第86話「出発の朝」
第86話「出発の朝」
まだ暗いうちに目が覚めた。
窓の外は薄い藍色。夜明け前の、一番冷たい時間だ。
今日、辺境を発つ。
荷物は昨夜のうちに詰め終えた。ヨハンナが念入りに確認してくれたから、忘れ物はないはずだ。ドレスの入った箱。書類の束。お土産の辺境産品。
そして、一冊の帳簿。温室の記録帳だけは、自分で鞄に入れた。
(留守の間、温室はゲルツ親方に頼んである。新品種の水やりの手順も、全部書いて渡した。大丈夫)
食堂に降りると、カイン様がいた。いつもより早い。
白湯ではなく、温かい麦茶を飲んでいる。旅の朝だから少し違うのか、と思ったが、たぶん深い理由はない。
「おはようございます」
「……ああ」
カイン様の表情は、いつもと変わらない。でも、目の下にわずかに影がある。
眠れなかったのだろう。この人も。
ゾフィが朝食を運んできた。いつもより品数が多い。
「旅は体力ですから! しっかり食べてくださいね。あと、馬車用のお弁当も作りましたから」
「ゾフィ、三食分もあるの?」
「足りないよりいいじゃないですか」
ヨハンナが静かに茶を注いでいる。
「お嬢様。出発前に、もう一度荷物の確認を」
「もう三回したわ」
「四回目です」
食事を終えて、玄関に出た。
馬車が二台、中庭に並んでいる。護衛の兵士たちがもう整列していた。フリッツが先頭に立っている。
空が白み始めていた。
城の使用人たちが見送りに出てきた。厨房の手伝いの女の子。掃除の老人。馬番の青年。
一人ひとりが頭を下げてくれる。
ゾフィが目を赤くしている。
「ゾフィ、ひと月で戻りますよ」
「わかってます。でも、お嬢様がいないと台所が静かで」
「わたくしは台所では静かですよ」
「いるだけで違うんです」
ヨハンナが馬車の扉を開けた。
「お嬢様。参りましょう」
馬車に乗り込んだ。中は意外と広い。向かい合わせの座席に、毛皮の膝掛けが置いてある。
カイン様が反対側に座った。
フリッツの号令が聞こえた。馬車が揺れ、車輪が石畳の上を転がり始める。
窓から城を振り返った。
灰色の城壁。温室の屋根。煙突から上がる煙。
小さくなっていく。
しばらく、黙っていた。
馬車の揺れは一定で、静かだ。窓の外には雪原が広がっている。ところどころ土が見えて、春が近いことを教えてくれる。
カイン様が腕を組んでいる。目を閉じている。寝ているのかと思った。
でも、違った。
カイン様の右手が、左腕の上でかすかに震えていた。
腕を組んでいるから目立たない。でも、指先が小さく動いている。握っては、開いている。
この人が緊張するところを見るのは、これで二度目だ。一度目は、父の書状を読んだとき。
あのときは「多少は」と言った。
「カイン様」
「……何だ」
「王都のことを考えていますか」
目を開けた。少し間があった。
「社交は苦手だ」
「知っています」
「知らない人間が多い」
「はい」
「笑顔を作るのが得意ではない」
「それも知っています」
カイン様が窓の外を見た。
「辺境なら、剣を振るえばいい。魔物を斬れば、それが答えだ。だが王都では——何が正解かわからない」
正直な人だ。
辺境伯として領を治め、魔物と戦い、民を守ってきた人が、社交の場を前にして不安を感じている。
それは弱さではない。誠実さだ。
「カイン様。わたくしが隣にいます」
カイン様がこちらを見た。
「社交の作法はわたくしが全部お教えします。誰に何を言えばいいか、どこでどう振る舞えばいいか。前世で覚えた処世術が、こういうときに役に立ちます」
「処世術」
「はい。前世ではそれだけで生き延びていたようなものですから」
冗談めかして言った。でも、嘘ではない。
「カイン様は、わたくしが震えたとき手を握ってくれました」
あの日のことだ。書状を読んで体が動かなくなったとき。
「今度はわたくしの番です」
右手を差し出した。
カイン様が見ている。差し出された手を。
しばらく、間があった。
大きな手が、ゆっくりと腕を解いた。
わたくしの右手を取った。
震えが、止まった。
「……すまない」
「謝らないでください。わたくしも同じですから」
同じだ。王都が怖い。社交界が怖い。あの大広間が怖い。
でも二人とも怖いなら、二人で怖がればいい。
馬車が揺れている。
雪原が続いている。道は長い。
手を繋いだまま、窓の外を見た。
遠くに山が見える。あの山を越えた先に、王都がある。
カイン様の手は大きくて、温かかった。
剣を握る手だ。でも今は、わたくしの手を握っている。
七日間の旅が、始まった。
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旅は三日目に入っていた。
馬車の揺れにも慣れた。最初の日は腰が痛くなったが、ヨハンナが持ってきてくれた座布団のおかげで、今はそれほどでもない。
景色が変わり始めている。
辺境の針葉樹林が、少しずつ落葉樹に変わっていく。雪の量が減り、道端に枯れ草が見えるようになった。南に向かっているのだと、目で実感する。
