第91話「二つの世界」
第91話「二つの世界」
俺は、社交が苦手だ。
それは自分でもわかっている。辺境にいる限り、剣と政務だけでよかった。言葉を飾る必要はなかった。
王都に来て、五日が経つ。
毎日、知らない人間に会う。知らない顔が挨拶をしてくる。笑顔で何かを言っている。俺はそれに頷くだけだ。
何を話せばいいかわからない。天気の話をしろとエリナに教わったが、天気は晴れだ。それ以上何を言えというのか。
だが、エリナは違う。
夜会の会場で、エリナが人々と話している姿を見た。
笑っていた。
辺境では見ない笑い方だった。
辺境のエリナは、温室で泥だらけになりながら笑う。帳簿の数字が合ったときに小さく笑う。ゾフィの料理を食べて目を細める。自然な笑い方だ。
王都のエリナの笑顔は違う。整っている。隙がない。社交の笑顔だ。
同じ人間が、場所によってこれだけ変わるのか。
ハルデンベルク伯爵がエリナを攻撃したとき、エリナの手が震えた。
俺は背中に手を置いた。それしかできなかった。
ルドルフが助けに入って、エリナ自身が切り返した。俺は何もしていない。
剣が役に立たない場所だ。ここは。
アルフレートという男を見た。
金髪。水色の目。整った顔。あの男がエリナの元婚約者だ。
見た瞬間、何も感じなかった。
怒りも、敵意もなかった。
あの男がエリナに何をしたかは知っている。大勢の前で婚約破棄を宣言した。エリナを「ありがとうございます」と笑わせた。
許せないかと問われれば、許す必要がない。あれはもう終わったことだ。エリナがそう言っている。エリナがもう見ていないなら、俺が見る必要はない。
ただ、一つだけ。
あの男の目を見たとき、エリナの指先が冷たくなった。俺の隣にいたからわかった。一瞬だけ、体が固くなった。
それが、俺にはわかった。
背中に手を置いた。
エリナが歩き出した。会釈をして、通り過ぎた。
強い女だ。
叙勲式を見た。
大広間の中央を、一人で歩いていくエリナの背中を見ていた。
銀灰のドレス。真っ直ぐな背筋。一歩ずつ、玉座に向かって。
あの姿を見たとき、母のことを思い出した。
母は病で早くに亡くなった。俺が十二の時だ。最後に見た母は、ベッドの上で笑っていた。温室の花の話をしていた。
母がいたら、今日のことをどう思っただろう。
叙勲を受けるエリナの姿を見て、泣いただろうか。笑っただろうか。
わからない。でも、きっと喜んだだろう。
庭園でのことは、自分でも驚いている。
額に唇を寄せようとした。それだけのつもりだった。あの場所で、夕暮れの光の中で、エリナの顔がすぐ近くにあって、自然に体が動いた。
少しずれた。
唇が触れた。
頭が真っ白になった。
すまない、と言った。エリナは、いいえ、と言った。
二人とも顔が赤かったはずだ。夕暮れの光のおかげで、少しはごまかせたかもしれない。ごまかせていないかもしれない。
辺境に帰りたい。
この場所は俺に合わない。広すぎる。人が多すぎる。言葉が多すぎる。
でも、こっちの世界のエリナも、悪くない。
社交の笑顔。整った所作。人の輪の中心にいる姿。
あれも、エリナだ。辺境の泥だらけのエリナと同じ人間の、別の顔だ。
どちらのエリナも、好きだ。
でも俺は、辺境のエリナが好きだ。温室で笑うエリナが。帳簿と格闘するエリナが。包帯を巻かれて文句を言うエリナが。
あの世界のエリナが一番、エリナだと思う。
窓の外に、王都の夜景が広がっている。
辺境なら、こんな時間は城壁の上にいる。星空の下で風を受けている。エリナが隣にいることもある。
早く帰りたい。
でも、もう少しだけ。
この場所でエリナの隣にいる。
それが、今の俺の仕事だ。
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王都での最後の夜だった。
明後日には辺境へ向けて出発する。残りの一日で荷物をまとめ、挨拶を済ませる。
夕食後、ヨハンナに「少し歩いてきます」と伝えて、一人で邸を出た。
行く場所は決めていた。
王城の大広間。
