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婚約破棄されたので辺境で好きに生きます〜なぜか辺境伯に溺愛されていますが〜  作者: きなこ
第4章「辺境の花嫁と永遠の約束」

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第88話「社交界の風」

第88話「社交界の風」


 夜会の前日。


 朝からヨハンナが忙しく動いている。ドレスの最終確認。髪飾りの選定。靴の磨き。すべてが「明日のため」だった。


 「お嬢様。ドレスを一度お召しになっていただけますか。裾の丈を最終確認いたします」


 銀灰のドレスに袖を通した。


 フランツが仕立てた正装だ。軽い。思ったより動きやすい。胸元にルーン石のブローチが一つ。辺境の青い石が、銀灰の布地の上で静かに光っている。


 鏡の前に立った。


 (知らない人がいる)


 鏡に映っているのは、辺境で温室にこもっていた女ではなかった。帳簿と格闘し、泥にまみれ、鉱山に入り、包帯を巻かれていた自分ではない。


 淡い銀灰の髪が、肩の後ろに流れている。深い紫紺の目。フランツの技術で、体の線が美しく見える。


 「お嬢様。お美しいですわ」


 ヨハンナの声が、珍しく震えていた。


 「ヨハンナ。泣かないでください」


 「泣いておりません。目が乾いただけです」


 ゾフィが部屋に入ってきて、止まった。


 「えっ。エリナ様ですか? 本当に?」


 「わたくしですよ」


 「すごい。王妃様みたい」


 「大げさです」


 「大げさじゃないです! 辺境伯様に見せましょうよ!」


 「明日見せます。今日はまだ」


 「えー、でも」


 ヨハンナがゾフィの襟首を掴んだ。


 「ゾフィ。明日まで楽しみは取っておくものです」


 夕方、カイン様の正装の確認があった。


 フランツが仕立てた深い紺色の上着に、銀糸の控えめな刺繍。帯剣用のベルトも新調されている。


 カイン様の部屋に行った。


 扉の前で、少しだけ息を整えた。


 ノックした。


 「入れ」


 扉を開けた。


 カイン様が立っていた。


 紺色の上着。銀糸が暖炉の光を受けて微かに光っている。白いシャツ。革の帯剣ベルト。


 軍服姿のカイン様は見慣れている。でも、正装のカイン様は初めてだった。


 肩幅が広い。背が高い。フランツが「良い体格」と言っていたのは、こういうことか。布地が体に沿って、軍人の骨格をそのまま映している。


 (この人は、こんなに格好よかったのか)


