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婚約破棄されたので辺境で好きに生きます〜なぜか辺境伯に溺愛されていますが〜  作者: きなこ
第4章「辺境の花嫁と永遠の約束」

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第112話「ルドルフの帳簿」

第112話「ルドルフの帳簿」


 祝宴が落ち着いてきた頃、ルドルフがわたくしの隣に来て「少しいいか」と言った。


 手に、細長い木箱を持っていた。


 「結婚祝いだ」


 ルドルフが箱をわたくしに差し出した。いつもより少しだけ真剣な顔をしていた。商談のときの顔に似ていたが、もう少し柔らかかった。


 受け取ると、ずっしりとした重さがある。


 蓋を開けると、帳簿が入っていた。


 黒い革表紙の、分厚い帳簿だ。あちこちに使い込んだ跡がある。表紙の端が擦れて、背表紙の色が少し薄くなっていた。


「これは——」


「あんたと初めて取引したときから、全部書いてある帳簿だよ」


 わたくしは帳簿を手に取った。


 最初のページを開くと、見覚えのある品名が並んでいた。


 干し肉。根菜の塩漬け。麦のパン。


 辺境に来て最初の冬、ルドルフに売り込みに行った、あの日の取引だ。


(あの日は、帳簿を抱えて城下に降りたのだったわ)


 前世でいえばゼロから営業に行くようなものだった。商品はあっても、売り先がなければ意味がない。ルドルフが話を聞いてくれなかったら、どうなっていたかわからない。


 ページをめくる。


 燻製サーモンの初出荷。王都食品商三社との契約。グラフ紋章の統一印の採用。美肌薬の初回出荷。温泉事業のルドルフとの覚書。


 数字と品名と日付が、淡々と並んでいる。でも一行一行に、あの頃のことが蘇る。サーモンを三日で完売させたときのルドルフの顔。美肌薬の最初の試作品を持っていったとき「あんた、本気だな」と言われたこと。


 最後のページに来た。


 そこだけ、字体が違った。


 ルドルフ自身の手書きで、こう書かれていた。


 「辺境伯夫人エリナ・ドラクロワ殿の功績に——商人としての最大の敬意を」


 わたくしは、その行を、もう一度読んだ。


 「エリナ・ドラクロワ」という名前が、帳簿の上にある。今日からの名前だ。ヴァルトシュタインではなく、ドラクロワ。辺境伯夫人。


「ルドルフ」


「なんだい」


 声が、少し詰まった。


「これ——全部、取っておいてくれたのですか」


「商人ってのは帳簿を捨てないもんだよ」


 ルドルフが言った。口元がゆるんでいる。


「ただの商売記録だ。でも、あたしにとっては——」


 一拍、間があった。


「一番面白い仕事の記録だよ」


 わたくしは帳簿を抱きしめた。


 革表紙の感触と、少しだけ黴と紙の混じった匂いがした。ずっしりとした重さが、胸に当たる。


 数字だけが並んでいる帳簿なのに、重かった。


 あの冬の寒さが、春の泥の匂いが、夏市の喧噪が、全部詰まっているようだった。


「ルドルフ」


「なんだい」


「——わたくしも、あなたと出会えてよかった」


 ルドルフが少し笑った。目元が、ほんのわずか細くなった。


「あんたと出会えてよかった」


 ルドルフが、もう一度言った。


「あたしの一番の取引だ」


 わたくしは帳簿を胸に抱いたまま、ルドルフを見た。


 ルドルフはいつも通りだった。背筋が伸びていて、目が鋭くて、商人としての凛とした雰囲気がある。感傷的な素振りは、ほとんど見せない人だ。


 でも今日は、目の端が少しだけやわらかかった。


(この人は、ずっと見ていてくれたのだわ)