夜の王城は静かだった。叙勲式の片付けはとうに終わっている。衛兵にシュテファン殿下の通行許可証を見せて、通してもらった。
大広間の扉を開けた。
灯りは消えていた。月明かりだけが、天窓から差し込んでいる。シャンデリアの硝子が、微かに光を反射している。
広い。
誰もいない大広間は、昼間とは別の場所のようだった。
一歩、踏み出した。
足音が響いた。自分の足音だけが、広い空間に反響する。
あのとき——冬の夜、ここに来ると聞いただけで体が動かなくなった。指先が冷たくなり、足が凍りついた。
今は違う。自分の足で、ここに来た。
大広間の中央に立った。
ここだ。
一年半前のあの夜。ここに立っていた。
アルフレート殿下が婚約破棄を宣言した場所。シャンデリアの光。ざわめく人々。冷たい視線。
「ありがとうございます」
あの夜、わたくしはそう言って去った。
あの言葉は、嘘ではなかった。
ありがとうございます。あの言葉がなければ、今のわたくしはいない。辺境に行くことも、カイン様に出会うことも、温室で働くことも、叙勲を受けることも、全部なかった。
あの夜は終わりではなかった。始まりだった。
月明かりの中で、深く息を吸った。
そして、もう一つ。
胸の奥にずっとあったものがある。この世界のことではない。前世のこと。
前世のわたし。二十六歳で死んだ女。中堅商社の四年目。長時間労働。終電。休日出勤。体を壊した。心も壊れかけた。誰にも助けを求められなかった。「頑張れ」と言われるたびに、少しずつ削れていった。
あの子は、悪くなかった。
(前世のわたしに、ようやく言える)
(よく頑張ったね)
(もう大丈夫だよ)
涙が、頬を伝った。
前世の自分を許すとか、赦すとか、そういう大げさなことではない。
ただ、認めたかった。あの子が必死に生きていたことを。誰にも褒められず、誰にも気づかれず、最後は一人で終わったことを。
でも無駄ではなかった。
あの子が覚えた帳簿の技術が、辺境の経営を立て直した。あの子が身につけた交渉術が、侯爵の使者を退けた。あの子が耐えた日々が、今のわたくしの土台になっている。
(だから、ありがとう。そして、もう休んでいいよ)
涙を拭いた。
大広間の静寂の中に、足音が聞こえた。
振り返った。
カイン様が立っていた。
大広間の入口に。月明かりの中に。
「探した」
短い言葉だった。声に、わずかに安堵が混じっていた。
「カイン様。なぜここに」
「ヨハンナに聞いた。散歩に出たと。行き先を聞いたら、こちらだろうと」
ヨハンナは何でもわかっている。
カイン様が近づいてきた。
大広間の中央まで。わたくしの前に。
わたくしの顔を見て、一瞬だけ表情が変わった。
「泣いたのか」
否定しなかった。
「少しだけ。でも、悲しい涙ではありません」
カイン様が何も聞かなかった。この人は、いつもそうだ。聞かない。ただ、そこにいる。
「カイン様。わたくし、ここに来てよかったです」
大広間を見渡した。月明かりに照らされた広い空間。一年半前の悪夢の場所。数日前に叙勲を受けた場所。
そして今夜、前世の自分と向き合った場所。
「この場所はもう、怖くありません」
カイン様が小さく頷いた。
「帰るか」
「はい」
二人で大広間を出た。
廊下を歩いた。
月明かりが窓から差し込んで、石畳に白い光を落としている。
「カイン様」
「何だ」
「辺境に帰ったら、やりたいことがあります」
「何だ」
「温室の鈴蘭を見たいです。お母様が植えた鈴蘭」
カイン様が足を止めた。
こちらを見た。
「……案内する」
それだけだった。
でも、声が少し温かかった。
王城を出た。
夜の王都を、二人で歩いた。
星が出ている。
辺境の空ほど広くない。でも、同じ星が光っている。
明後日、辺境に帰る。
帰る場所がある。帰りたい場所がある。隣にいてくれる人がいる。
前世のわたしには、なかったものだ。
今世のわたくしには、ある。
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