第87話「王都再び」
第87話「王都再び」
王都の城門が見えたのは、七日目の昼過ぎだった。
馬車の窓から身を乗り出して見た。灰色の石壁。鉄の格子。門の上に王国の旗が翻っている。
一年半ぶりだ。
最後にこの門をくぐったのは、婚約破棄された翌朝だった。誰にも見送られず、一人で馬車に乗り込んだ。
あのときは振り返らなかった。振り返ったら泣きそうだったから。
今日は違う。
隣にカイン様がいる。護衛が十人いる。辺境伯の紋章旗を掲げた馬車で、正門から入る。
門番が紋章旗を見て姿勢を正した。
「ドラクロワ辺境伯様でいらっしゃいますか。お通りください」
馬車が城門をくぐった。
石畳の音が変わった。辺境の荒い石畳ではない。きれいに整えられた王都の街路だ。
建物が密集している。商店が並び、人々が行き交い、馬車がすれ違う。辺境とは密度が違う。空気にも、かすかに花の香りが混じっている。
(前世の東京を思い出す。人の密度は段違いだけれど、この「都市の空気」は似ている)
カイン様が窓の外を見ている。表情は変わらないが、肩が少しだけ硬い。
ヴァルトシュタイン公爵邸は、王城から馬車で十分ほどの高台にある。
門が見えてきた。翼を広げた鷹の紋章。深い紫の旗。見慣れた紋章のはずなのに、胸が詰まった。
門の前に人が立っていた。
クラウス兄様だった。
馬車が止まる前に、もう歩き始めている。いつもの笑顔だ。でも、少し痩せた気がする。
馬車を降りた。
「エリナ!」
「お兄様」
クラウス兄様がこちらに来て、肩に手を置いた。抱きしめたいのを我慢しているのだと、すぐにわかった。公の場で令嬢を抱きしめるのは礼儀に反する。
「顔色がいい。辺境の空気が合っているようだな」
「お兄様こそ。王都の仕事は忙しいでしょうに」
「忙しいさ。でも——妹が帰ってくるなら、全部後回しだ」
クラウス兄様の目がカイン様に向いた。
「辺境伯殿。長旅お疲れさまでした。ようこそ王都へ」
「……ああ。世話になる」
二人の間に、微妙な空気が流れた。
クラウス兄様は笑っている。でも、目が笑っていない。カイン様は無表情だが、いつもより背筋が伸びている。
(お兄様、そんなに威圧しなくても)
邸の中に案内された。
広い玄関。磨かれた大理石の床。天井のシャンデリア。使用人たちが並んで頭を下げている。
「お嬢様、お帰りなさいませ」
お帰りなさい。
この言葉を、この場所で聞く日が来るとは。
客間にカイン様の部屋が用意されていた。わたくしの部屋は二階の、子供の頃から使っていた部屋だ。
扉を開けると、何も変わっていなかった。本棚。机。窓辺のカーテン。全部そのまま残してあった。
ヨハンナが荷物を運び込んでくれている。
「お嬢様。お父様がお待ちです。書斎に」
父の書斎。重い扉。ノックすると、低い声がした。
「入りなさい」
扉を開けた。
父が、机の向こうに座っていた。
ヴィルヘルム・フォン・ヴァルトシュタイン。五十四歳。銀灰の髪はほとんど白くなっている。深い紫紺の目。わたくしと同じ色だ。
立ち上がらなかった。机の向こうから、じっとこちらを見ている。
「ただいま戻りました、お父様」
父が黙っている。
長い間があった。
「座りなさい」
椅子に座った。父の机は大きい。子供の頃から、この机は海のように広く感じた。
「手紙は読んだ」
「はい」
「辺境伯と共に来たのだな」
「はい。カイン様はお部屋に」
父が目を細めた。
「カイン様、か。お前がそう呼ぶ男がいるとは知らなかった」
(呼び方一つで見抜くのは、さすがお父様だ)
「お父様。カイン様は辺境伯として、わたくしを受け入れてくださった方です。叙勲の推薦にもご尽力いただきました」
「それは知っている。クラウスから聞いた。シュテファン殿下からも書状が来ている」
情報はすでに集まっているということだ。この人は、いつでも判断材料を揃えてから話す。
「お前は辺境で何をしていた」
問いかけだった。でも、試問に近い。