 足が止まった。


 頬が熱い。


 「どうした」


 「いえ。あの。確認に来ただけです」


 声が上ずった。情けない。


 カイン様が首元のボタンを気にしている。


 「ここが締まる。息がしにくい」


 「それは正装ですから。外してはいけません」


 「軍服の方がましだ」


 近づいて、襟元を直した。指先がカイン様の首に触れた。


 温かい。


 「カイン様。とてもお似合いです」


 「……そうか」


 目が合った。


 カイン様の目が、ほんの少しだけ広がった。


 「お前は——ドレスは」


 「明日お見せします」


 「ああ」


 それだけ言って、カイン様が視線を窓に向けた。


 翌日。夜会の夜。


 ヨハンナに髪を結ってもらい、ドレスを着て、ブローチを留めた。


 靴を履いた。少し高い踵だ。辺境では革靴しか履かなかったから、歩くときに気をつけないといけない。


 「お嬢様。準備ができました」


 階段を降りた。


 玄関で、カイン様が待っていた。


 紺色の正装。昨日と同じだ。でも今日は帯剣ベルトに短剣を佩いている。叙勲式前の夜会では、武官は佩剣を許される。


 カイン様がこちらを見た。


 動かなくなった。


 目が、わたくしの姿を上から下まで見ている。髪。顔。ドレス。靴。


 そして、もう一度、目に戻った。


 「……似合う」


 声が小さかった。いつもの低い声より、もう少し低い。


 カイン様の耳が、赤かった。


 暗い玄関でもわかるくらい、赤い。


 「ありがとうございます」


 自分の声も、少し震えていた。


 クラウス兄様が玄関に来た。兄も正装している。金糸の刺繍が入った白い上着。ヴァルトシュタイン家の嫡男としての正装だ。


 「エリナ。綺麗だよ」


 「ありがとうございます、お兄様」


 クラウス兄様がカイン様を見て、にやりと笑った。


 「辺境伯殿。妹の姿に見惚れる気持ちはわかりますが、そろそろ行きませんか」


 カイン様が無表情に戻った。でも、耳はまだ赤い。


 馬車に乗った。


 カイン様が隣に座っている。距離が近い。肩が触れそうだ。


 「カイン様」


 「何だ」


 「今夜は、わたくしの隣にいてください」


 「……ああ。どこにも行かない」


 馬車が動き始めた。


 夜の王都を、夜会の会場に向かって走る。


 窓の外に、街灯の明かりが流れていく。


 手のひらに、汗をかいている。


 緊張だ。でも、隣を見れば紺色の正装の肩がある。


 大丈夫。



---


 会場は、王城に隣接する貴族会館の大広間だった。


 婚約破棄の夜の会場とは別の建物だ。でも、似ている。シャンデリアの光。大理石の床。ざわめく人々。


 入口で名前が呼ばれた。


 「ドラクロワ辺境伯、並びにヴァルトシュタイン公爵令嬢、エリナ・フォン・ヴァルトシュタイン」


 視線が集まった。


 一斉に。


 数十の目がこちらを見ている。好奇心。驚き。品定め。


 「あれが辺境に行った令嬢か」「婚約破棄の——」「叙勲を受けるという」「隣の男が辺境伯?」


 囁きが聞こえる。


 足が止まりそうになった。


 背中に、手が触れた。


 カイン様の手だ。大きな手が、背中の中央にそっと置かれている。


 歩いた。


 会場に入ると、人の流れが自然にこちらに向いた。


 最初に来たのは、ラウエン令嬢だった。


 「エリナ様! お久しぶりですわ。お元気でいらっしゃいましたか?」


 あの夜、真っ先にわたくしから目を逸らした人だ。


 今は満面の笑みで近づいてくる。


 「ラウエン令嬢。ご無沙汰しております」


 「辺境でのご活躍、お噂はかねがね。まあ、素敵なドレス。ルーン石のブローチですの?」


 ルーン石の名前に反応する目が、周囲に複数あった。辺境の特産品は、すでに社交界でも話題になっているらしい。


 「よろしければ今度お茶会でもいかが? 積もる話もございますし」


 「ありがとうございます。日程が合えばぜひ」


 笑顔を返した。社交の笑顔だ。前世で覚えた、営業用の微笑み。


 (あのとき、一言でも声をかけてくれていたら。こんな距離感にはならなかったのに)


 ラウエン令嬢が去ると、次々に人が来た。


 名前を知らない令嬢たち。下位貴族の夫人。商人の妻。


 「辺境の美肌薬を試してみたいのですが」「燻製サーモン、とても美味しかったですわ」「ルーン石のアクセサリーは作れますの?」


 対照的に、ブルーメ子爵は遠くからこちらを見ているだけだった。近づいてこない。距離を取っている。


 ヴォルカー家の令嬢も同じだ。目は合うが、すぐに逸らす。


 (グラデーション、とルドルフが言っていた。擦り寄る者。様子を見る者。距離を取る者。全部予想通りだ)


 会場の中程まで進んだとき、空気が変わった。


 壇上に、一人の老人が立った。


 白髪。厳めしい顔。胸には複数の勲章。年配の貴族だ。


 誰かが囁いた。「ハルデンベルク伯爵だ」


 ハルデンベルク伯爵。名前は知っている。保守派の重鎮。王家への忠誠を何より重んじる古参の貴族。


 伯爵が杯を掲げた。


 会場が静まった。


 「諸君。今宵は叙勲式に先立つ祝宴と聞いている。めでたいことだ」


 穏やかな口調だった。しかし、次の言葉で空気が凍った。


 「しかし、一つ疑問がある。婚約破棄された令嬢に叙勲とは——王家の権威に関わる問題ではないか」


 会場が、静まり返った。


 視線が全てこちらに向いた。


 「辺境での功績は認めよう。だが叙勲とは王家の名において授ける栄典だ。婚約破棄された者を叙勲することは、すなわち第二王子の判断を否定することにならぬか。王家の内部分裂を天下に示すことにならぬか」


