第110話「教会への道」
第110話「教会への道」
城の正門を出たとき、わたくしは思わず立ち止まった。
石畳の両側に、人々が並んでいた。
どこまで続いているのかと目を凝らすと、城下の通りをずっと伝って、教会のある広場の手前まで人垣が途切れていなかった。全員がこちらを向いて立っている。
ヨハンナが小さく言った。
「皆さん、朝早くから来てくださっていたのですよ。夜明け前からいた方もおられるとか」
夜明け前から。
わたくしは一度、目を閉じた。
城下の通りに、見知った顔が並んでいる。
フランツが人垣の端に立っていた。鍛冶師の大きな体が、周囲よりひとまわり大きい。仕事道具のハンマーを持っていた。
それを地面の石に打ち当てた。
カン——
金属の音が、朝の空気に鋭く響く。一度ではなく、カン、カン、カンと繰り返した。祝砲の代わりだと、すぐわかった。フランツらしい祝い方だと思った。
その隣でマルクスが笛を取り出し、高い音を吹き始めた。辺境の古い民謡に似た旋律だったが、今日のために作ったのか、わたくしには聞き覚えがなかった。コンラートが弦をかき鳴らす。楽器らしい楽器はそれだけだったが、石畳に音が重なると、ちゃんと行進の音楽に聞こえた。
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「おめでとうございます!」
誰かが叫んだ。
それが合図になったように、あちこちから声が上がった。
「辺境伯夫人!」
「エリナ様、おめでとう!」
「きれいだよ、エリナ様!」
子供の声もあった。お母さんに抱かれた幼子が、小さな手を懸命に振っている。その子の母親がわたくしと目が合うと、深く頭を下げた。
道の両側から花が投げられた。野の花だ。鮮やかな黄色、薄紫、白——辺境の原っぱに咲く、名もない花たち。石畳の上に積もっていく。歩くたびに、踏むのがもったいないような気持ちになる。
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人垣の中に、ウルズラの顔が見えた。
刺繍職人の、大きな声の女性だ。今日のドレスの刺繍を手がけてくれた人でもある。腕組みをしながらも、目元が明らかに赤い。
「あんたが来たときは——こんな日が来るなんて、思わなかったよ」
声は大きかったが、震えていた。
「最初は正直、どんな厄介な娘が来たかと思ったね。王都から来た令嬢が、辺境で何ができるんだってさ」
「……そうですね」
「でもね、あんたが来て、この町が変わったのはわかってたんだよ。少しずつ、少しずつね。仕事が増えて、子供たちが笑うようになって、帳簿の話は難しくてわからなかったけど、町が明るくなるのは肌でわかった」
ウルズラが、分厚い手のひらで目元を押さえた。
「おめでとう、エリナ。——本当に、おめでとう」
「ありがとうございます」
声が詰まって、それ以上言えなかった。
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足を進めながら、わたくしはあの日のことを思い出していた。
初めてこの城下に来たとき。
冬の空は低く、風は刃のように冷たかった。馬車から降りたとき、城下の人々はわたくしを遠巻きにして見ていた。子供が母親の陰に隠れた。老人が目を逸らした。誰も笑っていなかった。
歓迎でも無視でもなく——様子見。
王都から来た令嬢がどんな人間かわからないから、近づかない。それだけの話だったと、今はわかる。でも当時は、辺境の冷たさが、冬の空気と混ざって肌に刺さるようだった。
到着した夜、部屋の窓から城下を見た。暗くて、遠くて、知らない土地だと思った。
城に案内してくれたディートリヒが、「食事をお持ちします」と言って去った後、部屋でひとり帳簿を広げた。何かをしていないと不安だった。辺境の数字を並べながら、どこかに手をかけられる仕事がないか探した。
あの夜のわたくしは、ここで誰かに笑ってもらえるなどとは思っていなかった。
ただ、役に立てれば、それでいいと思っていた。