「保存食の技術改良。温泉の再発見と美肌薬の開発。鉱山崩落の救助と復旧指揮。領地経営の効率化。温室での新品種開発。ルーン石の流通管理」
父が黙って聞いている。表情が変わらない。
「それだけか」
それだけかと聞かれると、もっとある。帳簿の整理も、侯爵の使者との交渉も、城下の市場の人たちとの関係構築も。でも、父が聞きたいのはそういうことではないだろう。
「それから——居場所を作りました。わたくしの」
父の目が、ほんの一瞬だけ揺れた。すぐに戻った。
「辺境伯に会わせてもらおう」
カイン様を呼びに行った。
カイン様は客間で待っていた。紺色の上着を着ている。フランツが仕立てた正装ではなく、旅装の上着だが、きちんと整えてある。
「お父様がお呼びです」
「……わかった」
書斎に戻った。
カイン様が父の前に立った。
二人の男が向き合っている。
父は座ったまま。カイン様は立ったまま。どちらも無表情だ。
空気が、重い。
「ドラクロワ辺境伯」
「ヴァルトシュタイン公爵」
父がカイン様を見ている。値踏みしている。隠そうともしていない。
「私の娘を、一年半預かってもらった」
「預かったわけではない。エリナは自分で来た」
父の眉が動いた。
「エリナ、と呼ぶのか」
「呼ぶ」
短いやりとりだった。でも、カイン様は嘘をつかなかった。ごまかさなかった。
呼び方を変えることもできたのに、変えなかった。
父がしばらく黙った。
「……噂通りの男だ」
それが良い意味なのか悪い意味なのか、わからなかった。
「クラウスから聞いている。不器用だが信用できる男だと。シュテファン殿下も推薦されている。だが私は——自分の目で見なければ信用しない」
カイン様が頷いた。
「見ればいい」
父が、一瞬だけ笑った。
笑ったのを見たのは、何年ぶりだろう。
「叙勲式まで数日ある。その間に判断させてもらう」
書斎を出た。
廊下に出た瞬間、息を吐いた。
カイン様が隣を歩いている。
「カイン様。大丈夫でしたか」
「……公爵は、強い人間だ」
「お父様は厳しいですが」
「厳しいだけではない。あの目は——お前の目に似ている」
わたくしの目に似ている。
そう言われたのは初めてだ。
窓の外に、王都の夕暮れが広がっている。
辺境とは違う空だ。建物が多くて、空が狭い。
でも、色は同じだ。橙色と紫。
ここにいる。王都にいる。父の家にいる。
カイン様も一緒に。
長い旅が終わった。
でも、本当の戦いは、これからだ。
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翌朝、クラウス兄様がカイン様を散歩に誘った。
「辺境伯殿。せっかく王都にいらしたのですから、庭をご案内しますよ」
ヴァルトシュタイン邸の庭園は広い。手入れされた薔薇の茂み。石造りの東屋。噴水。辺境には絶対にないものばかりだ。
わたくしは二階の窓から見ていた。
ヨハンナが隣に立っている。
「お嬢様。見張るのはやめませんか」
「見張っていません。様子を見ているだけです」
「同じことです」
庭園の小道を、二人が並んで歩いている。
クラウス兄様は笑顔だ。何か話しかけている。カイン様は短く答えている。いつもの調子だ。
「聞こえないのがもどかしいですわ」
「お嬢様。若殿とカイン様の話は、男同士のものです。覗き見するものではありません」
ヨハンナの言う通りだ。でも、気になるものは気になる。
庭園の東屋で、二人が足を止めた。向かい合って座っている。
ここからでは表情しか見えない。
クラウス兄様の笑顔が消えた。真剣な顔になった。
(お兄様。カイン様を脅さないでくださいね)
庭園で何があったかは、昼食のときにわかった。
食堂でクラウス兄様と向かい合った。父は午後から宮中に出仕するため、先に食事を済ませていた。
「お兄様。今朝の散歩はいかがでしたか」
「ああ、いい天気だったよ」
「カイン様とは何を話されたんですか」
