第111話「永遠の約束」
第111話「永遠の約束」
カイン様は、祭壇の前に立っていた。
正装だった。紺と金の礼服、辺境伯の正式な服だ。平素の実用的な衣装とは違い、肩幅が広く見えた。刺繍の入った袖口、磨かれた金ボタン。
わたくしはカイン様のことを、何年も見てきた。でも今日は、初めて見るような気がした。
表情は、硬かった。
こんなに顔が固いカイン様は珍しい。いつもは無表情だが、今日は違う。眉間に力が入っていて、唇がわずかに結ばれている。手が、少し握られていた。
(緊張している)
わたくしもそうだったから、すぐわかった。
(あのカイン様が緊張されているなら、わたくしだけではないわ)
それだけで、少し気が楽になった。
父が隣に立った。
「参りましょう、エリナ」
厳格な声だった。いつもの父の声。
腕を差し出す手が、少しだけ震えていた。
わたくしは父の腕をとった。
歩き始めたとき、父が低い声で言った。
「行ってこい」
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あの日も、同じ言葉を言った。
辺境に発つ朝。馬車に乗り込もうとするわたくしの背中に、父は「行ってこい」とだけ言った。それ以上でも、それ以下でもなかった。
あの日の父の声は、何を思っていたのだろう、とずっと不思議だった。
後悔だったのか、詫びだったのか、それとも期待だったのか。
わからなかった。でも今日は——今日の「行ってこい」は、あの日と同じ言葉で、全く違う意味を持っていた。
辺境送りではない。
父が娘を、花嫁として送り出す言葉だ。
わたくしが自分で選んだ場所へ、父が送り出してくれる。
それだけで、父があの日も「行ってこい」という言葉しか持っていなかったことが、すこし、わかった気がした。
石畳の通路を、一歩ずつ歩いた。
両側の参列者の顔が、ゆっくりと流れていく。でも、わたくしの目は、祭壇の前に立つ人から離れなかった。
カイン様が、わたくしを見た。
固かった表情が、動いた。
動けなくなっている、と気づいた。
視線がわたくしに向いて、そのまま止まっている。眉間の力が抜けて、唇がかすかに開いた。
耳が、赤い。
正装の礼服の首元から、耳の端まで——かすかに、朱が差している。
(ああ、もう)
わたくしはこらえながら歩いた。
笑うわけにいかない。式の途中だ。でも、胸の奥がじんとして、目が熱くなってくる。
父がわたくしの手を取って、カイン様の手に渡した。
掌が触れた瞬間、カイン様の手が少し強く、握られた。
(温かい)
体温が伝わってくる。この手の温度を、わたくしは何度も知っている。冬の城壁の上で、馬車の中で、温室で、何度も触れてきた手だ。
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神官が言葉を紡ぎ始めた。
声は穏やかで、古い祝辞の形式をなぞっていた。
「二人はこの地において、互いに尊び、支え合い、長き年月を共に歩むことを誓いますか」
神官の言葉が石壁に響く。
でも、わたくしには半分しか聞こえていなかった。
カイン様の手の温度だけが、はっきりとわかった。
この手の温度を知っている。馬車の中で、温室で、城壁の上で——何度も触れてきた手だ。冬の夜でも、この手は温かかった。これからも、この手はこの温度を持ち続けるのだろう。
(ずっと、ここにいます)
心の中で、もう一度だけ言った。
「誓いの言葉を」
神官が促した。
カイン様が息を吸った。
一拍、間があった。
参列者が息をつめているのが、背後でわかった。
「俺は——」
声が出た。低く、かすかに揺れていた。カイン様のこんな声を、わたくしは聞いたことがなかった。
「言葉が下手だ。今までも、これからも」
参列者の誰かが、ふっと息を漏らした。笑いではない。——そうだ、とわかっている声だ。
「でも——」
カイン様が続けた。
「お前がいない日は、考えられない」
