第89話「あの男の目」
第89話「あの男の目」
夜会の二日目だった。
昨夜のハルデンベルク伯爵の一件の後、むしろ声をかけてくる人が増えた。辺境の実績が数字で語られたことで、好奇心が関心に変わったらしい。
今夜の会場は、昨日と同じ貴族会館だ。ただし規模は小さい。叙勲式前の懇親会という位置づけで、出席者も限られている。
入口で名前を呼ばれた。昨日ほどの注目はない。すでに顔を知られたということだ。
カイン様が隣にいる。昨日と同じ紺色の正装。でも、少しだけ肩の力が抜けている。
「カイン様。昨日より緊張していませんね」
「慣れたわけではない。諦めた」
会場に入って、シュテファン殿下の姿を見つけた。
第一王子。叙勲の推薦をしてくださった方だ。長身で、穏やかな目をしている。
「エリナ嬢。お久しぶりです」
「シュテファン殿下。叙勲のご推薦、ありがとうございました」
「推薦したのは私ですが、叙勲を決めたのは父上です。あなたの実績が認められたということです」
シュテファン殿下がカイン様を見た。
「カイン。元気そうだな」
「……ああ」
二人は旧知だ。辺境防衛の予算承認を通じて、政治的な連携がある。
「辺境伯領の改善は目覚ましいと聞いている。税収が三倍になったとか」
「エリナの功績だ」
カイン様が、迷いなくそう言った。
シュテファン殿下が少し笑った。
「正直だな、相変わらず」
会場を回っていた。
人の流れが、不意に止まった。
入口から、一人の男が入ってきた。
金髪。水色の目。整った顔。
アルフレート。
第二王子。わたくしの元婚約者。一年半前のあの夜、大勢の前で婚約破棄を宣言した男。
指先が冷たくなった。
体が覚えている。この男の前に立ったとき、何が起きたか。シャンデリアの下で、笑い声の中で、全てを奪われた夜のことを。
アルフレートがこちらを見た。
目が合った。
アルフレートの表情が変わった。
最初は驚きだった。目が大きくなり、口がわずかに開いた。一年半ぶりに見るわたくしの姿に、何かが引っかかったのだろう。
次に、隣のカイン様を見た。
紺色の正装。広い肩幅。辺境伯の紋章。
アルフレートの顔から、血の気が引いた。
立ち尽くしている。
周囲の貴族たちが気づいていた。アルフレートの視線の先にいるのが誰か。二人の間にある歴史を。
指先の冷たさが、腕を伝って広がっていく。
足が動かない。あの冬の夜と同じだ。体が固まる。過去が体を縛る。
背中に、手が触れた。
カイン様の手だ。大きくて、温かい。
足が動いた。
わたくしは、穏やかに会釈をした。
それだけだった。
言葉は交わさなかった。恨みも、怒りも、何も言わなかった。
ただ会釈をして、通り過ぎた。
アルフレートが何か言おうとしたのが、目の端に映った。口が動いた。でも声は出なかった。
通り過ぎた。
背中にアルフレートの視線を感じた。
振り返らなかった。
会場の奥に進んで、窓際に立った。
足が震えていた。
「大丈夫か」
カイン様の声。低く、静かに。
「大丈夫です。少しだけ」
嘘ではない。大丈夫だ。震えているけれど、倒れてはいない。声は出せる。顔も上げている。
一年半前は、「ありがとうございます」と笑って去った。完璧に取り繕って、誰にも弱みを見せなかった。
今日は、会釈だけだった。
でも、今日の方がずっと自分らしかった。
カイン様が隣に立っている。何も聞かない。ただ、そこにいる。
しばらくして、クラウス兄様が来た。
「エリナ。見たぞ」
「お兄様」
「見事だった。あの会釈一つで、お前が何を思っているか、会場の全員が理解した」
理解した。恨んでいないということ。もう過去だということ。
「アルフレートの顔を見たか?」
「見ていません。通り過ぎましたから」
「見なくていい。あの男の顔は、俺が覚えておいてやる」
クラウス兄様の声には、怒りが混じっていた。兄は許していない。わたくしが許しても、兄は許さない。それは兄の感情だから、止めようとは思わない。
夜会の後半は、穏やかに過ぎた。
すれ違いざまに、声が聞こえた。年配の婦人たちの会話だ。
「あの方が辺境の税収を三倍にした令嬢ですって」
「第二王子が婚約破棄した相手ですわよ。まあ、勿体ないこと」
「辺境伯とお似合いではないの。殿下はお見る目がなかったのね」
聞こえる距離だった。わたくしに聞かせるためか、その向こうにいる誰かに聞かせるためか。
会場の隅で、アルフレートが一人で立っているのが視界の端に映った。話しかける者は、誰もいなかった。
少し疲れた顔をしていたのだろう。カイン様が何も言わずにわたくしのグラスを取った。
「カイン様?」
「飲みすぎだ」
白ワインが水に替わって戻ってきた。まだ二杯しか飲んでいない。でも、ありがたかった。
何人かの貴族が声をかけてくれた。社交辞令もあっただろう。でも、一人だけ本当にこちらを見ていた人がいた。
シュテファン殿下が、離れた場所からこちらに軽く頷いた。
あの方は全部見ていたのだ。アルフレートとのすれ違いも。わたくしの会釈も。
帰りの馬車で、ヨハンナが言った。
「お嬢様。今夜は、ご立派でした」
「ヨハンナ。わたくし、震えていたのですよ」
「存じております。でも、立っていらっしゃいました」
立っていた。
震えながら。カイン様の手に支えられて。