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(あの日も、石畳を歩いた)
わたくしは足元を見た。
同じ石畳。同じ城下の通り。でも、今は花が降ってくる。
人垣が続いている。みんな笑っている。
(あの日は——誰も笑わなかった)
鼻の奥が、つんとした。
あの日は何も知らなかった。ウルズラが刺繍を手がけてくれる人だとも、ザウアー翁が麦のことを誰より知っているとも、ルーカスがこんなに走り回る子供だとも。
知らなかったから、怖かった。
でも——一人ずつ知っていくたびに、辺境が広くなった。家の中に部屋が増えていくみたいに。
花をひとつ、拾い上げた。
誰かが投げた小さな野花。名前も知らない、辺境の原っぱに咲く白い花だ。それでも今日は、世界で一番きれいな花に見えた。
わたくしは顔を上げて、手を振った。
群衆が沸く。子供たちがはしゃぐ。フランツのハンマーがまたカンと鳴る。マルクスの笛が高い音を伸ばす。
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「エリナ様!」
人垣の外から元気のいい声がした。
ルーカスが、人の波を縫うように走ってきた。群衆の端で跳び跳ねながらこちらを見ている。
「先回りしてました! 教会まで、また先に行って待ってます!」
「転ばないようにね」
「転びません!」
自信満々に言って、また走っていった。後ろからマルタの「待ってよ! あたしも行く!」という声が追いかけていく。
群衆から笑いが起きた。ルーカスが来るたびに笑いが起きるのは、もうお馴染みの光景だ。
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通りの曲がり角で、見覚えのある老人が腕を組んで立っていた。
フィア村のザウアー翁だ。麦畑と麦酒を誰より愛する、白髪の長老。普段は口うるさく、滅多に他人を褒めない。
今朝は、皺だらけの顔に静かな表情を浮かべていた。
わたくしが前を通ると、ザウアー翁は組んでいた腕を解いて、短く言った。
「よかったな、エリナ嬢」
それだけだった。
だがそれで十分だった。言葉が少ないから、余計に重かった。
「ありがとうございます、ザウアーさん」
教会が見えてきた。
辺境の小さな石造りの教会。お世辞にも豪華とは言えない。丸い塔は低く、石壁には染みが残っている。でも今日は、窓から光が溢れていた。
足を止めて、振り返った。
通りの両側に、まだ人々が並んでいる。見知った顔、少ししか話したことのない顔、名前も知らない顔——でも全員が、こちらを見て笑っていた。
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(この人たちと、ここで、冬を越えた)
辺境に来た最初の夜、わたくしは凍えながら城の窓から城下を見た。暗くて、遠くて、誰も知らない土地だと思った。
最初の冬、食料が足りなかった。真冬に馬が病気になった。春には川が氾濫しかけた。あの頃は毎日、何かが起きていた。
でも、その一つひとつを越えていくたびに、辺境が少しずつわたくしのものになっていった。
帳簿に「辺境伯領」と書くとき、最初は他所の言葉みたいだった。いつからか、自分のことを書いている気がするようになった。
でも今は——
(家だ。ここが、わたくしの家だ)
ふと、前世のことを思った。
(あのときの自分には、こんな朝は来なかった)
机の上にタスクリストだけ残して死んだ人間には、こんな石畳も、こんな花も、こんな笑い声もなかった。
でも今は——わたくしは今、白いドレスを着て、花が降ってくる道を歩いている。
(よかった。ここに来てよかった)
ヨハンナが隣に立っていた。
「お嬢様」
「ええ」
返事にならない返事をして、わたくしは前を向いた。
目が熱かった。でも、泣かなかった。
教会の扉が開いている。中から、灯りと鈴蘭の香りが漂ってきた。
一歩、踏み出した。
石畳の上に、野花が一枚落ちていた。踏まないように、少しだけ歩幅を変えて、わたくしは教会の中に入った。