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プロポーズの夜にも、同じ言葉を聞いた。
あの夜、城壁の上で。月がきれいで、風が冷たくて、カイン様が短い言葉を絞り出した。「お前がいない日は考えられない」——その言葉がわたくしの中で、ずっと鳴り続けていた。
同じ言葉なのに、今日の方が、もっと深くに届いた。
「お前の隣にいることだけが、俺にできる約束だ」
短い言葉だった。飾りがなかった。でも、その言葉にはカイン様のすべてが入っていた。言葉の少ない人だから、その少ない言葉の一つひとつに、全部の重さがある。
「だから——ずっと、ここにいてくれ」
わたくしは息を整えた。
目が熱い。でも今は、泣かない。
「はい」
声が出た。思ったより、はっきりとした声が出た。
「——ずっと、ここにいます」
指輪が交わされた。
カイン様の指がわたくしの指に触れる。薬指に、指輪がはまる。金属の輪が冷たくて、でも少ししたら体温が移って温かくなるだろうと思った。
カイン様の指輪をはめるとき、カイン様の手が——一瞬だけ、止まった。
緊張しているからではなかった。何かを確かめるように、指輪をはめた指をそっと押さえていた。
神官が言った。
「誓いの口付けを」
カイン様が少し前に来た。
わたくしは目を閉じた。
そのとき、窓から風が入った。
薄い光とともに、白い花びらが舞い込んできた。鈴蘭の花びらだ。祭壇の鈴蘭が揺れたのだろう。
ふわりと空を漂って、石畳に降りた。
背後で誰かが泣いていた。
声を抑えた泣き声だったが、静かな教会の石壁に響いた。誰かはわからなかった。でも、複数だった。
口付けが終わると、教会の中に拍手が起きた。
石造りの壁が音を増幅して、小さな教会がしばらく揺れるようだった。
誰かが「おめでとうございます!」と声を上げた。それが連なって、拍手と声が重なり合う。
ルーカスが後ろの方で何かを叫んでいた。マルタがその隣で飛び跳ねているのが、遠くでもわかった。
カイン様がわたくしを見た。
何も言わなかった。
でも、目が、さっきまでと違った。
いつもの無表情ではなく、困ったような、照れているような、でも確かに、何かが満ちている目だった。
胸が、静かにいっぱいになった。この人がこんな顔をするのが、わたくしにはわかる。長い時間をかけて、少しずつ覚えてきた顔だ。これからも、ずっと、毎日一番近くで見続ける顔だ。
「カイン様」
「……ああ」
「緊張が、全部伝わっていましたよ」
「……それは」
カイン様が少し間を置いた。
「聞かなかったことにしてくれ」
わたくしは笑った。
「いいえ」
カイン様が目を細めた。
「……うるさい」
口元が、わずかにほどけていた。
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ふと、辺境に来た最初の日を思い出した。
城に着いたとき、カイン様は「来たか」と言っただけだった。それが第一声だった。無愛想で、短くて、歓迎でも冷遇でもない言葉。
あの日から、何年が経っただろう。
その間に、一緒に冬を越えて、一緒に問題を解決して、城壁の上で何度も並んで立った。
言葉が少ない人だけれど、その少ない言葉の一つひとつが、ちゃんとわたくしに届いていた。
プロポーズのときも、今日の誓いのときも、カイン様は同じ言葉を言った。「お前がいない日は考えられない」と。
でも今日の言葉には、あの夜より重いものが乗っていた。
教会が、参列者の前で、神官の前で言った言葉だ。
カイン様の指輪が、朝の光を受けてかすかに輝いていた。
わたくしのものと同じ形をした、シンプルな金の輪。これからずっと、この人の手に。
(ちゃんと、ここにいます)
心の中で、もう一度だけ言った。
教会の窓から差し込む光の中で、鈴蘭の花びらが一枚、まだ空に漂っていた。
