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婚約破棄されたので辺境で好きに生きます〜なぜか辺境伯に溺愛されていますが〜  作者: きなこ
第4章「辺境の花嫁と永遠の約束」

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第85話「冬の夜の対話」

第85話「冬の夜の対話」


 夜が更けていた。


 温室の記録を整理していたら、いつの間にか時間が経っていた。新品種の成長記録をつけるのに夢中になると、時計を見るのを忘れる。


 (前世と同じだ。仕事に集中すると時間が消える。でも今世は過労死する前に止めなければ)


 廊下に出た。城は静まり返っている。使用人たちはとっくに寝ている時間だ。


 温室に向かおうとして、足を止めた。


 温室の扉から、微かな光が漏れている。暖炉石の光だけではない。誰かがいる。


 扉を開けた。


 カイン様がいた。


 温室の奥の椅子に座って、暖炉石の光の中で何かを読んでいる。


 「カイン様? こんな時間に」


 「……お前こそ」


 「記録の整理をしていて、遅くなってしまいました」


 カイン様の手元を見た。


 読んでいたのは、フリッツからの報告書だった。王都行きの護衛編成と旅程の案。


 「眠れないのですか」


 「……いや。考え事をしていた」


 「何を?」


 カイン様が報告書を閉じた。


 しばらく黙っていた。


 「王都のことを、考えていた」


 この人も、不安なのだ。


 表には出さないけれど。


 温室は夜になると温度が下がる。暖炉石の熱がゆっくり弱まって、外の冷気が忍び込んでくる。


 でもまだ温かかった。植物の呼吸が、空気をわずかに湿らせている。


 「少しだけ、いてもよろしいですか」


 「……好きにしろ」


 隣の椅子に座った。


 温室の緑が、暖炉石の淡い光に照らされている。外は雪。ここだけが春のように温かい。


 しばらく黙っていた。


 城壁の上で並んで立つのとは違う。温室の中は狭くて、距離が近い。肩と肩が触れそうなほど。


 「カイン様は、王都に行くのが嫌ですか」


 「嫌ではない。ただ——得意ではない」


 「何がですか」


 「人が多い場所。知らない人間と話すこと。社交の決まり事。全部だ」


 正直な人だ。ごまかさない。


 「辺境にいる限り、俺は辺境伯でいればいい。だが王都では——何か別のものが求められる」


 「別のもの、とは」


 「……わからない。だから困っている」


 少し笑った。


 「カイン様。王都で求められるのは、笑顔と世間話と、適度なお世辞です」


 「全部苦手だ」


 「知っています」


 暖炉石の火が弱くなってきた。


 空気が少し冷たくなる。植物の葉が、微かに揺れた。


 「でも、カイン様にはカイン様の強みがあります」


 「何だ」


 「嘘をつかないことです。社交界は嘘つきだらけですから、嘘をつかない人は逆に目立ちます」


 カイン様が考え込んだ。


 「……それは強みなのか」


 「強みです。わたくしが保証します」


 暖炉石の光が、また一段弱くなった。