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扉をくぐると、香りが来た。
鈴蘭だ——とわたくしはすぐにわかった。温室で何度も嗅いできた、あの白い花の、清涼な香り。それが石造りの教会の中に静かに満ちていた。温室の外でこの香りがするのは、初めてだった。
教会の中は、思ったより広く感じた。
石造りの壁は古く、天井の梁に年季が入っている。装飾は少ない。辺境の教会らしく、質素だ。
でも今日は違った。
窓辺にルーン石の飾りが置かれていた。ゲルツが婚礼のために別に作ってくれたものだ。淡い青白い光が石の中で脈打っていて、外からの朝日に混ざって、壁に不思議な模様を描き出している。光は揺れるたびに変わる。まるで水の底から見上げているようだった。
祭壇には鈴蘭の束が置かれていた。リーゼロッテ様が愛した花。カイン様のお母様の花。今日は祭壇で、静かに白い頭を傾けていた。祭壇布の白と重なって、清潔な光の中に浮かんで見える。
通路の両側の壁には、辺境の野花が飾られていた。鮮やかな黄色、薄紫、橙色——華美ではないが、色とりどりで明るかった。城下の女たちが摘んで束ねたものだとヨハンナから聞いていた。名前も知らない花ばかりだが、辺境の原っぱに咲く花だからこそ、ここに相応しかった。
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(小さいけれど、美しい)
王都の大聖堂とは比べ物にならない。豪奢な石柱も、高い丸天井も、金箔の装飾もない。
でも、この教会の方が——ずっとここにいたいと思えた。
辺境の人々の手で、辺境の素材で、辺境らしく飾られた教会。これ以上ふさわしい場所はないと思った。
ルーン石の光が揺れた。ゲルツが一つひとつ丁寧に磨いて作った飾りだ。祭壇の鈴蘭が静かに揺れた。リーゼロッテ様が温室で育てた花の子孫が、今日ここに飾られている。
この場所には、辺境の歴史が積み重なっている。石の一枚ひとつに。梁の傷の一本ひとつに。
そこに、今日、わたくしのことも刻まれる。
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参列者が通路の両側に立っていた。
入り口から祭壇まで、ゆっくりと目を動かすと——見知った顔が並んでいる。
目が合うたびに、わたくしは小さく息をついた。
この人たちのことを、辺境に来た最初の日は一人も知らなかった。名前も、顔も、声も知らなかった。知ろうとしていたかどうかも、あやしい。
それが今日、全員がここに来ている。
わたくしの結婚式のために。
(どうして、こんなことに)
内心では笑いながら、でも目が熱くなってくる。
(こんなに、あたたかい)
父ヴィルヘルムが前列にいた。
黒い礼服をまとって、背筋が伸びていた。いつもの厳格な顔だ。変わらない。でも——わたくしが入ってくるのを見て、目を細めた。父があんな顔をするとは思っていなかった。
その隣のクラウス兄様は、すでに目が赤かった。泣いているわけではない。でも、目の縁が赤い。さっきからそうだ。
(お兄様、もう泣きそうでしょう)
思わず口元がほどけそうになった。
ルドルフが人垣の端から手を振った。
「いい顔してる!」
こそこそと言える声ではなかったが、周りの人々が小さく笑った。ルドルフらしかった。
ディートリヒが壁際に真っすぐ立っていた。副官の正装をして、腕を後ろに組んでいる。いつもの皮肉屋の顔ではなく、ただ静かに——でも確かに、何かをこらえているような目をしていた。
フリッツとハンスが並んでいる。古参の騎士二人は、武骨な顔に武骨な表情のまま、でも両方ともわたくしが歩いてくるのをじっと見ていた。フリッツが一度だけ、こくりと頷いた。
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ゲルツが大きな体を縮こまらせるようにして立っていた。クレイン村の鉱夫親方は普段、地下の坑道を闊歩している人だ。教会の中が少し窮屈そうではあったが、目は穏やかだった。
