第114話「辺境伯夫人の帳簿」
第114話「辺境伯夫人の帳簿」
結婚から数日後、カイン様が管理棟の机の上に書類を置いた。
「これに目を通してくれ」
受け取ると、辺境伯領の経済顧問の委任状だった。
「辺境伯夫人エリナ・ドラクロワに、辺境伯領経済顧問の職務を正式に委任する」
カイン様の筆跡で、最下段に署名があった。
「正式な役職です」
「ああ」
「これまでは——」
「これまでは非公式だった。王都への書類上は『顧問補佐』という扱いだった」
わたくしは委任状を見た。
辺境伯夫人エリナ・ドラクロワ。
この名前で、公文書に残る。
(ヴァルトシュタイン家から嫁いできた令嬢が、辺境伯夫人として経済顧問になる)
前世的な語彙で言えば、社内昇進だろうか。でも、この世界ではそんな言い方はしない。
ただ——ちゃんと名前がついた、ということだ。
新しい帳簿を棚から出した。
表紙はまだ何も書いていない。白紙に近い革表紙だ。
最初のページを開いて、筆を取った。
「辺境伯領経済記録 辺境伯夫人エリナ・ドラクロワ 記」
書いてから、少しだけ止まった。
「エリナ・ドラクロワ」という名前が、帳簿の最初のページにある。
ルドルフの帳簿の最後のページに書かれていた名前と同じだ。でも、今度はわたくし自身が書いた。
(ヴァルトシュタインで始めた仕事が、ドラクロワで続く)
帳簿の中身は変わらない。辺境の収支を記録して、問題を見つけて、改善の算段をする。
名前が変わっただけで、やることは同じだ。
前世のわたしも、名前が変わっても仕事は続けていた。転職したときも、部署が変わっても同じ作業をしていた。でも——今度の仕事は、違う。
前世の仕事は、数字を積み上げても、最後は虚しくなった。
何のために働いているのか、だんだんわからなくなった。評価のため、生活のため、それだけになった。
でも今は——帳簿の一行一行に、顔がある。
ザウアー翁の麦畑の収穫。ガルスの燻製サーモンの出荷数。ゲルツのルーン石の等級別記録。フランツが鍛えた農具の数。ウルズラたちが仕立てた布の量。ルーカスが読み書きを覚えてから手伝えるようになった作業の範囲。
全部、顔がある。
帳簿の二ページ目に、現在の収支の概略を書き始めた。
そこへ、扉を軽く叩く音がした。
「入ります」
ルドルフだった。
「あ、もう始めてる」
「当然です。何かご用ですか、ルドルフ」
「王都からの注文がまた増えた。美肌薬、王都の薬種商が五軒から正式に取引申し込みをしてきた」
わたくしは筆を置いた。
「五軒ですか」
「前回の出荷でだいぶ評判になった。昨年の騒動が落ち着いたあとも需要が衰えない。いや、むしろ増えてる。安定供給できる体制を整えたい」
ルドルフが書類を机の上に広げた。申し込みの書状が並んでいる。薬種商の印がついている。
「増産には——材料の確保が先です。温泉成分と辺境産のハーブの量がまず問題になります」
「ゲルツさんとの話はついてる?」
「温泉の管理はゲルツさんが引き受けてくれています。増産に対応できるかどうか、確認が必要です」
「じゃあそっちはエリナが直接聞いてくれよ。あたしはゲルツさんに弱くて」
「弱いとは」
「あの無言の圧がな。あたしは長い沈黙が苦手なんだよ」
ルドルフが肩をすくめた。
わたくしは少し笑った。確かに、ゲルツはあまり口数が多くない。でも話は通じる。
「わかりました。わたくしが話します」
「それから——王都展開にあたって、販売先の選定をもう少し丁寧にしたい。薬種商五軒、全部に流すのではなく、まず二軒に絞って実績を作ってから広げる方がいいと思う」
「同意見です。信頼できる取引先を先に確保して、辺境ブランドの品質基準を王都でも認知させてから広げる方が長持ちします」
「そういうことだよ」
ルドルフが書類をまとめた。
「先日あげた帳簿、使ってる?」
「昨日、手元に置きました。——良いものを頂きました」
「そうか」
ルドルフが少し口元をゆるめた。
「あれ、渡してよかった。エリナが喜ぶかどうか、少し心配してたんだよ。重すぎるかと思って」
「重くはありませんでした。——重かったですけれど、それは別の意味での重さです」
