表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
婚約破棄されたので辺境で好きに生きます〜なぜか辺境伯に溺愛されていますが〜  作者: きなこ
第4章「辺境の花嫁と永遠の約束」

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
91/119

第89話「あの男の目」

第89話「あの男の目」


 夜会の二日目だった。


 昨夜のハルデンベルク伯爵の一件の後、むしろ声をかけてくる人が増えた。辺境の実績が数字で語られたことで、好奇心が関心に変わったらしい。


 今夜の会場は、昨日と同じ貴族会館だ。ただし規模は小さい。叙勲式前の懇親会という位置づけで、出席者も限られている。


 入口で名前を呼ばれた。昨日ほどの注目はない。すでに顔を知られたということだ。


 カイン様が隣にいる。昨日と同じ紺色の正装。でも、少しだけ肩の力が抜けている。


 「カイン様。昨日より緊張していませんね」


 「慣れたわけではない。諦めた」


 会場に入って、シュテファン殿下の姿を見つけた。


 第一王子。叙勲の推薦をしてくださった方だ。長身で、穏やかな目をしている。


 「エリナ嬢。お久しぶりです」


 「シュテファン殿下。叙勲のご推薦、ありがとうございました」


 「推薦したのは私ですが、叙勲を決めたのは父上です。あなたの実績が認められたということです」


 シュテファン殿下がカイン様を見た。


 「カイン。元気そうだな」


 「……ああ」


 二人は旧知だ。辺境防衛の予算承認を通じて、政治的な連携がある。


 「辺境伯領の改善は目覚ましいと聞いている。税収が三倍になったとか」


 「エリナの功績だ」


 カイン様が、迷いなくそう言った。


 シュテファン殿下が少し笑った。


 「正直だな、相変わらず」


 会場を回っていた。


 人の流れが、不意に止まった。


 入口から、一人の男が入ってきた。


 金髪。水色の目。整った顔。


 アルフレート。


 第二王子。わたくしの元婚約者。一年半前のあの夜、大勢の前で婚約破棄を宣言した男。


 指先が冷たくなった。


 体が覚えている。この男の前に立ったとき、何が起きたか。シャンデリアの下で、笑い声の中で、全てを奪われた夜のことを。


 アルフレートがこちらを見た。


 目が合った。


 アルフレートの表情が変わった。


 最初は驚きだった。目が大きくなり、口がわずかに開いた。一年半ぶりに見るわたくしの姿に、何かが引っかかったのだろう。


 次に、隣のカイン様を見た。


 紺色の正装。広い肩幅。辺境伯の紋章。


 アルフレートの顔から、血の気が引いた。


 立ち尽くしている。


 周囲の貴族たちが気づいていた。アルフレートの視線の先にいるのが誰か。二人の間にある歴史を。


 指先の冷たさが、腕を伝って広がっていく。


 足が動かない。あの冬の夜と同じだ。体が固まる。過去が体を縛る。


 背中に、手が触れた。


 カイン様の手だ。大きくて、温かい。


 足が動いた。


 わたくしは、穏やかに会釈をした。


 それだけだった。


 言葉は交わさなかった。恨みも、怒りも、何も言わなかった。


 ただ会釈をして、通り過ぎた。


 アルフレートが何か言おうとしたのが、目の端に映った。口が動いた。でも声は出なかった。


 通り過ぎた。


 背中にアルフレートの視線を感じた。


 振り返らなかった。


 会場の奥に進んで、窓際に立った。


 足が震えていた。


