第90話「父の言葉」
第90話「父の言葉」
叙勲祝賀の晩餐は、ヴァルトシュタイン邸で行われた。
招待客はごく少数。シュテファン殿下。ルドルフ。そしてクラウス兄様と父。
ゾフィが王都の食材で腕を振るった。辺境の燻製サーモンと王都のクリームソースを合わせた一皿が出てきたとき、シュテファン殿下が「これは面白い」と笑った。
食事の間、父は黙っていた。いつも通りだ。必要なことだけ話し、聞かれれば答える。食事中に無駄な会話をしない人だ。
食後、応接間に移った。
シュテファン殿下がカイン様と話している。辺境防衛の近況報告を兼ねた、二人の定例のやり取りだ。
ルドルフがわたくしの隣に来た。
「エリナ様。叙勲、おめでとうございます。改めて」
「ルドルフ。あなたのおかげですよ。夜会でのあの数字」
「あれは事実を並べただけです。功績はエリナ様のもの」
ルドルフが声を低くした。
「ところで。今日の式に、ハルデンベルク伯爵は出席していませんでした」
「気づいていました」
「あの方が欠席するということは、まだ納得していないということです。ですが、実害はないでしょう。保守派の中でも孤立し始めていますから」
ルドルフの情報網は相変わらず正確だ。
しばらくして、父がカイン様に声をかけた。
「辺境伯殿。少し話がある」
二人が書斎に消えた。
クラウス兄様がこちらを見て、肩をすくめた。
「始まったな」
「何がですか」
「親父の値踏みの本番だ」
書斎の扉は厚い。中の声は聞こえない。
ヨハンナがお茶を持ってきてくれた。
「お嬢様。心配しても仕方がありませんよ」
「心配していません」
「していらっしゃいますわ。お茶を二口で飲み干しました」
三十分ほどして、書斎の扉が開いた。
カイン様が先に出てきた。表情はいつも通りだ。でも、何かが違う。
父が後ろから出てきた。
応接間に戻ると、父が全員の前で口を開いた。
「辺境伯殿と話をした」
シュテファン殿下もルドルフも、自然と耳を傾けた。この人が話すと、部屋の空気が変わる。
「あれは、私が思っていたより、ずっと強い子だった」
あれ。
わたくしのことだ。
父の目がこちらを向いた。
「辺境に送り出したとき、正直に言えば不安だった。この子は令嬢として育てた。過酷な辺境で、何ができるのかと」
父が言葉を切った。
「だが、お前は——やり遂げた。帳簿を整え、産業を起こし、民を救い、鉱山を救い、この国に認められた。私が教えたことではない。お前が自分で学び、自分で掴み取ったことだ」
父の声は、揺れなかった。でも、いつもより遅い。一語一語を選んでいるのがわかる。
「辺境伯殿」
父がカイン様を見た。
「娘をよろしく頼む」
その一言に、この人の全てが詰まっていた。
カイン様が頷いた。
「……預かる」
短い言葉だった。でも、誰も笑わなかった。
クラウス兄様が小さく息を吐いた。「やっと言ったな、親父」という顔をしていた。
カイン様が窓の外を見ていた。
しばらくして、小さな声で言った。
「……母上も、こういう席を見たかっただろうか」
リーゼロッテ様。カイン様の母。過労で早くに亡くなった方。温室に鈴蘭を植えた人。
その言葉は誰に向けたものでもなかった。独り言だったのかもしれない。でも、わたくしには聞こえた。
カイン様の目が、遠くを見ていた。王都の夜空ではなく、もっと遠い場所を。
何も言わなかった。
その言葉は、触れてはいけないものだと思った。カイン様の、一番奥にあるもの。
父が部屋を出ていった。
クラウス兄様も続いた。
シュテファン殿下とルドルフが会話を始めた。
わたくしとカイン様が、窓際に並んで立っている。
「カイン様」
「何だ」
「お母様のこと、いつか聞かせてくださいますか」
カイン様がこちらを見た。
「……いつか」
それだけだった。
でも、「嫌だ」とは言わなかった。
窓の外に、王都の夜景が広がっている。
今日、たくさんのことがあった。
叙勲を受けた。父に認められた。カイン様が母のことを口にした。
胸元の勲章に触れた。
冷たい金属が、少しだけ温まっていた。体温が移ったのだ。
明日からまた、夜会が続く。
でも今夜は、この温もりを抱えて眠ろう。
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叙勲式から三日が経った。
祝賀の行事が続いていたが、今日は何もない。久しぶりの空白の一日だ。
朝から少しだけ体が重かった。緊張の連続で、知らないうちに疲れが溜まっていたのだろう。
昼過ぎ、カイン様が部屋に来た。