ルドルフが「そうか」ともう一度言って、書類を抱えて立った。
「じゃあ打ち合わせは明後日にしよう。ゲルツさんの確認が取れたら教えてくれ」
「はい」
「辺境伯夫人として最初の仕事が、美肌薬の増産計画か。なかなかいいじゃないか」
「そうですね」
ルドルフが扉を開けて出ていった。
廊下に足音が遠くなる。
わたくしは帳簿に向き直った。
二ページ目の続きを書く。王都からの注文増。美肌薬増産計画の検討項目。ゲルツへの確認事項。
筆が動く。
「エリナ・フォン・ヴァルトシュタイン」という名前で始めたこの仕事が、「エリナ・ドラクロワ」という名前で続いている。
名前は変わった。肩書きも変わった。
でも——帳簿を開く手は同じだ。
前世のわたしへ。
あなたが机で積み上げた数字の扱い方が、今のわたしの手を動かしている。ありがとう。
今度の仕事は——ちゃんと、意味のある仕事だ。
窓の外に、辺境の昼が広がっていた。
春の日差しが、畑の緑に当たっている。城下に人の声がある。遠くでフランツの槌の音がする。
帳簿の上に、新しい数字が増えていく。
辺境の経済は、まだ成長を続けている。
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結婚式から三日が経った。
辺境の朝は、祝宴の余韻を残したまま、いつも通りの日常に戻っていた。大河は今日も流れている。城下の鍛冶の音が、朝の空気の中に響いている。
ルーカスが、わたくしの部屋の前に立っていた。
手に羊皮紙を持っている。どこか緊張した顔をしていた。
「エリナ様、あの——」
「何ですか、ルーカス」
「……これ、書きました」
羊皮紙を広げると、きちんとした字で名前が書かれていた。
「ルーカス・マイネル」。ルーカス自身の名前だ。その下に「文官見習い就任届」と書かれている。
(字が上手くなったわ)
辺境に来た最初の冬、ルーカスは「え」「あ」といった一文字から覚えていた。それが今は、こんなにきれいな字で書類を書いている。
「ディートリヒが——文官見習いにしてやると言いました。だから、エリナ様に見てもらいたくて」
「見ました」
ルーカスが固まった。
「合格ですか」
「合格です。よく頑張りました」
ルーカスが深く頭を下げた。
顔を上げたとき、目が赤かった。泣くまいとしているのが、わかった。
「ぼく、辺境のためになる仕事をするって言いました。ちゃんとやります」
「ええ。知っていますよ」
ルーカスが何かを言いかけて、止めた。祝宴の夜と同じ言葉を言おうとしたのだと、すぐにわかった。
言わなくてもいい。もう、伝わっている。
わたくしは笑った。
「ここが、わたくしの家ですもの」
ルーカスが廊下を走っていった。
一つ角を曲がったところで「マルタ! 合格だった!」と叫ぶ声が聞こえた。マルタの「やったー!」という声も届いた。
そのまましばらく、足音が遠ざかっていった。
昼前、マルタが城の侍女頭・ゾフィのところに出頭していた。
「城の侍女になりたい」と直談判したのは、結婚式の翌日のことだった。ゾフィが「あんた、うるさいから向かないんじゃないの」と言い、マルタが「うるさいのは元気の証拠です」と答え、ゾフィが三秒考えて「……まあいいか」と言った。
午後、厨房の前を通ると、ゾフィがマルタに盛りつけの仕方を教えていた。
「もっと丁寧に!」
「はい!」
「あんた声がでかすぎるよ」
「はい!」
「……声が大きいのは長所に数えることにしましょう」
ゾフィが、以前より少しだけ口元がやわらかくなっていた気がした。
マルタを見る目が、新しい仕事道具を見るような目をしていた。厳しいが、大切にしている目だ。
(あの二人は、うまくやっていくわ)
夕方、城下に下りると、フランツの鍛冶屋の前に人が集まっていた。
結婚式の記念品の仕上げをしているところだった。鍛冶屋の前に並べられた小さな鉄製の飾り板には、辺境伯の紋章と婚礼の日付が刻まれている。
「エリナ様」
フランツが作業の手を止めた。
「これ、欲しいと言っていただける方には差し上げます。記念に」