 「大丈夫か」


 カイン様の声。低く、静かに。


 「大丈夫です。少しだけ」


 嘘ではない。大丈夫だ。震えているけれど、倒れてはいない。声は出せる。顔も上げている。


 一年半前は、「ありがとうございます」と笑って去った。完璧に取り繕って、誰にも弱みを見せなかった。


 今日は、会釈だけだった。


 でも、今日の方がずっと自分らしかった。


 カイン様が隣に立っている。何も聞かない。ただ、そこにいる。


 しばらくして、クラウス兄様が来た。


 「エリナ。見たぞ」


 「お兄様」


 「見事だった。あの会釈一つで、お前が何を思っているか、会場の全員が理解した」


 理解した。恨んでいないということ。もう過去だということ。


 「アルフレートの顔を見たか?」


 「見ていません。通り過ぎましたから」


 「見なくていい。あの男の顔は、俺が覚えておいてやる」


 クラウス兄様の声には、怒りが混じっていた。兄は許していない。わたくしが許しても、兄は許さない。それは兄の感情だから、止めようとは思わない。


 夜会の後半は、穏やかに過ぎた。


 すれ違いざまに、声が聞こえた。年配の婦人たちの会話だ。


 「あの方が辺境の税収を三倍にした令嬢ですって」


 「第二王子が婚約破棄した相手ですわよ。まあ、勿体ないこと」


 「辺境伯とお似合いではないの。殿下はお見る目がなかったのね」


 聞こえる距離だった。わたくしに聞かせるためか、その向こうにいる誰かに聞かせるためか。


 会場の隅で、アルフレートが一人で立っているのが視界の端に映った。話しかける者は、誰もいなかった。


 少し疲れた顔をしていたのだろう。カイン様が何も言わずにわたくしのグラスを取った。


 「カイン様?」


 「飲みすぎだ」


 白ワインが水に替わって戻ってきた。まだ二杯しか飲んでいない。でも、ありがたかった。


 何人かの貴族が声をかけてくれた。社交辞令もあっただろう。でも、一人だけ本当にこちらを見ていた人がいた。


 シュテファン殿下が、離れた場所からこちらに軽く頷いた。


 あの方は全部見ていたのだ。アルフレートとのすれ違いも。わたくしの会釈も。


 帰りの馬車で、ヨハンナが言った。


 「お嬢様。今夜は、ご立派でした」


 「ヨハンナ。わたくし、震えていたのですよ」


 「存じております。でも、立っていらっしゃいました」


 立っていた。


 震えながら。カイン様の手に支えられて。


 でも、立っていた。


 カイン様が窓の外を見ている。


 「カイン様」


 「何だ」


 「あの男を見て、何を思いましたか」


 少し間があった。


 「何も思わなかった。お前がもう見ていないなら、俺が見る必要もない」


 わたくしがもう見ていないなら。


 そうだ。わたくしはもう、あの男を見ていない。


 馬車が石畳の上を走っている。


 窓の外に、王都の夜の灯りが流れている。


 明日は、叙勲式だ。



---


 目が覚めたとき、日差しがもう部屋に入っていた。


 王都の朝は辺境より暖かい。窓を開けると、花の香りが風に乗って入ってくる。春だ。


 今日だ。


 ヨハンナが部屋に来た。手に銀灰のドレスを持っている。


 「お嬢様。準備をいたしましょう」


 髪を整えてもらった。いつもより丁寧に。銀灰の髪をゆるく結い上げて、後れ毛を数本だけ残す。母譲りの髪だとヨハンナが言った。


 ドレスを着た。胸元のルーン石のブローチを留めた。


 鏡を見た。


 (大丈夫。わたくしは、ここにいる理由がある)


