第82話「冬ごもりの朝」
第82話「冬ごもりの朝」
窓の外が白い。
目を開けた瞬間に、それだけわかった。
二度目の——冬。もう慣れた。
暖炉石の熱が朝方には弱くなっている。足先が冷える前に靴下を履いた。去年はこの冷たさに驚いたけれど、今年は備えがある。
食堂に入ると、カイン様がもう座っていた。
白湯の湯気が立っている。向かいの席には、わたくしの分の香草茶。
「おはようございます、カイン様」
「……ああ」
視線が合う時間が——少しだけ長くなった。告白の前と後で、変わったことは多くない。けれど、こういう小さなところが違う。
ゾフィが朝食を運んできた。根菜のスープと厚切りの黒パン。
「今朝は特別ですよ。新しい燻製ベーコンの試作です」
「辺境伯様が『冬の朝はもっと食え』っておっしゃったので」
カイン様は白湯を飲んでいた。何も言わない。
(自分で言ったのに知らん顔をするのは、どうなのでしょう)
朝食の後、温室に向かった。
城の東棟にある魔法温室。わたくしの土属性の魔力で苗の成長を促進する場所だ。冬の間は、ここが一番忙しい。
今日の作業は、新品種の苗の移植。ミルト村のガルスが秋に持ってきてくれた川沿いの野草の種を、改良した土壌に植え替える。乾燥に強い品種で、冬を越せれば食料問題がさらに改善する。
作業用の手袋をはめようとして、右手の甲に目が止まった。昨日、棚で引っかいた小さな傷。
「何をしている」
振り返ると、カイン様が温室の入り口に立っていた。
「見回りの途中ですか?」
「……ああ」
(この温室は見回りの順路にないと思うのですが)
カイン様の視線が、わたくしの右手に止まった。
「包帯」
「カイン様、これくらいの傷に包帯は」
「持ってこい」
渡すと、カイン様は無言でわたくしの手に包帯を巻き始めた。
相変わらず——下手だった。
指が太いから細かい作業が苦手なのだろう。薬指のあたりだけ妙に厚い。小指が少し動かしにくい。でも、手つきはとても丁寧だった。
(前にも、こうして包帯を巻いてもらったことがあった)
辺境に来て半年くらいの頃。手のひらを擦りむいたとき。あのときも、ぐるぐる巻きにされた。
あの頃は——まだこの人の気持ちに気づいていなかった。
「……きつくないか」
「少しだけ」
一巻きだけ緩めてくれた。見下ろすと、やっぱり不格好な包帯。
でも捨てられない。前のときと同じだ。
「包帯の巻き方、いつか教えましょうか」
カイン様が少し考えた。
「……必要か」
「必要です。わたくしの手は、これからもときどき怪我をしますから」
「……なら、覚える」
苗の移植に取りかかった。
カイン様は帰るかと思ったが、温室の隅の椅子に座ったまま動かない。
「お仕事は?」
「午前は空けた」
「わざわざ?」
「……見回りだ」
(見回りは終わったのでは)
言わないでおいた。
土に触れると、指先がほんのり温かくなった。苗を新しい土壌に丁寧に植え替える。
温室の中は静かだった。土の匂い、緑の匂い、暖炉石の乾いた熱。外の雪が窓に当たる音が、遠くに聞こえる。
ふと顔を上げると、カイン様がこちらを見ていた。
すぐに視線を逸らされた。白湯を飲むふりをしているが、湯呑みが空なのはこちらからも見える。
(見ていたでしょう、カイン様)
言わないでおいた。代わりに、少しだけ笑った。
移植を終えて温室を出ると、ルーカスが駆けてきた。
「エリナ様、手紙です! ルドルフさんから!」
ルドルフの几帳面な文字を読み進めるうちに、目が止まった。
『王都ではエリナ様の叙勲が話題になっております。社交界があなたに会いたがっています。春が待ち遠しい限りです』
社交界が——わたくしに。
一年半前、婚約破棄されて追い出された場所が。今度は——わたくしを待っている。
手紙の最後に、追伸が一行。
『なお、ベルドラント連邦の商人がルーン石に関心を示しているようです。問い合わせが増えております。詳しくは次の便で』
ベルドラント連邦。隣国の商業連邦。七つの自由都市で構成される、商人の国。
(問い合わせ、か。今のところは商業的な関心だけだと思いたいけれど)
カイン様に手紙を渡した。目を通して、少しだけ眉を寄せる。
「ルーン石か」
「ええ。注意しておいたほうがよいかもしれません」
「……ルドルフに返事を書いておけ。詳しい情報を待つと」
頷いた。
窓の外の光が、もう傾き始めている。冬の日は短い。
午後の打ち合わせに向かう前に、右手の包帯に目を落とした。
不格好で、薬指だけ厚くて、少しきつい。
でも——温かい。
春が来たら、王都に行く。あの場所に、この人と一緒に。
不安は、ある。でもカイン様が隣にいるなら。
この人が巻いた包帯は——いつだって不格好で、いつだって温かい。
——春が来たら、王都に行く。あの大広間に、もう一度立つ。今度は、この人と一緒に。
---
朝から吹雪だった。
窓が白い壁みたいに見える。風の音が、城壁にぶつかってうなっている。
去年の吹雪は怖かった。東翼の壁が割れて、ルーカスを抱えて走った夜を覚えている。
でも今年は備えが違う。暖炉石の配置を見直して、食料備蓄は十日分。水も地下から汲み上げられる仕組みを作った。