 温室の温度が下がっていく。息を吐くと白くなりそうなほど。


 肩が震えた。


 薄い上着しか着ていなかった。夜がこんなに冷えるとは思わなかった。


 カイン様が立ち上がった。


 「帰るぞ。遅くなりすぎた」


 「もう少しだけ」


 「駄目だ。冷える」


 カイン様がこちらに手を伸ばした。立ち上がらせようとしているのだろう。


 その手を取った。


 引き上げられる力が強くて、立ち上がった勢いで前に傾いた。


 カイン様の胸に、ぶつかった。


 息が止まった。


 硬い胸板。革のにおい。暖炉石の残り香。


 カイン様の体が、一瞬だけ強張った。


 でも——離さなかった。


 腕が、背中に回った。


 ぎこちなく。探るように。でも、確かに。


 抱きしめられている。


 心臓が、信じられないくらい速く打っている。カイン様の心臓も、胸板越しに感じる。同じくらい速い。


 「……すまない。手を引きすぎた」


 「いいえ」


 声が震えた。寒さのせいではない。


 「いいえ。離さないでください」


 カイン様の腕に、少しだけ力がこもった。


 大きな腕だ。剣を振るう腕。でも、今はとても優しい。


 温室の暖炉石が弱まっている。空気は冷たい。


 でも、この人の体温は温かかった。


 どれくらいそうしていたか、わからない。


 長かったような気もするし、一瞬だったような気もする。


 カイン様が——腕を緩めた。


 「……帰れ」


 「はい」


 「遅くなりすぎた」


 「はい」


 離れた。名残惜しかった。でも、カイン様の顔を見たら——暗がりでも、耳の色がわかる気がした。


 温室の扉を開けた。廊下の冷気が流れ込む。


 振り返ったら、カイン様がまだ立っていた。こちらを見ていた。


 「カイン様」


 「何だ」


 「おやすみなさい」


 「……ああ」


 自室に戻った。


 扉を閉めて、壁に背中をつけた。


 心臓が、まだ速い。


 頬が熱い。


 手のひらに、カイン様の温もりが残っている。


 (初めてだった。抱きしめられたのは)


 不意打ちだった。たぶん、カイン様も予定していなかった。手を引きすぎただけ。でも——離さないでくれた。


 わたくしが「離さないで」と言ったから。


 (前世では、こんなこと一度もなかった)


 窓の外に、冬の月が出ている。


 冷たい光が部屋を照らしている。


 春まで、あと少し。


 王都で何が待っていても、今夜のことを覚えていれば大丈夫な気がする。


 あの腕の温もりを。



---


 軒先から、雫が落ちている。


 窓を開けたら、冷たい空気の中にほんの少しだけ湿り気があった。冬の空気とは違う。


 雪が溶け始めていた。


 屋根の端から透明な水が滴り、石畳に小さな染みを作っている。昨日までなかった音だ。水の音。冬の間ずっと凍りついていた世界が、ゆっくりと動き出している。


 温室に行った。


 温度計を確認する。外気温が少しだけ上がっている。暖炉石の出力を一段階下げても、もう植物は耐えられるだろう。


 新品種のルーン草が、三本目の葉を伸ばしていた。冬の間ずっと見守ってきた芽だ。春を待たずに、自力で育った。


 (植物は正直だ。環境が整えば、ちゃんと応えてくれる)


