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婚約破棄されたので辺境で好きに生きます〜なぜか辺境伯に溺愛されていますが〜  作者: きなこ
第4章「辺境の花嫁と永遠の約束」

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第91話「二つの世界」

第91話「二つの世界」


 俺は、社交が苦手だ。


 それは自分でもわかっている。辺境にいる限り、剣と政務だけでよかった。言葉を飾る必要はなかった。


 王都に来て、五日が経つ。


 毎日、知らない人間に会う。知らない顔が挨拶をしてくる。笑顔で何かを言っている。俺はそれに頷くだけだ。


 何を話せばいいかわからない。天気の話をしろとエリナに教わったが、天気は晴れだ。それ以上何を言えというのか。


 だが、エリナは違う。


 夜会の会場で、エリナが人々と話している姿を見た。


 笑っていた。


 辺境では見ない笑い方だった。


 辺境のエリナは、温室で泥だらけになりながら笑う。帳簿の数字が合ったときに小さく笑う。ゾフィの料理を食べて目を細める。自然な笑い方だ。


 王都のエリナの笑顔は違う。整っている。隙がない。社交の笑顔だ。


 同じ人間が、場所によってこれだけ変わるのか。


 ハルデンベルク伯爵がエリナを攻撃したとき、エリナの手が震えた。


 俺は背中に手を置いた。それしかできなかった。


 ルドルフが助けに入って、エリナ自身が切り返した。俺は何もしていない。


 剣が役に立たない場所だ。ここは。


 アルフレートという男を見た。


 金髪。水色の目。整った顔。あの男がエリナの元婚約者だ。


 見た瞬間、何も感じなかった。


 怒りも、敵意もなかった。


 あの男がエリナに何をしたかは知っている。大勢の前で婚約破棄を宣言した。エリナを「ありがとうございます」と笑わせた。


 許せないかと問われれば、許す必要がない。あれはもう終わったことだ。エリナがそう言っている。エリナがもう見ていないなら、俺が見る必要はない。


 ただ、一つだけ。


 あの男の目を見たとき、エリナの指先が冷たくなった。俺の隣にいたからわかった。一瞬だけ、体が固くなった。


 それが、俺にはわかった。


 背中に手を置いた。


 エリナが歩き出した。会釈をして、通り過ぎた。


 強い女だ。


 叙勲式を見た。


 大広間の中央を、一人で歩いていくエリナの背中を見ていた。


 銀灰のドレス。真っ直ぐな背筋。一歩ずつ、玉座に向かって。


 あの姿を見たとき、母のことを思い出した。


 母は病で早くに亡くなった。俺が十二の時だ。最後に見た母は、ベッドの上で笑っていた。温室の花の話をしていた。


 母がいたら、今日のことをどう思っただろう。


 叙勲を受けるエリナの姿を見て、泣いただろうか。笑っただろうか。


 わからない。でも、きっと喜んだだろう。


 庭園でのことは、自分でも驚いている。


 額に唇を寄せようとした。それだけのつもりだった。あの場所で、夕暮れの光の中で、エリナの顔がすぐ近くにあって、自然に体が動いた。


 少しずれた。


 唇が触れた。


 頭が真っ白になった。


 すまない、と言った。エリナは、いいえ、と言った。


 二人とも顔が赤かったはずだ。夕暮れの光のおかげで、少しはごまかせたかもしれない。ごまかせていないかもしれない。


 辺境に帰りたい。


 この場所は俺に合わない。広すぎる。人が多すぎる。言葉が多すぎる。


 でも、こっちの世界のエリナも、悪くない。


 社交の笑顔。整った所作。人の輪の中心にいる姿。


 あれも、エリナだ。辺境の泥だらけのエリナと同じ人間の、別の顔だ。


 どちらのエリナも、好きだ。


 でも俺は、辺境のエリナが好きだ。温室で笑うエリナが。帳簿と格闘するエリナが。包帯を巻かれて文句を言うエリナが。


 あの世界のエリナが一番、エリナだと思う。


 窓の外に、王都の夜景が広がっている。


 辺境なら、こんな時間は城壁の上にいる。星空の下で風を受けている。エリナが隣にいることもある。


 早く帰りたい。


 でも、もう少しだけ。


 この場所でエリナの隣にいる。


 それが、今の俺の仕事だ。



---


 王都での最後の夜だった。


 明後日には辺境へ向けて出発する。残りの一日で荷物をまとめ、挨拶を済ませる。


 夕食後、ヨハンナに「少し歩いてきます」と伝えて、一人で邸を出た。