二日目の夜はライネ街道沿いの宿場町に泊まった。
小さな町だったが、宿屋の主人がカイン様を見て飛び上がった。
「へ、辺境伯様! 当宿へのお越しとは——」
「一晩世話になる」
「もちろんです! 最上の部屋をご用意いたします!」
最上の部屋と言っても、辺境の城の客間よりは狭い。でも清潔で、暖炉に火が入っていた。
夕食の席で、宿屋の主人が話してくれた。
「辺境伯領のエリナ様って、もしかしてあなた様ですか?」
「はい。どこでお聞きになりましたか」
「商人たちの間で評判なんですよ。辺境の温泉を見つけて、美肌薬を作って、鉱山も救ったと。うちの町にもルドルフさんが来て、辺境の燻製サーモンを卸してくれましてね。よく売れるんです」
ルドルフの商売は、こんなところまで来ているのか。
「それで、叙勲式で王都にいらっしゃるとか。すごいことです。この辺りの宿場では、みんな知っていますよ」
知っている。
辺境で黙って働いていただけなのに、いつの間にか噂が広がっている。
カイン様がこちらを見た。
「お前は有名になったな」
「望んだわけではないのですが」
「結果だろう。お前がやったことの」
短い言葉だけれど、この人の褒め方はいつもこうだ。事実だけを言う。
三日目の昼、馬車を止めて休憩を取った。
街道沿いの木陰で、ゾフィが作ってくれた弁当を食べる。硬めのパンと燻製肉。チーズ。干し果物。
フリッツが地図を広げて、今後の行程を確認している。
「あと四日です。明日からは駐屯地をお借りしますので、宿場よりは設備が整っています」
カイン様がフリッツと何か話している。地図の一点を指差して、声が低くなった。
近づいて聞いた。
「国境付近が最近、騒がしいらしい」
カイン様が言った。
「フリッツ。いつからだ」
「この冬からです。辺境伯様がお出になる前に、巡回の報告が上がっていました。国境の村で見慣れない商人の出入りが増えていると」
「見慣れない商人」
わたくしが聞いた。
「ベルドラント連邦の?」
フリッツが頷いた。
「断定はできませんが、連邦系の商会の旗印を掲げた馬車が目撃されています。今のところ通商路を通っているだけですが」
通商路を通っているだけ。
でも、ルドルフが言っていた。連邦の評議会がルーン石の調査を始めていると。傭兵ギルドが人を集めていると。
点が線になり始めている。
「カイン様」
「……まだわからない。だが、王都にいる間も報告は入れさせる」
カイン様の目が、一瞬だけ遠くを見た。北の方角。辺境の方角。
この人は領を離れることに、常に緊張している。辺境伯とは、そういう職務なのだ。国境を守る者が、国境から離れる。それ自体がリスクになる。
「フリッツ。留守の間、巡回の頻度を上げておけ。異変があれば、すぐに王都に早馬を出せ」
「承知しております」
馬車に戻った。
窓の外を見ながら考えた。
ベルドラント連邦。七つの自由都市の集合体。商業で成り立つ国。武力ではなく、経済で他国に圧力をかける。
ルーン石は辺境に富をもたらした。でも、富は人を引き寄せる。前世でも同じだった。利益が出れば、必ず分け前を求める者が現れる。
(今は考えても仕方がない。まずは叙勲式だ。カイン様の言う通り、目の前のことを一つずつ)
午後、街道の風景がさらに変わった。
畑が増えた。家が増えた。道幅が広くなった。すれ違う馬車の数も多い。
辺境から離れている、と感じた。
ヨハンナが対面の席で刺繍をしている。旅の間もこの人は手を休めない。
「お嬢様。明後日には最後の駐屯地です。そこから王都までは一日半」
「早いですね」
「長くもありますよ。お嬢様が小さい頃、王都から辺境に向かう旅では泣き通しでしたから」
覚えていない。たぶん前世の記憶が覚醒する前のことだ。
「今は泣きませんよ」
「ええ。お嬢様は強くなられました」
ヨハンナの声が、少しだけ柔らかかった。
夕方、駐屯地に着いた。
小さな砦のような建物だ。辺境伯領の管轄ではないが、カイン様の名前で部屋を借りられた。
夕食後、砦の屋上に出た。
南の空に、星が見える。辺境とは違う星の並びだ。
カイン様が隣に立っている。
「あと四日だ」
「はい」
風が吹いた。辺境ほど冷たくない。春の風だ。
「カイン様。わたくし、少し楽しみになってきました」
カイン様がこちらを見た。
「怖いのは変わりません。でも、怖いだけじゃなくなった。この旅の途中で、辺境の外でもわたくしたちのことを知ってくれている人がいるとわかったから」
宿屋の主人。街道ですれ違った商人。ルドルフが築いた商路の先にいる人々。
辺境は孤立していない。つながっている。
カイン様が黙って空を見ていた。
「……そうだな」
短い返事。でも、それで十分だった。
明日も旅は続く。
四日後には、王都に着く。あの大広間に立つ。
でも、今はこの星空の下にいる。隣にこの人がいる。
それだけで、大丈夫だと思えた。
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