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祝宴は、城の大広間で開かれた。
ゾフィが三日かけて仕込んだ料理が、長いテーブルの上に並んでいる。燻製サーモン、麦のパン、野菜と肉の煮込み、甘い焼き菓子、塩漬けのきのこ。辺境の食材を使い尽くしたような、豊かな食卓だった。テーブルの端に鈴蘭の小さな花束が飾られていて、料理の香りの中にかすかな白い香りが混じっていた。
席についた瞬間、ゾフィが立ち上がりそうな勢いで言った。
「食べてください! 全部食べてくださいよ!」
「ゾフィ、まだ始まったばかりですよ」
「だからこそです! 始まる前から全部食べてほしいくらいです!」
どういう理屈なのかよくわからなかったが、テーブルを囲んだ全員が笑った。
「三日仕込みました!」ゾフィが続けた。「スープは昨夜から火にかけてました! パンは夜明け前から焼きました! サーモンは昨日の朝にガルスさんが届けてくれた一番いいやつです!」
「きちんと食べます」とわたくしは言った。
「絶対ですよ!」
ゾフィが席に戻ったが、目は既にテーブルの上を巡回していた。
ルドルフが立ち上がった。
いつもの通り背筋が伸びていて、商人らしい声が広間に通った。
「乾杯の前に——一言だけ」
手に杯を持ったまま、ルドルフはわたくしとカイン様を交互に見た。
「あたしが初めてこの二人を見たとき——」
声が、ほんの少し低くなった。
「カイン様の目が変わったのを、今でも覚えている」
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広間がしんとした。
「辺境に来たばかりのエリナ嬢が、あたしに帳簿の改善案を持ってきた日のことだ。報告の後で、カイン様がエリナ嬢を見る目が、それまでと違った」
ルドルフが続ける。
「あたしはそれを見て思ったよ。ああ、これは面白いことになるな、ってね」
ぽつぽつと笑いが起きた。
「正直、ここまで面白くなるとは思わなかったけどね」
もっと大きな笑いが起きた。
「まさか本当に、結婚式の乾杯を言わされる日が来るとは。エリナ、カイン様、おめでとう。あんたたちと出会えて、あたしは最高の取引をした」
ルドルフが杯を高く上げた。
「乾杯!」
「乾杯!」
広間に声が重なった。
食事が進んだ。
ガルスが席を立って、ゾフィのところに行き「サーモン、今年で一番の出来だ」と言った。ゾフィが「当たり前でしょ!」と返した。ゲルツが黙って三皿目のおかわりをとった。ザウアー翁は麦のパンをゆっくり嚙みながら、目を細めて天井を見ていた。
父ヴィルヘルムが、珍しく口元をほどいて、クラウス兄様と何かを話していた。どちらも珍しく穏やかな表情だった。
しばらくして、ディートリヒが立ち上がった。
副官らしく、きちんとした姿勢だった。でも目が、いつもより少しだけやわらかかった。
「旦那様」
カイン様を見た。
「一点、申し上げたいことがございます」
カイン様が眉を上げた。
「……何だ」
「旦那様は長年、こう仰っておいでだった」
ディートリヒが、少し間を置いた。
「……『悪くない』と」
広間が、また静かになった。
「辺境の収穫が上がったとき。エリナ様の提案が実を結んだとき。冬越しが無事に終わったとき。旦那様のお言葉は、いつも『悪くない』でした」
ディートリヒが続けた。
「初めてその言葉を聞いたとき、わたくしは驚いたものです。辺境伯が『悪くない』と言う日が来るとは、それまで思ってもいなかったので」
「旦那様」
ディートリヒの声が、少しだけ柔らかくなった。
「——もう、『悪くない』では足りませんよ」
広間にどっと笑いが起きた。
カイン様は一瞬、ディートリヒを見た。
「……うるさい」
それだけ言ったが、口元が、かすかにほどけていた。
広間がまたひとしきり笑った。
笑いが収まりかけたとき、今度はクラウス兄様が立ち上がった。
目がもう赤かった。式のときからずっと赤い。もう隠す気もないらしかった。
