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婚約破棄されたので辺境で好きに生きます〜なぜか辺境伯に溺愛されていますが〜  作者: きなこ
第4章「辺境の花嫁と永遠の約束」

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第90話「父の言葉」

第90話「父の言葉」


 叙勲祝賀の晩餐は、ヴァルトシュタイン邸で行われた。


 招待客はごく少数。シュテファン殿下。ルドルフ。そしてクラウス兄様と父。


 ゾフィが王都の食材で腕を振るった。辺境の燻製サーモンと王都のクリームソースを合わせた一皿が出てきたとき、シュテファン殿下が「これは面白い」と笑った。


 食事の間、父は黙っていた。いつも通りだ。必要なことだけ話し、聞かれれば答える。食事中に無駄な会話をしない人だ。


 食後、応接間に移った。


 シュテファン殿下がカイン様と話している。辺境防衛の近況報告を兼ねた、二人の定例のやり取りだ。


 ルドルフがわたくしの隣に来た。


 「エリナ様。叙勲、おめでとうございます。改めて」


 「ルドルフ。あなたのおかげですよ。夜会でのあの数字」


 「あれは事実を並べただけです。功績はエリナ様のもの」


 ルドルフが声を低くした。


 「ところで。今日の式に、ハルデンベルク伯爵は出席していませんでした」


 「気づいていました」


 「あの方が欠席するということは、まだ納得していないということです。ですが、実害はないでしょう。保守派の中でも孤立し始めていますから」


 ルドルフの情報網は相変わらず正確だ。


 しばらくして、父がカイン様に声をかけた。


 「辺境伯殿。少し話がある」


 二人が書斎に消えた。


 クラウス兄様がこちらを見て、肩をすくめた。


 「始まったな」


 「何がですか」


 「親父の値踏みの本番だ」


 書斎の扉は厚い。中の声は聞こえない。


 ヨハンナがお茶を持ってきてくれた。


 「お嬢様。心配しても仕方がありませんよ」


 「心配していません」


 「していらっしゃいますわ。お茶を二口で飲み干しました」


 三十分ほどして、書斎の扉が開いた。


 カイン様が先に出てきた。表情はいつも通りだ。でも、何かが違う。


 父が後ろから出てきた。


 応接間に戻ると、父が全員の前で口を開いた。


 「辺境伯殿と話をした」


 シュテファン殿下もルドルフも、自然と耳を傾けた。この人が話すと、部屋の空気が変わる。


 「あれは、私が思っていたより、ずっと強い子だった」


 あれ。


 わたくしのことだ。


 父の目がこちらを向いた。


 「辺境に送り出したとき、正直に言えば不安だった。この子は令嬢として育てた。過酷な辺境で、何ができるのかと」


 父が言葉を切った。


 「だが、お前は——やり遂げた。帳簿を整え、産業を起こし、民を救い、鉱山を救い、この国に認められた。私が教えたことではない。お前が自分で学び、自分で掴み取ったことだ」