 温室を出ると、フリッツが廊下で待っていた。


 「エリナ様。出発準備の件で確認が」


 「はい、何でしょう」


 「護衛の編成が決まりました。騎兵四名、歩兵六名。馬車は二台。辺境伯様の馬車と、荷物用です」


 護衛の規模としては小さい方だ。でも、辺境の兵は精鋭揃いだ。フリッツが選んだなら問題ない。


 「旅程は?」


 「王都まで七日。途中、ライネ街道沿いの宿場に三泊。残り四日は街道沿いの駐屯地をお借りする手配がついています」


 七日。長い旅になる。


 前世なら新幹線で二時間の距離だろうか。いや、この世界と比べても仕方がない。


 「ヨハンナに荷造りの相談をしておきます。フリッツ、ありがとうございます」


 「はっ」


 フリッツが敬礼して去った。この人はいつも簡潔だ。カイン様に似ている。


 午後、城下に出た。


 買い出しの確認と、出発前の挨拶を兼ねて。ヨハンナと二人で歩いた。


 雪はまだ残っている。でも道の真ん中は黒い土が見えていた。人の足が踏み固めた場所から、春が染み出してくる。


 市場に着くと、いつもの顔ぶれがいた。


 「エリナ様! 叙勲式に行かれるそうで!」


 八百屋のグレーテが、大根を抱えたまま駆け寄ってきた。


 「はい。春の初めに王都へ」


 「まあまあ、国王陛下から直接! うちの嫁にも自慢していいですか」


 「自慢するようなことでは」


 「何をおっしゃいます! グラフ領の誇りですよ!」


 肉屋のハンスが奥から顔を出した。


 「エリナ様、王都でうちの燻製肉を宣伝してくださいよ。『辺境の味、天下一品』って」


 「宣伝はルドルフの仕事ですよ」


 「ルドルフの旦那は値段を高くしすぎるんですよ」


 パン屋のマルタが、焼きたてのパンを袋に詰めて持ってきてくれた。


 「旅のお供に。日持ちするように硬めに焼きましたから」


 「マルタさん、まだ出発まで日がありますよ」


 「練習です。本番はもっと上手に焼きますから」


 笑ってしまった。


 一年半前、初めてこの市場に来たときのことを思い出す。誰もわたくしの名前を知らなかった。「辺境伯様の客人」としか呼ばれなかった。


 今は違う。名前で呼んでくれる。声をかけてくれる。旅の無事を祈ってくれる。


 (前世では、近所の人の顔も知らなかった。マンションの隣の部屋に誰が住んでいるかも)


 市場を歩いていたら、小さな影がぶつかってきた。


 ルーカスだった。


 「エリナ様! やっぱりここにいた!」


 「ルーカス。走ると危ないわよ」


 「だって、大事な話があるんです」


 ルーカスが息を切らしながら、ポケットから何かを取り出した。


 小さな石。灰色で、角が丸い。


 「川で見つけたんです。なんか——光ってる気がして」


 「ルーカス、これは普通の石よ」


 「えー、でもルーン石に似てません?」


 「全然似ていないわ」


 ルーカスがしょんぼりした。でもすぐに顔を上げた。


 「エリナ様。王都に行くんですよね」


 「ええ」


 「いつ帰ってくるんですか」


 その質問に、少しだけ胸が詰まった。


 「ひと月くらい。叙勲式が終わったら、すぐに戻ります」


 「本当に?」


 「本当よ」


 ルーカスの目が、じっとこちらを見ている。この子は小さいのに、目だけは真っ直ぐだ。


 「帰ってきてくださいね」


 静かな声だった。いつもの元気な声ではなく、少しだけ不安が混じった声。


 この子にとって、わたくしは——何なのだろう。


 領主の客人でも、偉い人でもない。きっと、ただの「いつもいる人」だ。市場に来て、温室で働いて、たまにお菓子をくれる人。


 それがいなくなるのが、不安なのだ。


 しゃがんで、ルーカスと目線を合わせた。


 「必ず帰ってくるわ。約束します」


 ルーカスが小指を差し出した。


 (指切り。この世界にもあるのか)


 小指を絡めた。小さくて細い指だ。


 「指切り。破ったら——」


 「針千本飲ます、でしょう?」


 「え、知ってるんですか?」


 知っている。前世で何度もやった。子供の頃に。


 「ルーカス。帰ってきたら、お土産を持ってくるわ」


 「何がいいですか」


 「王都のお菓子。砂糖菓子が美味しいって聞いたことがあるの」


 「やった!」


 ルーカスが走っていった。途中で振り返って手を振った。


 手を振り返した。


 ヨハンナが隣で微笑んでいた。


 「お嬢様。慕われていますね」


 「子供に好かれるのは、たぶん前世からの特技です」


 「特技かどうかはともかく——あの子が安心できる場所が、ここにあるということです」


 帰り道、城が見えた。


 雪の中に立つ灰色の城。最初に見たときは、冷たくて無骨で、ここで暮らすのかと思った。


 今は違う。


 温室がある。ゾフィの台所がある。ヨハンナの小言がある。カイン様の白湯がある。


 帰ってくる場所がある。


 城門をくぐると、カイン様が中庭にいた。


 フリッツと護衛の打ち合わせをしている。こちらに気づいて、視線だけ向けた。


 何も言わなかった。でも、視線が合っただけで安心する。


 (王都で何があっても、この場所に帰ってくる。この人の隣に帰ってくる)


 窓の外に、夕日が差している。


 雪の上を、橙色の光が走っている。冬の終わりの色だ。


 春が、来る。


---


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