第113話「カイン視点_花嫁」
第113話「カイン視点_花嫁」
朝、目が覚めたとき、空が白かった。
結婚式の日だと、一瞬遅れてわかった。
庭に出ると、草に露がついていた。春の終わりの朝で、冷えているが厳しくはない。辺境の朝はいつもこうだ。静かで、広くて、遠くに大河の音がある。
今日を何度も想像したが、実際に来るまで実感が湧かなかった。
エリナが来た日のことを、今朝は久しぶりに思い出した。
秋の夕方、城の門にさして大きくない馬車が来た。降りてきたのは、思ったより小柄な女だった。驚いた顔をしていたが、すぐ引き締まった。整った顔立ちで、目が鋭かった。
俺は「来たか」と言った。
それしか出てこなかった。
(あの日の俺は、何を考えていたのだろう)
正直に言えば——来てよかったと思った。それだけだ。
Cランクの令嬢が辺境に来ると聞いたとき、厄介だと思った。厄介者を押しつけられる形になるのは、気に入らなかった。でも来てみれば、目が生きていた。
夜に帳簿を読む目が、本物だった。
温室の苗が育ち始めたとき、俺はまだ「有能な部下が来た」くらいに思っていた。
でも冬が来て、嵐が来て、鉱山の崩落があって——エリナが光ったとき、俺は初めて、自分が何を感じているのかわからなくなった。
感謝ではなかった。感謝を超えたものだ。でも、言葉が見つからなかった。
ずっと、見つからないまま過ぎていった。
正装の上着を着ながら、鏡を見た。
「来たか」としか言えなかった男が、今日は「ずっとここにいてくれ」と言う。
その言葉を、何度か口の中で練習した。声に出してみた。
情けない話だ、と思った。誓いの言葉を練習するのは、初めてだった。
でも——言いたかった。
飾りのない言葉でいい。エリナはそういう人間だ。綺麗な言葉より、本当のことを言える人間の方を信用する。俺はそれを知っている。
だから、本当のことを言おうと思った。
俺にできることは、隣にいることだけだ。守ると言えば嘘になる。完璧に守れるとは言い切れない。でも、隣にいることならできる。それだけは約束できる。
式の間、エリナが石畳を歩いてきたとき——足が動かなくなった。
いつも通りの顔だと思っていた。でも違った。
白いドレスで、マルグリット様のヴェールをかけて、父君の腕に手を置いて歩いてくる。その姿を見たとき、俺は初めて、言葉にならないものが胸の中で動いた。
どこかで見たような感覚があった。
母が、笑いながら言っていた言葉を思い出した。
「お前はいつかちゃんと言える日が来るから、それまで待ちなさい」
口下手を心配した俺に、母は笑ってそう言った。いつの頃の記憶か、もう定かではない。でも、その声だけは覚えている。
誓いを言ったとき、エリナが「はい」と返した。
その声が、石造りの教会の天井に届いて、また降りてきた気がした。
指輪をはめるとき、手が一瞬止まったのは、自分でもわかっていた。確かめたかったのだ。これは現実だ、と。
祝宴を終えて、城壁の上に立ったとき——あの言葉が出た。
「この景色が、ようやく完成した」
言うつもりはなかった。口から出た。
エリナが「何が足りなかったのですか」と聞いた。
お前だ、と思った。
言ったら、またおかしな顔をされた。「前からいましたけれど」と言った。
その通りだ。
エリナはずっとここにいた。最初から、この城の一部になっていた。でも——俺のものではなかった。
今日から、俺の隣にいる人だ。
月が高くなった頃、城壁から降りた。
広間に戻ると、まだ灯りがついていた。ザウアー翁が毛布をかけられて眠っていた。ガルスとゲルツが並んで酒を飲んでいた。ルーカスがやっと眠そうな顔になっていた。
しばらくして、みんなが引き上げていった。
廊下が静かになった。
庭に出ると、草の露が増えていた。夜が深くなっている。
俺は、ひとりになったとき、小さく口ずさんだ。
母が歌っていた歌だ。
歌詞はほとんど覚えていない。でも、旋律だけは体に残っている。冬の夜、母が部屋で刺繍しながら、ひとりで小さく歌っていた。あの頃はまだ俺の方が背が低くて、母の歌声を扉の外で聞きながら、廊下に立っていたことがある。
エリナには聞こえないように、ほとんど息だけで歌った。
旋律が、夜の庭に溶けた。
母上。
俺は——幸せだ。
最初からわかっていた。
「来たか」と言った瞬間に、この人は特別だと思った。その正体が何なのか、長い時間をかけてやっとわかった。
今はわかる。
あの日、俺が「来たか」としか言えなかったのは、それしか言えない男だったからだ。
でも今日は——言えた。
庭の草の露が、月明かりに光っていた。
大河の音が遠くから届いている。辺境の夜は、いつも静かだ。
俺が好きな景色だ。
これからは——エリナと並んで見る景色だ。
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目が覚めたとき、部屋に朝の光が差し込んでいた。
昨夜の祝宴が終わったのは、かなり遅い時刻だった。それでも、体はいつも通りの時間に起きようとする。習慣とは、なかなか変わらない。
廊下を出ると、お茶の支度の音がした。
管理棟の、いつもの時間だ。
扉を開けると、カイン様がすでに椅子に座っていた。