 食堂に降りると、カイン様が先に座っていた。紺色の正装。帯剣ベルト。今日は短剣ではなく、儀礼用の細剣を佩いている。


 「おはようございます」


 「……ああ」


 クラウス兄様と父が並んで座っている。父は黒い正装だ。ヴァルトシュタイン公爵家の紋章が胸に縫い取られている。


 朝食は軽く済ませた。緊張で食欲がなかったが、ゾフィが作ってくれたスープだけは飲んだ。


 馬車が三台。先導はクラウス兄様。次にわたくしとカイン様。最後に父。


 王城に入った。


 門をくぐった瞬間、空気が変わった。


 石畳。城壁。旗。衛兵。すべてが重厚で、権威に満ちている。


 大広間への廊下を歩いた。


 大広間。


 一年半前に、ここにいた。


 シャンデリアの光。ざわめき。あの夜の記憶。


 足が止まりそうになった。


 でも、止まらなかった。


 隣にカイン様がいる。背中に手は置かれていない。でも、隣にいる。それだけで足が動く。


 王都の記憶で体が動かなくなったとき、カイン様が手を握ってくれた。


 今日は握ってもらわなくてもいい。隣にいるだけで。


 大広間に入った。


 シャンデリアの光が降り注いでいる。あの夜と同じ光だ。でも、今日の光は温かく感じた。


 正面に、玉座がある。


 国王テオドール三世陛下が座っている。白髪の、威厳ある老人だ。右隣にシュテファン殿下。左隣に王妃。


 列席者が両側に並んでいる。貴族たち。軍人たち。文官たち。


 カイン様は客席に着いた。わたくしの手を離して。


 一人で歩いた。


 大広間の中央を、玉座に向かって。


 足音だけが響いている。自分の足音。一歩ずつ。


 (この場所で、あの夜、わたくしは「ありがとうございます」と言って去った。今日は、ここに立つ。叙勲を受ける側として)


 玉座の前で止まった。


 膝をついた。


 テオドール陛下が立ち上がった。


 「エリナ・フォン・ヴァルトシュタイン」


 陛下の声が、大広間に響いた。


 「辺境における顕著な功績を認め、王国栄誉勲章第三等を授ける」


 侍従が勲章を持ってきた。金の台座に、青い石がはめ込まれた勲章。


 テオドール陛下がわたくしの前に来た。


 勲章を、胸元に留めてくださった。


 「立ちなさい」


 立った。


 シュテファン殿下が一歩前に出た。


 「推薦文を読み上げます」


 シュテファン殿下の声が、広間を満たした。


 「エリナ・フォン・ヴァルトシュタイン嬢は、困難な状況において辺境伯領の経済復興に尽力し、保存食の技術改良、温泉資源の再発見、鉱山の復旧指揮、そしてルーン石の流通管理において顕著な成果を収めた。これらの功績は、辺境の民の生活を大きく改善し、王国全体の利益に資するものである」


 涙が滲んだ。


 泣くつもりはなかった。社交界で涙を見せるのは弱さの表れだと知っている。


 でも、涙が出た。


 ここで泣いていいのだと思った。


 悔しさの涙ではない。悲しさの涙でもない。


 たぶん、嬉しかった。ただ、嬉しかった。


 客席を見た。


 カイン様が座っている。無表情だ。いつも通りだ。


 でも、目が合った瞬間、小さく頷いた。


 それだけで十分だった。


 父の目も見えた。


 黙って座っている。表情は変わらない。


 でも、目が赤かった。


 (お父様。あなたも泣いているのですか)


 式が終わった。


 列席者が拍手をした。大きな音ではない。作法に則った、控えめな拍手だ。


 でも、温かかった。


 大広間を出た。


 廊下で、カイン様が待っていた。


 「おめでとう」


 一言だった。


 「ありがとうございます」


 声が震えた。また泣きそうになった。


 クラウス兄様が来て、頭をぽんと撫でた。


 「偉いぞ、エリナ」


 「お兄様、人前で頭を撫でないでください」


 「偉いんだから仕方ない」


 父は何も言わなかった。


 ただ、廊下の向こうから、じっとこちらを見ていた。


 今夜は叙勲祝賀の晩餐がある。


 でも、今はこの瞬間を味わいたかった。


 胸元の勲章に指で触れた。


 冷たい金属。青い石。


 (前世のわたし。見てくれていますか。わたし、勲章をもらいました。国王陛下から。大広間で、大勢の前で)


 あの大広間は、もう怖い場所ではなくなった。


---


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