ガルスはミルト村の漁師らしく、日に焼けた顔をして直立していた。礼服を着ているが、どことなく川の匂いがするような気がした。
ザウアー翁はもう先回りして席に着いていて、腕を組んで目を閉じていた。寝ているのか、深く考えているのか、祈っているのか——わからない。でも、わたくしが横を通ると、片目をあけてひとつ頷いた。
ベルンハルトとレムケは教会の扉近くに立っていた。今日は剣こそ持っていないが、自然と体の向きが周囲を確認する方向を向いている。職業病だ、とわたくしは思った。でも、それでもちゃんと笑っていた。
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ルーカスとマルタが一番後ろの列で並んでいた。
二人ともそわそわしていて、ルーカスが背伸びをしてわたくしを見つけると、指をさして口だけで「すごい!」と言った。マルタがそれを肘でつついた。二人ともいつもと変わらない。その変わらなさが、今日はとても嬉しかった。
ルーカスが辺境に来たとき、まだ字が満足に書けなかった。毎日少しずつ読み書きを習って、今では帳簿の数字を追える。マルタは最初からずっと元気で、辺境の原っぱを庭みたいに走り回っていた。
この二人が大きくなっていくのを、これからも見ていられる。
(それは、とても嬉しいことだ)
祭壇の近くに一人、見慣れない顔があった。
端正な顔立ちの、年配の男性だ。落ち着いた色の礼服をまとって、書状を手に持っている。
ヨハンナが小声で教えてくれた。
「シュテファン陛下の名代、ヴォルフ侍従でございます。新国王陛下の祝辞をお持ちです」
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式が始まると、ヴォルフ侍従が前に立って書状を広げた。
声は低く、落ち着いていた。宮廷に長く仕えてきた人の声だ。
「新国王シュテファン陛下より、辺境伯カイン・ドラクロワ殿と、エリナ・フォン・ヴァルトシュタイン殿の婚礼に祝辞を贈る。——辺境伯領は王国の礎であり、両名の治世は国民の模範である。願わくは、長き幸いを」
それだけだった。
短い。だが、重かった。
シュテファン陛下の手紙にあった言葉を思い出した。——辺境伯とお二人は、王国の未来の一部だ。
こんなふうに言葉が届くとは思っていなかった。王都からの書状が、この小さな辺境の教会で読み上げられている。王都の時代と辺境の今が、ここで繋がった気がした。
あの日、大広間で婚約破棄を告げられたとき、王都での生活が終わった。辺境に来て、別の生活が始まった。その辺境の生活が、今度は王都からも認められている。
ぐるりと回って、ここにいる。
ヴォルフ侍従が書状を閉じて一礼し、下がった。
神官が前に出た。
背の高い老人で、穏やかな顔をしていた。辺境に長く仕えてきた神官だと聞いていた。この教会の石の染みも、梁の傷も、全部この人が見てきたのだろう。
「では、誓いの時間を始めましょう」
神官の声が石壁に響いた。
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広間が静かになった。
外の音が遠くなる。城下の賑わいも、朝の鳥の声も、ここでは届かない。石造りの壁が、教会の中を外の世界から切り離している。
この空間の中に、今、わたくしが大切にしてきた人たちが全員いる。
父が、兄が。ヨハンナが。ルドルフが、ディートリヒが、フリッツが。ゲルツが、ガルスが、ザウアー翁が。ルーカスが、マルタが。
辺境に来てから一人ひとり知っていった人たちが、今日この場所に集まっている。
王都にいた頃、わたくしには知人は多くいたが——こんなふうに、誰かのために場所に来てくれる人は、いなかったかもしれない。
(辺境に来てよかった)
わたくしは祭壇の前に立って、正面を見た。
カイン様が、そこにいた。
正装のカイン様が、祭壇の前で、わたくしを待っていた。
わたくしは一歩、前へ進んだ。
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