白湯が一杯、湯気を立てている。紅茶の用意が、もう一つの椅子の前にある。
「おはよう」
いつもと同じ声だった。
でも——少し、柔らかかった。
昨日と、何かが違う。声の低さは同じだ。言葉の短さも同じだ。でも、その「おはよう」の中に、何か違うものが混じっていた。
長い付き合いだから、わかる。
「——おはようございます」
椅子に座った。
紅茶のカップを手に取ると、ちょうどよい温度だった。カイン様が淹れるお茶は、いつもこの温度だ。わたくしが好む温度を、この人はずっと前から知っている。
(この時間が、これからも続く)
今日も明日も、この椅子に座って、この紅茶を飲む。カイン様の白湯が向こうにあって、窓の外に朝の辺境が見える。
変わったのは——名前だけだ。
わたくしは昨日から「エリナ・ドラクロワ」になった。でも、このお茶の時間は、ヴァルトシュタインの頃と同じように続く。
窓の外に、城下の朝が見えた。
市場の路地に人が動き始めている。遠くにフランツの鍛冶場の煙がある。昨夜の祝宴を準備した人々が、今日もまた、いつも通りの朝を始めていた。
カイン様が白湯を一口飲んだ。
「……昨日は、うるさかったな」
「祝宴ですもの。にぎやかでないと困ります」
「そうだな」
少し間があった。
カイン様の口元が、かすかに動いた。昨夜の城壁の上と同じ表情だ。言葉にならないものが、そこにある。
「ディートリヒが——また何か言うつもりだろう」
「もう言っていましたけれど」
「そうだな。あいつは——」
カイン様が少し止まった。
「……やはりうるさい」
わたくしは笑った。
カイン様がわずかに目を細めた。今日は昨日より表情がやわらかい。それとも、わたくしの目が変わったのか、どちらかわからない。
お茶を飲みながら、窓の外を眺めた。
春の朝だ。朝霧がゆっくり晴れている。畑に緑が増えた。辺境に来た最初の秋、土の色が薄くて、収穫が少なくて、備蓄が足りなかった頃と比べると——今の辺境は別の場所のようだ。
ヨハンナが扉を軽く叩いて入ってきた。
「おはようございます。お二人とも、お早いですね」
「習慣とは変わらないものです」
「左様でございますね。昨日は、よいお式でございました」
ヨハンナの顔が、穏やかだった。昨夜の祝宴でも、昨日の式の間も、ずっとこんな顔をしていた。マルグリット様の約束を果たした人の顔だ、と昨夜思った。
昨日から半日も経っていないが、随分遠い日のことのような気もした。
結婚式を教会の中で挙げた。誓いを交わした。指輪をはめた。
全部、ちゃんと覚えている。でも、夢の続きみたいな感覚もある。
ヨハンナが朝食の準備を始める音がした。
カイン様が立ち上がって、窓の外を見た。
「少し城下を見てくる」
「わたくしも行きます」
カイン様が一拍、止まった。
「……そうか」
二人で城下に出た。
まだ朝早い時刻だったが、城下の人々は昨夜の祝宴の余韻を引きずりながらも動いていた。コンラートが路地の端で弦を調整していた。ウルズラが布を広げていた。子供が二人、路地を走っていた。
出会った人が、みんな「おめでとうございます」と言った。
市場の角でマルクスが笛を磨きながら「奥方様、おはようございます」と言った。「奥方様」という呼びかけが、まだ不思議な感じがする。でも、そう呼ばれて、おかしくはなかった。
城下を一周して戻ると、ヨハンナが「お手紙が届いております」と言った。
王都から来た書状だ。シュテファン新国王の印がある。
封を開けると、丁寧な文体で書かれていた。
シュテファン新国王の即位後、最初の正式な勅令が発布されたという知らせだった。即位式は婚礼の数日前に王都で執り行われていたが、勅令の正式な写しが辺境に届いたのは今日が初めてだった。
そして——その勅令の中に、こう記されていた。
「辺境伯ドラクロワ家が治める辺境伯領の自治権については、永続的にこれを保障する。辺境伯領の経営・発展は、王国の範として記録に残す」
カイン様の手が、書状の上で止まった。
わたくしも、その一文を二度読んだ。
永続的な保障。
先代から続く辺境の自治が、新しい国王の名で正式に確定された。
「カイン様」
「……ああ」
「——よかったですね」
カイン様は少し間を置いた。
窓の外に目をやって、また書状に戻した。
「お前が来てから変わった。王都の見方も」
「カイン様が辺境を守ってきたからです」
「……そうかもしれない。でも——」
カイン様がわたくしを見た。
「お前がいなければ、書状は来なかった」
わたくしは何も言わなかった。
でも、胸の奥がじんとした。
この人が「お前のおかげだ」と言う代わりに、こういう言い方をするのを、わたくしはもう知っている。
お茶の時間が、少し延びた。
書状をカイン様が机の上に置いた。朝の辺境の光が、書状の金の印の部分に当たって、かすかに輝いた。
新しい国王がいる。新しい名前がある。
でも、このお茶の時間は同じだ。
白湯と紅茶。向かいあって座る二人。窓の外に辺境の朝。
これが——これからも続く。
でも、続くということは、変わり続けるということでもある。
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