 ハルデンベルク伯爵の声は、よく通る。年齢を感じさせない、張りのある声だ。


 言葉に詰まった。


 反論はできる。頭では組み立てられる。婚約破棄と叙勲は別の問題だ。功績は功績として評価されるべきだ。王家の権威と個人の栄典は切り離して考えるべきだ。


 でも、声が出なかった。


 公の場で、名指しで否定された。


 冬の夜のあの感覚とは違う。あのときは体の記憶だった。過去の傷が蘇っただけだった。


 今は違う。今この瞬間、目の前で、大勢の前で攻撃されている。


 手が震えている。


 「……わたくしは」


 声を出そうとした。出なかった。


 その時、会場の横から声が上がった。


 「それでは——数字をお見せしましょう」


 ルドルフだった。


 夜会に招待されていたのか。商人の正装を着て、にこやかに壇上の近くに歩み出た。


 「ハルデンベルク伯爵。僭越ながら、わたくしルドルフ・ハルト、グラフ辺境伯領との取引を担う商人でございます。叙勲の政治的意味は、門外漢のわたくしには判断できません。ですが、功績については数字で語れます」


 ルドルフが片手を上げた。


 「グラフ辺境伯領の昨年の税収は、一昨年比で三倍以上。新規産業として美肌薬の王都での予約は八十件超、燻製食品の取引先は十二都市に拡大。ルーン石の発見と流通管理により、辺境の自給率は史上初めて冬季を含めて九割を超えました」


 会場がざわめいた。


 「これらの成果は、辺境伯様のご統治の下、エリナ・フォン・ヴァルトシュタイン様が中心となって達成されたものです。数字は嘘をつきません。功績が叙勲に値するかどうかは——この数字を見て、皆様がご判断ください」


 ルドルフが一礼した。商人の礼だ。深く、丁寧に。


 会場に、沈黙が広がった。


 ハルデンベルク伯爵が何か言おうとした。だが、周囲のざわめきがそれを飲み込んだ。


 「二倍?」「ルーン石の発見もこの方が?」「冬季の自給率九割は……」


 持ち直した。


 震えている手を、腰の後ろで握りしめた。


 「ハルデンベルク伯爵」


 声が出た。


 「ご懸念はごもっともです。ですが、わたくしの叙勲は婚約破棄への補償ではありません。辺境での実績に対する国王陛下のご判断です。その点については——国王陛下を信じていただけますか」


 精一杯だった。声は平静を保てた。でも、足が震えている。


 ハルデンベルク伯爵が黙った。


 国王の判断を否定するのか、と問われれば、さすがに引き下がるしかない。


 伯爵が杯を上げた。


 「……よかろう。数字は確かに雄弁だ」


 それだけ言って、壇上から降りた。


 会場が動き始めた。止まっていた時間が流れ出すように。


 足元がふらついた。


 背中に、カイン様の手が置かれた。さっきより少しだけ強く。


 「……ありがとうございます」


 小さな声で言った。


 カイン様は何も言わなかった。ただ、手を離さなかった。


 ルドルフが近づいてきた。


 「大丈夫ですか、エリナ様」


 「ルドルフ。助かりました」


 「いえ。数字を用意していただけです。ああいう方が出てくることは——予想していました」


 予想していた。この商人は、常に先を読んでいる。


 「でも、最後にご自分で切り返されたのは見事でした。国王の判断を盾にするのは、一番の正解です」


 切り返せた。でも、あれは精一杯だった。もしルドルフが先に動いてくれなかったら、あの場で言葉を失ったまま終わっていた。


 手はまだ、震えている。


 夜会は続いた。


 ハルデンベルク伯爵の発言のあと、むしろ周囲の対応が変わった。同情ではない。「あの場で立て直した」ことへの評価だ。


 社交界は残酷だが、強い者を認める。


 帰りの馬車で、ヨハンナが膝掛けをかけてくれた。


 「お嬢様。よくお耐えになりました」


 「ヨハンナ。わたくし、一人では立てませんでした」


 ルドルフが数字を出してくれた。カイン様が背中に手を置いてくれた。


 一人ではない。でも、一人で立てなかったことが、悔しかった。


 カイン様が隣に座っている。何も言わない。


 でも、馬車の揺れの中で、そっと手が触れた。


 小指が重なっている。


 視線を落としたら、カイン様の小指がわたくしの小指に触れている。意図的かどうかわからない。でも、離さなかった。


 明日は、あの男と会う。


---


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