 帳簿を取引記録として書き続けながら、わたくしの仕事を、ずっと隣で見ていた。


「次の取引の話、してもいいか」


 ルドルフがいつもの顔に戻って言った。


「え」


「美肌薬の王都展開、そろそろ本腰入れる頃合いだと思うんだけど」


 わたくしは思わず笑った。


「——今日が結婚式ですのよ」


「知ってる。だから言ってる。辺境伯夫人になったんだから、肩書きもついて交渉しやすくなるだろ」


 広間から笑い声が聞こえた。


 ゾフィが「全部食べましたか!」と叫んでいる声が届く。カイン様がディートリヒに何か言われているのが、遠くで見えた。


 祝宴はまだ続いている。


 でも、ルドルフとのこのやりとりは、いつも通りだった。結婚式の夜でも、ルドルフはルドルフだ。


「詳しくは明日以降に」とわたくしは言った。


「もちろん。でも、頭の片隅に置いておいてくれよ」


 ルドルフが杯を持ち上げた。


「辺境伯夫人、改めて——おめでとう」


 わたくしは帳簿を膝の上に置いて、杯を上げた。


「ありがとうございます。ルドルフ」


 乾杯した。


 木箱に帳簿を戻して蓋を閉める。革表紙の感触が指先に残った。


 最初の取引から今日まで、全部ここに入っている。そしてこれからの取引も、きっとどこかに書き加えられていく。


 辺境の帳簿は、まだ続く。



---


 祝宴がひとまず落ち着いた頃、カイン様がわたくしの耳元で「少し出ないか」と言った。


 広間にはまだ笑い声が満ちていた。ゲルツが三杯目の酒を飲んでいる。フリッツが毛布をかけたザウアー翁の隣で、静かに腰を下ろしていた。ルーカスとマルタがまだ走り回っている。


 誰も気づかないように、ふたりで広間を抜け出した。


 城壁への石段を登る。


 松明の灯りが、石造りの壁に橙色の影を落としていた。カイン様が先に立って歩いた。正装の背中が、階段の上に見えた。


 どこに向かっているか、わかっていた。


 城壁の上に出た。


 夜の風が来た。春の終わりに近い夜で、風はほんの少し冷たかった。でも広間の熱気を帯びた体には、ちょうどよかった。


 月が出ていた。満月には少し足りないが、十分に明るい月だ。城下の輪郭が、月明かりで白く縁どられていた。


 辺境の夜景だ。


 遠くに大河の光がある。川面が月を受けて、銀色に揺れている。城下の家々に、まだ灯りがともっている家がある。祝宴の余韻が、夜の辺境全体に広がっているようだった。


 カイン様が城壁の上に立って、しばらく黙っていた。


 わたくしも隣に立った。手すりの石が、手のひらに冷たかった。


(ここに何度来ただろう)


 最初は、仕事の話をするためだった。夜遅くに城壁に上って、翌日の段取りを話した。


 夏の夜は、月が明るくて星が少なかった。秋の夜は、風が強くて手すりが冷えた。そのうち、話をしなくても、ただ並んで立つようになった。


 この場所で、カイン様が「好きだ」と言った。この場所で、プロポーズの言葉を聞いた。


 カイン様が口を開いた。


「この景色が——ようやく完成した」


 低い声だった。呟くような声だった。


 わたくしは隣を見た。カイン様は城下を見ていた。正装の横顔が、月明かりに照らされていた。


「何が足りなかったのですか」


 カイン様が少し間を置いた。


「お前が——ここにいること」


 わたくしは少し考えた。


「前から、いましたけれど」


「……そうだな」


 カイン様の口元が、かすかにほどけた。


「——でも、今が一番いい」


 それだけだった。


 カイン様はそれ以上言わなかった。ただ城下を見ていた。


 わたくしも同じように、城下を見た。遠くの大河が揺れている。月明かりの中で、辺境の夜が静かに広がっている。


 足りなかったもの、と言ったが——わたくしには今初めてわかった気がした。


(カイン様は、最初からこの景色を好きだったのだわ)


 この城も、この城下も、この大河も。先代から受け継いで、ずっとここを守ってきた。でも——何かが、足りていた。


 それがわたくしだったとは、この人の口から言ってもらわないと、わからなかった。


 風が来た。


 マルグリットのヴェールを取り外した後の髪が、少し揺れた。カイン様の正装の裾も、ほんのわずか動いた。


 川の音が、遠くから届いた。辺境の川は、夜でも流れている。


「カイン様」


「……なんだ」


「——わたくしも、今が一番好きです」


 カイン様がわたくしを見た。


 月明かりの中で、その目が静かに、でも確かに何かを映していた。


 何も言わなかった。でも、手が伸びてきた。


 わたくしの手を、手すりの上からそっと包んだ。


 石の冷たさが消えた。


 カイン様の掌が、手すりの冷えを追い出してくれる。


 指先が温度を覚えている。この手の温かさを、わたくしは冬の城壁から知っている。あの日も、この手が——


 城下に、また灯りが一つ増えた。


 夜更かしして祝っているのか、子どもが眠れないのか、それとも今日の特別な夜を誰かが惜しんでいるのかはわからない。


 でも、辺境の夜に小さな灯りが増えた。


 しばらくふたりで立っていた。


 言葉はほとんどなかった。でも、それでよかった。


 カイン様は言葉が少ない人だ。でも、必要な言葉は全部、ちゃんと届ける人だ。


 今夜の「今が一番いい」は——わたくしの中に、しずかに沈んでいった。


「そろそろ戻るか」


 カイン様が言った。


「ええ」


 手はそのままだった。


 石段を降りるとき、カイン様が先に立って、でも手を離さなかった。


 広間から、ゾフィの声がまだ聞こえた。笑い声が、廊下の端まで届いていた。


 わたくしたちは、祝宴に戻った。


---


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