クラウス兄様がパンをちぎりながら笑った。
「男同士の話だ。聞いても面白くないよ」
「気になります」
「気になるだろうな」
その笑い方は、何かを隠している顔だ。子供の頃からよく知っている。
「お兄様」
「わかった、わかった。少しだけ教えてやる」
クラウス兄様がスープを一口飲んで、言った。
「辺境伯殿に聞いた。お前を、どう思っているかと」
「直接聞いたのですか」
「直接聞いた。回りくどいのは俺の性に合わない」
(お兄様、それは直球すぎます)
「で、辺境伯殿は何と?」
「少し考えてから、こう言った。『大切にしている。それは嘘じゃない』」
父からの書状を読んだ夜に、カイン様が言った言葉と同じだ。
あのときも、確認するように、小さな声で。
「それだけですか」
「それだけだよ。でも、あの男の『それだけ』は重い。嘘をつけない人間の言葉だからな」
クラウス兄様がスプーンを置いた。
「俺からも一つだけ言った」
「何をです」
兄の目が、少しだけ鋭くなった。
「妹を泣かせたら殺す、と」
「お兄様!」
「冗談だ。半分くらいは」
目が笑っていなかった。半分ではなく、八割くらい本気だと思う。
「で、辺境伯殿は何と答えたか知りたいか?」
「知りたいです」
兄が笑った。今度は穏やかな笑顔だった。
「善処する、と言っていたよ」
善処する。
カイン様らしい。約束しすぎず、でも逃げない言い方。
「エリナ」
「はい」
クラウス兄様が真面目な顔になった。
「あの男は、言葉は足りないが嘘がない。俺が保証する。だから安心しろ」
安心しろ、と兄に言われたのは久しぶりだった。
子供の頃、雷が鳴って泣いたとき。夜中に一人で怖くなったとき。お兄様がいつも「安心しろ」と言ってくれた。
「ありがとうございます、お兄様」
「礼を言うな。兄として当然のことだ」
午後、カイン様と庭園を歩いた。
「カイン様。今朝、お兄様と何を話されましたか」
「聞いたのか。クラウス殿に」
「少しだけ」
カイン様が前を向いたまま歩いている。
「お前の兄は——いい男だ」
「そうですか?」
「ああ。妹を大事にしている。それが全部に出ている」
少し間があった。
「殺すと言われた」
「すみません」
「半分冗談だと思うか?」
「いいえ。八割本気だと思います」
カイン様が、ほんの少しだけ口の端を上げた。
笑ったのかもしれない。この人の笑い方は、いつも小さい。
「善処する、と答えた」
「聞きました」
「足りなかったか」
「いいえ。カイン様らしくて安心しました」
庭園の端に、白い花が咲いていた。辺境では見ない花だ。
立ち止まって見ていたら、カイン様も足を止めた。
「この花は何だ」
「白百合です。ヴァルトシュタイン家の紋花です」
「紋花」
「家の象徴の花。お母様が好きだったと聞いています」
会ったことのない母。わたくしが幼い頃に亡くなった。
父はほとんど母のことを話さない。でも、この庭園の白百合だけは、毎年欠かさず咲かせている。
カイン様が白百合を見ている。
「……うちの母も、花が好きだった」
カイン様が、自分から母親のことを話すのは珍しい。
リーゼロッテ様。温室に鈴蘭を植えた人。過労で早くに亡くなったと聞いている。
何も聞かなかった。カイン様が話したいなら、待てばいい。
白百合の花びらが、風に揺れている。
「王都は——広いな」
「はい」
「俺には広すぎる」
正直な感想だった。この人の世界は辺境だ。城壁と雪原と魔物。それだけでよかった場所。
でも今は、わたくしのためにここにいる。広すぎる王都に、慣れない正装で。
「でも、カイン様がいてくれるから、わたくしもここにいられます」
カイン様が少しだけ振り返った。
「……そうか」
短い返事。でも、声が少し柔らかかった。
明後日が、夜会だ。
社交界への本格的な復帰。
怖い。
でも、一人ではない。
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