「俺も一言、言わせてもらう」
声は凛としていた。
「エリナ」
わたくしを見た。
「お前が辺境に行くと決まったとき、俺は何もできなかった。父上も、俺も」
広間が静かになった。
「手紙しか送れなかった。それしかできなかった。だが、お前は自分でやった。自分の力で、この場所に立った」
クラウス兄様の声が、少し揺れた。
「辺境伯」
今度は、カイン様を見た。
「お前がエリナの隣に立つ資格があるかどうか、俺はずっと考えていた。正直に言う」
カイン様が正面からクラウス兄様を見た。静かな目だった。
「——あると、認める」
一拍、沈黙があった。
「俺の妹を——頼む」
クラウス兄様が杯を上げた。
「殺すのは——永久に保留だ」
広間が一瞬静まって——それから、今日一番の笑いが起きた。
フリッツが珍しく声を立てて笑った。ハンスが隣でむせた。ルドルフが腹を抱えた。ゲルツが豪快に笑った。ザウアー翁が片眉を上げてから、静かに笑った。
カイン様が「……ありがたい」と、真顔で言った。それでまたひとしきり笑いが重なった。
父ヴィルヘルムが席を立った。
広間がまた静かになる。父は口下手だ。スピーチが好きな人ではない。でも今日は、短く言った。
「エリナ」
わたくしを見た。
「お前は——よくやった」
それだけだった。
でも十分だった。
父が席に戻るとき、クラウス兄様が「父上、短い」と囁いた。父が「十分だ」と返した。それが広間の端に届いて、笑いが起きた。
ルーカスが手を挙げた。
「あの、ぼくも、いいですか」
広間の視線が集まる。ルーカスが少し緊張した顔で立ち上がった。
「ぼく、エリナ様が来てから字を覚えました。帳簿の読み方も、少し。計算も」
声が真剣だった。
「エリナ様が教えてくれたから。——ぼく、いつか、辺境のためになる仕事をします。だから」
言葉を探して、ルーカスは続けた。
「ずっと、ここにいてください」
マルタが隣で「わたしも!」と手を上げた。
「わたしも、ずっとここにいてほしいです! 絶対です!」
わたくしは笑った。笑いながら、目が熱くなった。
「ええ。——ここが、わたくしの家ですもの」
父ヴィルヘルムが、前列の席からじっとわたくしを見ていた。
何も言わなかった。
でも、目が細くなっていた。それだけで十分だった。
ヨハンナが広間の端に立っていた。
エプロンの端をそっと握っていた。目は乾いていた。でも、表情が穏やかで、柔らかくて、ずっと見たかったものを見ているような顔をしていた。
昨夜、「ようやく、約束を果たせます」と言いながら泣いたヨハンナが、今日は泣いていない。もう、泣かなくていい場所に来たのだということが、わかった。
夜が更けても、祝宴は続いた。
フランツが鍛えた飾り金具が壁に飾られていた。ベルンハルトとレムケが交互に見回りをしながら、合間に乾杯した。ガルスとゲルツが黙って並んで酒を飲んでいた。ザウアー翁がいつの間にか眠っていて、フリッツがそっと毛布をかけていた。
広間の端で、ルドルフがわたくしの隣に来た。
「いい夜だね」
「ええ」
「エリナ」
ルドルフが杯を傾けながら言った。
「あんたと初めて帳簿を並べたとき、あたし、思ったんだよ。この娘は、辺境に根を張る、って」
「そんな頃から」
「商人ってのはね、そういうのを見る目だけは育つんだよ。勘ってやつ。今日は、勘が当たった話を聞いてくれよ、ってだけ言いに来た」
ルドルフが笑った。
わたくしは杯を持って、広間を見渡した。
笑い声がある。料理の香りがある。ゾフィがまた「食べてください!」と叫んでいる。ルーカスとマルタが走り回っている。カイン様がディートリヒに何か言われて「うるさい」と答えている。父とクラウス兄様が並んで座っている。
(この景色が、わたくしの家だ)
杯を上げた。
「乾杯」
隣のルドルフが、杯を合わせた。
「乾杯」
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