でも、立っていた。
カイン様が窓の外を見ている。
「カイン様」
「何だ」
「あの男を見て、何を思いましたか」
少し間があった。
「何も思わなかった。お前がもう見ていないなら、俺が見る必要もない」
わたくしがもう見ていないなら。
そうだ。わたくしはもう、あの男を見ていない。
馬車が石畳の上を走っている。
窓の外に、王都の夜の灯りが流れている。
明日は、叙勲式だ。
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目が覚めたとき、日差しがもう部屋に入っていた。
王都の朝は辺境より暖かい。窓を開けると、花の香りが風に乗って入ってくる。春だ。
今日だ。
ヨハンナが部屋に来た。手に銀灰のドレスを持っている。
「お嬢様。準備をいたしましょう」
髪を整えてもらった。いつもより丁寧に。銀灰の髪をゆるく結い上げて、後れ毛を数本だけ残す。母譲りの髪だとヨハンナが言った。
ドレスを着た。胸元のルーン石のブローチを留めた。
鏡を見た。
(大丈夫。わたくしは、ここにいる理由がある)
食堂に降りると、カイン様が先に座っていた。紺色の正装。帯剣ベルト。今日は短剣ではなく、儀礼用の細剣を佩いている。
「おはようございます」
「……ああ」
クラウス兄様と父が並んで座っている。父は黒い正装だ。ヴァルトシュタイン公爵家の紋章が胸に縫い取られている。
朝食は軽く済ませた。緊張で食欲がなかったが、ゾフィが作ってくれたスープだけは飲んだ。
馬車が三台。先導はクラウス兄様。次にわたくしとカイン様。最後に父。
王城に入った。
門をくぐった瞬間、空気が変わった。
石畳。城壁。旗。衛兵。すべてが重厚で、権威に満ちている。
大広間への廊下を歩いた。
大広間。
一年半前に、ここにいた。
シャンデリアの光。ざわめき。あの夜の記憶。
足が止まりそうになった。
でも、止まらなかった。
隣にカイン様がいる。背中に手は置かれていない。でも、隣にいる。それだけで足が動く。
王都の記憶で体が動かなくなったとき、カイン様が手を握ってくれた。
今日は握ってもらわなくてもいい。隣にいるだけで。
大広間に入った。
シャンデリアの光が降り注いでいる。あの夜と同じ光だ。でも、今日の光は温かく感じた。
正面に、玉座がある。
国王テオドール三世陛下が座っている。白髪の、威厳ある老人だ。右隣にシュテファン殿下。左隣に王妃。
列席者が両側に並んでいる。貴族たち。軍人たち。文官たち。
カイン様は客席に着いた。わたくしの手を離して。
一人で歩いた。
大広間の中央を、玉座に向かって。
足音だけが響いている。自分の足音。一歩ずつ。
(この場所で、あの夜、わたくしは「ありがとうございます」と言って去った。今日は、ここに立つ。叙勲を受ける側として)
玉座の前で止まった。
膝をついた。
テオドール陛下が立ち上がった。
「エリナ・フォン・ヴァルトシュタイン」
陛下の声が、大広間に響いた。
「辺境における顕著な功績を認め、王国栄誉勲章第三等を授ける」
侍従が勲章を持ってきた。金の台座に、青い石がはめ込まれた勲章。
テオドール陛下がわたくしの前に来た。
勲章を、胸元に留めてくださった。
「立ちなさい」
立った。
シュテファン殿下が一歩前に出た。
「推薦文を読み上げます」
シュテファン殿下の声が、広間を満たした。
「エリナ・フォン・ヴァルトシュタイン嬢は、困難な状況において辺境伯領の経済復興に尽力し、保存食の技術改良、温泉資源の再発見、鉱山の復旧指揮、そしてルーン石の流通管理において顕著な成果を収めた。これらの功績は、辺境の民の生活を大きく改善し、王国全体の利益に資するものである」
涙が滲んだ。
泣くつもりはなかった。社交界で涙を見せるのは弱さの表れだと知っている。
でも、涙が出た。
ここで泣いていいのだと思った。
悔しさの涙ではない。悲しさの涙でもない。
たぶん、嬉しかった。ただ、嬉しかった。
客席を見た。
カイン様が座っている。無表情だ。いつも通りだ。
でも、目が合った瞬間、小さく頷いた。
それだけで十分だった。
父の目も見えた。
黙って座っている。表情は変わらない。
でも、目が赤かった。
(お父様。あなたも泣いているのですか)
式が終わった。
列席者が拍手をした。大きな音ではない。作法に則った、控えめな拍手だ。
でも、温かかった。
大広間を出た。
廊下で、カイン様が待っていた。
「おめでとう」
一言だった。
「ありがとうございます」
声が震えた。また泣きそうになった。
クラウス兄様が来て、頭をぽんと撫でた。
「偉いぞ、エリナ」
「お兄様、人前で頭を撫でないでください」
「偉いんだから仕方ない」
父は何も言わなかった。
ただ、廊下の向こうから、じっとこちらを見ていた。
今夜は叙勲祝賀の晩餐がある。
でも、今はこの瞬間を味わいたかった。
胸元の勲章に指で触れた。
冷たい金属。青い石。
(前世のわたし。見てくれていますか。わたし、勲章をもらいました。国王陛下から。大広間で、大勢の前で)
あの大広間は、もう怖い場所ではなくなった。
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