールがありますよ」


「存じております。……存じておりますが」


 声が詰まっていた。


 ヨハンナが目元を布で押さえた。それからまた背筋を伸ばして、手を持ち直した。この人の芯の強さは、いつ見ても変わらない。



---



 マルグリットのヴェールを手に取ったとき、父の手紙の文字が脳裏をよぎった。


 ——母上のものだ。お前に使ってもらいたかった。母上もきっと喜ぶ。


 繊細なレースに、小さな花の刺繍。何十年も経っているのに、布は白く清潔なままだった。父が大事に保管し続けていたのだと、すぐにわかった。どれほど注意深く扱っていたのだろうと思ったら、目の奥が熱くなった。


 ヨハンナがそっとヴェールを受け取り、わたくしの頭に乗せる。


 整える指先が、小刻みに震えていた。


「……ヨハンナ」


「申し訳ございません。——手が、言うことを聞かなくて」


 でも、ヴェールは落ちなかった。震えながらも、ヨハンナの手はちゃんと仕事をしていた。


 鏡の中に、見知らぬ誰かが立っているようだった。でも、それはわたくし自身だった。白いドレスに、白いヴェール。母の刺繍が胸元の刺繍と重なって、まるで二つの花が並んで咲いているみたいだ、とわたくしは思った。



---



 扉が勢いよく開いたのは、ちょうどそのときだった。


「エリナ様! 花束、持ってきました!」


 ルーカスが駆け込んできた。両手でぎゅっと抱えた花束が、白と薄紫の野花でいっぱいになっている。摘みたてらしく、まだ朝露が光っていた。


 いつもなら「急に入ってくるものではありません」と言うところだが、今日ばかりは言えなかった。


「ルーカス。上手に摘めましたね」


「マルタと二人で早起きして。どこに咲いているか、もう全部頭に入ってるので」


 そこで、ルーカスがわたくしを見て止まった。


 走ってきた勢いのまま固まって、真ん丸い目が、さらに大きくなる。


「……エリナ、様」


「どうぞ」


 わたくしが手を差し出すと、ルーカスが花束をそっと渡してくれた。いつもよりずっと丁寧に。


 受け取ったとき、野花の香りがした。辺境の原っぱの、甘くない、さっぱりとした香りだ。



---



 廊下のほうで騒がしい声がした。


「ルーカス! エリナ様はまだ準備中って言ったでしょ! ヨハンナさんがそう言ってたじゃない!」


「でもほら、もう終わってるし」


「もう! ちょっと待ってよ……あ」


 マルタが顔を出したとたん、ぴたりと固まった。


 口を半開きにして、まばたきをして、またまばたきをした。


「……最高にきれいです」


 声がかすれていた。


「ありがとう、マルタ」


「いや、でも、本当に、本当にきれいで、わたし、なんか泣きそう」


「泣いていいですよ」


「だ、だって泣いたら花を摘んだのが恥ずかしいし……えっと、その、あの花束、ちゃんと受け取ってください! マルタとルーカスから!」


 そうか、さっきルーカスが持ってきた花束の半分は、マルタが摘んだのだ。二人で早起きして、辺境の野花を集めてくれた。それだけのことで、わたくしはもう目が熱くなってきていた。


 笑いながら、こらえた。



---



 厨房からゾフィが顔を出したのは、わたくしが廊下を歩いていたときだった。


 大きな体をエプロンごしに折り曲げて、ゾフィはわたくしをじっと見た。


 しばらくの間、何も言わなかった。


 それから、ぐしぐしと目元を拭った。


「あんた、きれいだよ」


 ぶっきらぼうに言って、また厨房に引っ込んだ。


 追いかけようとすると、扉の向こうから大きな声が聞こえた。


「ちょっとちょっとちょっと! 煮崩れる! 見てる場合じゃない! ……でも、きれいだった。うん。きれいだったよ。あたし、ちゃんと見た」


 最後のほうは独り言のようだったが、しっかり聞こえた。


 準備が整ったのは、朝の光が城の石壁を金色に染め始めたころだった。


 出発まで少しだけ時間がある、とヨハンナが言った。


「どこかで一息つかれますか」


 わたくしはしばらく考えた。考えるまでもなく、足が向く場所は決まっていた。


 温室は朝の光に満ちていた。


 葉の上の露が輝き、土の香りがほのかに鼻をくすぐる。鈴蘭は白い花を揺らし、窓から差し込む光が葉に縞を作っている。ここにいると、いつも少し息がゆっくりになる。


 そして、鉢植えの前に立ったとき、わたくしは息を止めた。


 八輪目が咲いていた。


 白い花が、朝の光の中で揺れている。


 一輪、二輪、三輪と数えていくと、全部で八輪。最後のひとつが、今朝、開いたのだ。


 花びらの端がまだわずかにやわらかく、水分をたっぷり含んでいる。それが開きたての証だった。


「今日——咲いたのね」


 誰もいない温室で、わたくしはそっと言った。



---



 この鉢植えが窓辺にやって来たのは、随分と前のことだ。


 嵐の後、泥の中にあった小さな芽を、カイン様が掘り起こして鉢に移してくれた。「踏まれる場所にあった」とだけ言って、窓辺に置いてくれた。


 一輪目が咲いたとき、カイン様が少しだけ目を細めた。あの日のカイン様の顔が、今でも鮮明に思い出せる。


 二輪目が咲いたとき、わたくしはまだここが「仮住まい」だと思っていた。


 三輪、四輪と続いて、七輪目が咲いたころには、わたくしたちは隣同士で城壁の上に立っていた。


 そして今朝——八輪目が、結婚式の朝に開いた。



---



(まるで、ずっと待っていたみたいね)


 鉢植えの花びらに指先をそっと近づけた。触れはしなかった。ただ、近くに手を置いた。


 朝の光の中で花が揺れた。


「覚えていますよ」


 声に出して、花に話しかけた。ヨハンナが聞いたら笑うかもしれないが、今日くらいは許してほしい。


「あなたが最初に芽を出したとき、わたくしはここが怖くて、ひとりで帳簿ばかり見ていた。——でも、あなたが咲いてくれるたびに、少しずつ、ここが家になっていった気がします」


 背後でヨハンナの気配がした。


「お嬢様。——そろそろお時間でございます」


 わたくしは鉢植えをもう一度だけ見た。


 八つの白い花が、揺れていた。


 まるで「行ってきなさい」と言うように。


「ええ」


 わたくしは振り返った。


「参りましょう」


---


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