 行く場所は決めていた。


 王城の大広間。


 夜の王城は静かだった。叙勲式の片付けはとうに終わっている。衛兵にシュテファン殿下の通行許可証を見せて、通してもらった。


 大広間の扉を開けた。


 灯りは消えていた。月明かりだけが、天窓から差し込んでいる。シャンデリアの硝子が、微かに光を反射している。


 広い。


 誰もいない大広間は、昼間とは別の場所のようだった。


 一歩、踏み出した。


 足音が響いた。自分の足音だけが、広い空間に反響する。


 あのとき——冬の夜、ここに来ると聞いただけで体が動かなくなった。指先が冷たくなり、足が凍りついた。


 今は違う。自分の足で、ここに来た。


 大広間の中央に立った。


 ここだ。


 一年半前のあの夜。ここに立っていた。


 アルフレート殿下が婚約破棄を宣言した場所。シャンデリアの光。ざわめく人々。冷たい視線。


 「ありがとうございます」


 あの夜、わたくしはそう言って去った。


 あの言葉は、嘘ではなかった。


 ありがとうございます。あの言葉がなければ、今のわたくしはいない。辺境に行くことも、カイン様に出会うことも、温室で働くことも、叙勲を受けることも、全部なかった。


 あの夜は終わりではなかった。始まりだった。


 月明かりの中で、深く息を吸った。


 そして、もう一つ。


 胸の奥にずっとあったものがある。この世界のことではない。前世のこと。


 前世のわたし。二十六歳で死んだ女。中堅商社の四年目。長時間労働。終電。休日出勤。体を壊した。心も壊れかけた。誰にも助けを求められなかった。「頑張れ」と言われるたびに、少しずつ削れていった。


 あの子は、悪くなかった。


 (前世のわたしに、ようやく言える)


 (よく頑張ったね)


 (もう大丈夫だよ)


 涙が、頬を伝った。


 前世の自分を許すとか、赦すとか、そういう大げさなことではない。


 ただ、認めたかった。あの子が必死に生きていたことを。誰にも褒められず、誰にも気づかれず、最後は一人で終わったことを。


 でも無駄ではなかった。


 あの子が覚えた帳簿の技術が、辺境の経営を立て直した。あの子が身につけた交渉術が、侯爵の使者を退けた。あの子が耐えた日々が、今のわたくしの土台になっている。


 (だから、ありがとう。そして、もう休んでいいよ)


 涙を拭いた。


 大広間の静寂の中に、足音が聞こえた。


 振り返った。


 カイン様が立っていた。


 大広間の入口に。月明かりの中に。


 「探した」


 短い言葉だった。声に、わずかに安堵が混じっていた。


 「カイン様。なぜここに」


 「ヨハンナに聞いた。散歩に出たと。行き先を聞いたら、こちらだろうと」


 ヨハンナは何でもわかっている。


 カイン様が近づいてきた。


 大広間の中央まで。わたくしの前に。


 わたくしの顔を見て、一瞬だけ表情が変わった。


 「泣いたのか」


 否定しなかった。


 「少しだけ。でも、悲しい涙ではありません」


 カイン様が何も聞かなかった。この人は、いつもそうだ。聞かない。ただ、そこにいる。


 「カイン様。わたくし、ここに来てよかったです」


 大広間を見渡した。月明かりに照らされた広い空間。一年半前の悪夢の場所。数日前に叙勲を受けた場所。


 そして今夜、前世の自分と向き合った場所。


 「この場所はもう、怖くありません」


 カイン様が小さく頷いた。


 「帰るか」


 「はい」


 二人で大広間を出た。


 廊下を歩いた。


 月明かりが窓から差し込んで、石畳に白い光を落としている。


 「カイン様」


 「何だ」


 「辺境に帰ったら、やりたいことがあります」


 「何だ」


 「温室の鈴蘭を見たいです。お母様が植えた鈴蘭」


 カイン様が足を止めた。


 こちらを見た。


 「……案内する」


 それだけだった。


 でも、声が少し温かかった。


 王城を出た。


 夜の王都を、二人で歩いた。


 星が出ている。


 辺境の空ほど広くない。でも、同じ星が光っている。


 明後日、辺境に帰る。


 帰る場所がある。帰りたい場所がある。隣にいてくれる人がいる。


 前世のわたしには、なかったものだ。


 今世のわたくしには、ある。


---


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