(前世で覚えた危機管理の知識が、こんなところで活きるとは思わなかった)
朝食の時間。食堂にはいつもより多くの人がいた。
吹雪の日は外の作業ができない。使用人も兵士も、城の中に留まる。食堂がいつもより賑やかだ。
ゾフィが大鍋のスープを配っている。
「今日は特別に二杯目もいいですよ。吹雪の日は温まらないと」
ルーカスが三杯目に手を伸ばして、ゾフィに睨まれた。
カイン様は隅の席で白湯を飲んでいた。吹雪の日も変わらない。この人の日常は、天候で崩れない。
「今日は外に出られませんね」
「ああ。城壁の見回りも中止だ」
「では、お時間がおありですか?」
カイン様がこちらを見た。
「帳簿の相談にお付き合いいただきたいのですが」
「……いい」
帳簿部屋に行こうとしたが、廊下が寒すぎた。暖炉石の配置を効率重視で設計したせいで、廊下は最低限の温度しかない。
結局、暖炉のある居間に落ち着いた。
小さな部屋だった。暖炉と、椅子が二脚と、低いテーブル。書斎というには狭いが、二人で使うにはちょうどいい。
帳簿と筆記具を広げた。来年度の予算案の素案を作っている。ルーン石の収入が安定してきたので、城下の整備に充てたい項目が増えた。
「カイン様。道路の補修を春に前倒しできないかと考えているのですが」
「どこだ」
「クレイン村への山道です。冬の間に崩れやすい箇所が三カ所あって、鉱夫の安全にも関わります」
「フリッツに人員を出させる。いくらかかる」
「見積もりでは」
数字の話をしていた。
カイン様は数字が得意ではない。でも、わたくしの説明を聞くときの目は真剣だ。わからないことは聞き返す。知ったふりをしない。
この人と仕事の話をするのは、心地いい。前世の会議とは違う。誰も見栄を張らないし、誰も他人の手柄を横取りしない。
暖炉の薪が爆ぜた。
ふと窓を見ると、雪が横殴りに降っている。風がさらに強くなったらしい。
「今日は止みそうにないな」
「ええ。明日の朝までは続くかもしれません」
筆を置いた。予算案の大枠は決まった。
暖炉の火を見ている。炎が揺れるたびに、カイン様の横顔に影が動く。
静かだった。
吹雪の音は大きいのに、この部屋の中だけ別の時間が流れているようだ。
「カイン様」
「何だ」
「王都に行ったら、叙勲の式典の他に、社交の場にも出ることになると思います」
「……ああ」
「夜会とか、お茶会とか。カイン様も、ご一緒していただくことになりますが」
カイン様が、少しだけ顔を曇らせた。
「俺は、そういう場が」
「苦手でいらっしゃいますよね」
「……ああ」
知っている。この人は剣なら誰にも負けないけれど、社交の場では借りてきた猫のようになる。辺境伯として必要最低限の外交はこなすけれど、それ以上のことは避けてきた。
「大丈夫ですわ。わたくしが隣にいます」
「お前が俺の面倒を見るのか」
「はい。帳簿と社交は、わたくしの得意分野ですから」
カイン様が、少しだけ笑った。口の端がほんの少し上がっただけだけれど、この人にしては珍しい反応だ。
「……頼む」
風が唸った。暖炉の火が一瞬揺れる。
わたくしの肩が、無意識に震えた。
気づいたら——カイン様の手が伸びていた。
わたくしの髪に。
肩にかかった髪に触れて、そっと後ろに払った。乱れた一房を、指先で整えるように。
大きな手。剣を握る手。でも触れ方は——驚くほど柔らかかった。
指先がうなじを掠めた。
息が止まりそうになった。
カイン様も、止まっていた。
手を伸ばしたことに自分で驚いているような顔をしている。
「……すまない」
「いいえ」
声が小さくなった。
「いいえ——嫌では、ありませんでした」
暖炉の火が爆ぜた。
カイン様の耳が——赤くなっている。
しばらく、どちらも何も言えなかった。
暖炉の火と、吹雪の音だけが部屋を満たしている。
カイン様が白湯の湯呑みに手を伸ばした。もう空だった。空の湯呑みを持ち上げて、口をつけて、空だと気づいて、黙って戻した。
(この人は——本当に、こういうところが)
「カイン様」
「何だ」
「春に王都に行って、夜会に出て、社交界の人たちに会って。きっとたくさんのことが起きると思います」
「……ああ」
「でも、わたくしが一番楽しみにしているのは——そういうことではないのです」
カイン様がこちらを見た。
「あなたと一緒に行けること。それが——一番です」
暖炉の火に照らされて、カイン様の耳がまだ赤い。
何か言おうとして、結局、頷いただけだった。
でも、その頷きで十分だった。
夕方まで、二人で居間にいた。
帳簿の残りを片づけて、お茶を飲んで、ときどき吹雪の様子を見た。
カイン様がうとうとし始めたので、薄い毛布をかけた。
(いつもは、かけてもらう側なのに)
毛布をかけるとき——カイン様の手が、わたくしの袖に触れた。
寝ぼけているのだろう。指先がほんの少しだけ、布を掴んでいる。
(離してくれないなら——もう少しだけ、ここにいましょう)
暖炉の火が静かに燃えている。
吹雪はまだ止まない。
でも——この部屋は温かい。
---