「フランツ、いつ作ったのですか」
「式の前から少し。式の日の朝、最後の一枚を仕上げました。花嫁の朝の作業でしたよ」
フランツが笑った。いつもの不愛想な顔が、今日は少し丸く見えた。
人だかりの端に、ゲルツがいた。
腕を組んで、フランツの仕事を眺めていた。
「ゲルツ、温泉の方は順調ですか」
「ああ」
ゲルツが振り返った。
「先週から管理を始めた。水路の引き直し、一人じゃ手間がかかるが——村の若いのが手伝ってくれてる」
「クレイン村の温泉が根づけば、冬の収入源になります。あとはルドルフに街道沿いの宿場との連携を——」
「わかってる」
ゲルツが短く返した。
「それくらい、あんたがいなくても考えられるようになった」
言い方はぶっきらぼうだった。でも、誇りが混じっているのがわかった。
クレイン村の鉱夫親方だったゲルツが、温泉の管理人になる。辺境の産業は、少しずつ、確実に変わっていっていた。
(この人たちが、辺境を動かしていくのだわ)
わたくしは仕組みを作っただけだ。動かすのは、ここに根を張っている人たちだ。
城下を歩いていると、ガルスがサーモンの荷造りをしているところに出くわした。
「エリナ様、うちの村にね、若い漁師が三人戻ってきたんですよ。グラフ・サーモンが名産地になったって聞いてね」
ガルスが目を細めた。その笑いには、漁師の誇りがあった。
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日が傾き始めた頃、城の外れでザウアー翁が麦畑を眺めていた。穂が出始めた春の麦を、細い目で見つめている。
「春の麦は、今年は良い育ちです」
翁が振り返らずに言った。
「わしが口出しせんでも、若いのがちゃんとやっとる。——あのお嬢さんのおかげだ」
わたくしは何も言えなかった。「あのお嬢さん」が今日のわたくしのことか、もしかしたら別の誰かのことなのかもしれない。でも、翁が麦畑を見ながら言ったその言葉が、胸に落ちた。
城に戻ると、廊下でディートリヒが歩いてきた。
「エリナ様、少しよろしいですか」
「何ですか」
ディートリヒが、珍しく困ったような顔をしていた。
「——旦那様から申し伝えるよう頼まれたのですが」
「カイン様が?」
「『ディートリヒの仕事が増えた』と仰っていて」
「増えましたか」
「はい。以前は旦那様のお世話が主でしたが——今は奥様のご用向きも入ってまいりまして」
ディートリヒが少し間を置いた。
「嫁が二人になったようなものです、とわたくしが旦那様に申し上げましたところ」
「どうなりましたか」
ディートリヒが淡々と答えた。
「今朝、二度ほど『うるさい』と仰られました。過去最多です」
わたくしは思わず笑った。
「ディートリヒ」
「はい」
「カイン様の機嫌は良いのですか、悪いのですか」
ディートリヒが少し考えた。
「——これが機嫌の良い状態だと思われます」
日が落ちた。
城の大広間に戻ると、カイン様がいつものように執務の書類に向かっていた。ランタンの灯りが、静かに揺れている。
三日前と同じ景色だった。でも、何かが違う。テーブルの向かいに、わたくしの席がある。
「おかえり」
カイン様が書類から目を上げた。
「ただいま戻りました」
椅子に座った。テーブルの上に、帳簿とお茶が用意されていた。
ルーカスが文官見習いになった。マルタが侍女になった。フランツが記念品を作った。ゲルツが温泉の管理を始めた。ガルスの村に若者が戻ってきた。ザウアー翁が麦を見守っている。ディートリヒが仕事を増やして文句を言っている。
それぞれが、それぞれの場所で、それぞれの仕事をしている。
辺境は、動いている。
わたくしがいなくても動く。でも、わたくしがいることで、少し違う方向にも動ける。それでいい。
(これが、辺境の日常だ)
カイン様が書類をめくる音がした。
わたくしは帳簿を開いた。
夜の城に、静かな時間が流れた。
——ふと、カイン様が顔を上げた。何か言いたそうな顔だった。
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