「散歩に行かないか」
この人から誘ってくるのは珍しい。
「どこに?」
「王城の庭園が開放されていると聞いた。シュテファンに許可を取った」
わざわざシュテファン殿下に許可を取ったのか。
王城の庭園は、叙勲式の後の数日間、関係者に開放されている。普段は入れない場所だ。
馬車で王城まで行った。
庭園は広かった。
整えられた生垣。石造りのベンチ。噴水。花壇には春の花が咲き始めている。
「辺境とは全然違いますね」
「ああ。手入れに何人かかるのか」
「きっと何十人もいますよ」
二人で歩いた。
カイン様は正装ではなく、旅装に近い上着を着ている。こちらの方がこの人らしい。
花壇の前で足を止めた。
赤い薔薇。白い百合。紫の菫。色とりどりの花が、午後の日差しの中で揺れている。
「カイン様は、花の名前を知っていますか」
「いくつかは。母が教えてくれた」
また、お母様の話だ。最近少しずつ口にするようになった。
「あれは?」
カイン様が指差した。白い小さな花。生垣の根元に控えめに咲いている。
「鈴蘭です」
「母が好きだった花だ」
鈴蘭。花言葉は「幸せの再来」だったか。
「辺境にもありますか」
「温室の端に、少しだけ。母が植えた」
知らなかった。温室の端に鈴蘭があったのか。小さすぎて見落としていたのかもしれない。
庭園の奥に進んだ。
人の姿が減った。木々が増え、小道が細くなっていく。
月が出ていた。
まだ夕暮れ前だったのに、いつの間にか日が傾いていた。庭園が広すぎて、時間の感覚が狂っている。
東屋があった。
石造りの小さな建物だ。蔦が絡まっていて、中にベンチが一つ。
「少し休みませんか」
ベンチに並んで座った。
夕暮れの光が、木々の間から差し込んでいる。橙色の光が、カイン様の横顔を照らしていた。
「ここに来てよかった」
カイン様が言った。
「王都は苦手だ。今でも。でも」
言葉を探すように、少し間があった。
「お前の故郷を見られた。お前が育った場所を」
わたくしの故郷。
ヴァルトシュタイン邸。王城。この庭園。王都の街並み。
わたくしにとっては逃げ出した場所だった。でも、カイン様から見れば、それは「わたくしが育った場所」なのだ。
「カイン様の故郷にも、行ってみたいです」
「辺境が俺の故郷だ。もう行っているだろう」
「そうでした」
笑ってしまった。
カイン様がこちらを見た。
夕暮れの光が、目に映っている。暗い色の目が、橙色の光を含んで、少しだけ明るく見える。
「エリナ」
名前を呼ばれた。カイン様が名前で呼ぶのは、大事なときだけだ。
「今日の——お前は」
言葉がそこで止まった。
カイン様の手が動いた。
わたくしの顔に向かって。
指先が、前髪に触れた。風で乱れた一房を、そっと耳の後ろにかけた。
そのまま、手が頬に触れた。
大きな手だ。荒い指先。剣を握る手。でも、触れ方はとても慎重で、壊れ物を扱うようだった。
カイン様の顔が近づいた。
額に、唇を寄せようとしているのだと思った。
でも、少しだけ、ずれた。
唇が触れた。
ほんの一瞬。
柔らかくて、温かかった。
カイン様が固まった。
わたくしも固まった。
「……すまない」
カイン様の声が掠れていた。
「……いいえ」
自分の声も、掠れていた。
二人とも顔が赤いのだと思う。夕暮れの光のせいだと言い訳できるかもしれないが、それは嘘だ。
カイン様が離れた。
手が頬から離れた。温もりが消えた。
「額に、するつもりだった」
小さな声だった。言い訳のようで、言い訳になっていない。
「知っています」
知っていた。額にしようとしたのだと。でも、ずれた。この人は不器用だから。
不意打ちだった。
でも、嫌ではなかった。
夕暮れの東屋で、しばらく黙って座っていた。
鳥が鳴いている。風が木の葉を揺らしている。遠くで噴水の音がする。
カイン様の手が、ベンチの上でわたくしの手のすぐ隣にあった。触れていない。でも、指先の間隔は数ミリだ。
その距離が、この人らしかった。
「帰るか」
「はい」
立ち上がった。
庭園を戻る道で、月がもう高く上がっていた。
白い月明かりが石畳を照らしている。
「カイン様」
「何だ」
「今日のこと、忘れません」
カイン様が前を向いたまま歩いている。
「……俺もだ」
帰りの馬車で、隣に座った。
手は繋がなかった。でも、肩が触れていた。
唇に、まだかすかな温もりが残っている。
(初めてだった。キスは)
前世でも、今世でも。
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