 父の声は、揺れなかった。でも、いつもより遅い。一語一語を選んでいるのがわかる。


 「辺境伯殿」


 父がカイン様を見た。


 「娘をよろしく頼む」


 その一言に、この人の全てが詰まっていた。


 カイン様が頷いた。


 「……預かる」


 短い言葉だった。でも、誰も笑わなかった。


 クラウス兄様が小さく息を吐いた。「やっと言ったな、親父」という顔をしていた。


 カイン様が窓の外を見ていた。


 しばらくして、小さな声で言った。


 「……母上も、こういう席を見たかっただろうか」


 リーゼロッテ様。カイン様の母。過労で早くに亡くなった方。温室に鈴蘭を植えた人。


 その言葉は誰に向けたものでもなかった。独り言だったのかもしれない。でも、わたくしには聞こえた。


 カイン様の目が、遠くを見ていた。王都の夜空ではなく、もっと遠い場所を。


 何も言わなかった。


 その言葉は、触れてはいけないものだと思った。カイン様の、一番奥にあるもの。


 父が部屋を出ていった。


 クラウス兄様も続いた。


 シュテファン殿下とルドルフが会話を始めた。


 わたくしとカイン様が、窓際に並んで立っている。


 「カイン様」


 「何だ」


 「お母様のこと、いつか聞かせてくださいますか」


 カイン様がこちらを見た。


 「……いつか」


 それだけだった。


 でも、「嫌だ」とは言わなかった。


 窓の外に、王都の夜景が広がっている。


 今日、たくさんのことがあった。


 叙勲を受けた。父に認められた。カイン様が母のことを口にした。


 胸元の勲章に触れた。


 冷たい金属が、少しだけ温まっていた。体温が移ったのだ。


 明日からまた、夜会が続く。


 でも今夜は、この温もりを抱えて眠ろう。



---


 叙勲式から三日が経った。


 祝賀の行事が続いていたが、今日は何もない。久しぶりの空白の一日だ。


 朝から少しだけ体が重かった。緊張の連続で、知らないうちに疲れが溜まっていたのだろう。


 昼過ぎ、カイン様が部屋に来た。


 「散歩に行かないか」


 この人から誘ってくるのは珍しい。


 「どこに?」


 「王城の庭園が開放されていると聞いた。シュテファンに許可を取った」


 わざわざシュテファン殿下に許可を取ったのか。


 王城の庭園は、叙勲式の後の数日間、関係者に開放されている。普段は入れない場所だ。


 馬車で王城まで行った。


 庭園は広かった。


 整えられた生垣。石造りのベンチ。噴水。花壇には春の花が咲き始めている。


 「辺境とは全然違いますね」


 「ああ。手入れに何人かかるのか」


 「きっと何十人もいますよ」


 二人で歩いた。


 カイン様は正装ではなく、旅装に近い上着を着ている。こちらの方がこの人らしい。


 花壇の前で足を止めた。


 赤い薔薇。白い百合。紫の菫。色とりどりの花が、午後の日差しの中で揺れている。


 「カイン様は、花の名前を知っていますか」


 「いくつかは。母が教えてくれた」


 また、お母様の話だ。最近少しずつ口にするようになった。


 「あれは?」


 カイン様が指差した。白い小さな花。生垣の根元に控えめに咲いている。


 「鈴蘭です」


 「母が好きだった花だ」


 鈴蘭。花言葉は「幸せの再来」だったか。


 「辺境にもありますか」


 「温室の端に、少しだけ。母が植えた」


 知らなかった。温室の端に鈴蘭があったのか。小さすぎて見落としていたのかもしれない。


 庭園の奥に進んだ。


 人の姿が減った。木々が増え、小道が細くなっていく。


 月が出ていた。


 まだ夕暮れ前だったのに、いつの間にか日が傾いていた。庭園が広すぎて、時間の感覚が狂っている。


 東屋があった。


 石造りの小さな建物だ。蔦が絡まっていて、中にベンチが一つ。


 「少し休みませんか」


 ベンチに並んで座った。


 夕暮れの光が、木々の間から差し込んでいる。橙色の光が、カイン様の横顔を照らしていた。


 「ここに来てよかった」


 カイン様が言った。


 「王都は苦手だ。今でも。でも」


 言葉を探すように、少し間があった。


 「お前の故郷を見られた。お前が育った場所を」


 わたくしの故郷。


 ヴァルトシュタイン邸。王城。この庭園。王都の街並み。


 わたくしにとっては逃げ出した場所だった。でも、カイン様から見れば、それは「わたくしが育った場所」なのだ。


 「カイン様の故郷にも、行ってみたいです」


 「辺境が俺の故郷だ。もう行っているだろう」


 「そうでした」


 笑ってしまった。


 カイン様がこちらを見た。


 夕暮れの光が、目に映っている。暗い色の目が、橙色の光を含んで、少しだけ明るく見える。


 「エリナ」


 名前を呼ばれた。カイン様が名前で呼ぶのは、大事なときだけだ。


 「今日の——お前は」


 言葉がそこで止まった。


 カイン様の手が動いた。


 わたくしの顔に向かって。


 指先が、前髪に触れた。風で乱れた一房を、そっと耳の後ろにかけた。


 そのまま、手が頬に触れた。


 大きな手だ。荒い指先。剣を握る手。でも、触れ方はとても慎重で、壊れ物を扱うようだった。


 カイン様の顔が近づいた。


 額に、唇を寄せようとしているのだと思った。


 でも、少しだけ、ずれた。


 唇が触れた。


 ほんの一瞬。


 柔らかくて、温かかった。


 カイン様が固まった。


 わたくしも固まった。


 「……すまない」


 カイン様の声が掠れていた。


 「……いいえ」


 自分の声も、掠れていた。


 二人とも顔が赤いのだと思う。夕暮れの光のせいだと言い訳できるかもしれないが、それは嘘だ。


 カイン様が離れた。


 手が頬から離れた。温もりが消えた。


 「額に、するつもりだった」


 小さな声だった。言い訳のようで、言い訳になっていない。


 「知っています」


 知っていた。額にしようとしたのだと。でも、ずれた。この人は不器用だから。


 不意打ちだった。


 でも、嫌ではなかった。


 夕暮れの東屋で、しばらく黙って座っていた。


 鳥が鳴いている。風が木の葉を揺らしている。遠くで噴水の音がする。


 カイン様の手が、ベンチの上でわたくしの手のすぐ隣にあった。触れていない。でも、指先の間隔は数ミリだ。


 その距離が、この人らしかった。


 「帰るか」


 「はい」


 立ち上がった。


 庭園を戻る道で、月がもう高く上がっていた。


 白い月明かりが石畳を照らしている。


 「カイン様」


 「何だ」


 「今日のこと、忘れません」


 カイン様が前を向いたまま歩いている。


 「……俺もだ」


 帰りの馬車で、隣に座った。


 手は繋がなかった。でも、肩が触れていた。


 唇に、まだかすかな温もりが残っている。


 (初めてだった。キスは)


 前世でも、今世でも。


---


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