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婚約破棄されたので辺境で好きに生きます〜なぜか辺境伯に溺愛されていますが〜  作者: きなこ
第4章「辺境の花嫁と永遠の約束」

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第83話「ルドルフの冬便」

第83話「ルドルフの冬便」


 雪が止んだ翌日、ルドルフが来た。


 冬の辺境に馬車を走らせてくるのだから、よほどの用があるのだろう。


 応接間に通すと、毛皮の外套を脱ぎながらルドルフが笑った。


 「いやあ、寒い。グラフの冬は骨に来ますね。でも来た甲斐がありました」


 「お茶をお持ちしますね。ゾフィに温かいものを」


 「ありがたい。あ、辺境伯様は?」


 「午前の見回りに出ています。昼までには戻るかと」


 ルドルフが鞄から帳簿と書類の束を取り出した。商人の鞄は、いつ見ても整然としている。


 「まず商談の件から。春の王都商談会に、グラフ印の産品を出品する準備が整いました。燻製サーモン、保存食、美肌薬。三本柱です」


 「予約の状況は?」


 「美肌薬が特にすごい。貴族の奥方から八十件を超えました。王妃様のお付きの侍女からも問い合わせが来ています」


 八十件。秋の五十件から、冬の間にさらに増えたのか。


 「生産が追いつきますか?」


 「ゲルツ親方と話をつけてあります。温泉水の採取量を二割増やせると。あとは瓶の手配ですね」


 ルドルフの報告は、いつも数字が正確で助かる。こちらが聞く前に懸念点まで潰してくる。


 (前世の取引先にも、こういう人がいてくれたらどれだけ楽だったか)


 「それから」


 ルドルフが声のトーンを変えた。少し低くなる。


 「王都の社交界の話です。エリナ様の叙勲は、かなり話題になっています」


 「先日のお手紙にも書いてくださいましたね」


 「手紙に書いた以上です。正直に申しますと、あなたに会いたがっている人がかなりいる」


 ルドルフが指を折った。


 「まずヴォルカー家の令嬢。婚約破棄の夜にいち早く距離を取った方です。今は『あのとき声をかければよかった』と後悔しているそうで」


 「ブルーメ子爵家は?」


 「あちらはまだ様子見ですね。ラウエン令嬢は逆に積極的で、お茶会の誘いを出したがっているとか」


 (ラウエン令嬢。あの夜、真っ先にわたくしから離れた人だ。手のひらを返すとは、このことを言うのでしょうね)


 「あの夜、誰がどう動いたか——わたくしは全部覚えています」


 「でしょうね。エリナ様は忘れる方ではない。でも、社交界とはそういう場所です。利用できる相手は利用し、切り捨てられる相手は切り捨てる。だからこそ」


 ルドルフが目を細めた。


 「あなたが堂々と戻ることに意味がある。逃げた人間ではなく、勝って帰った人間として」


 勝って。


 勝ち負けで考えたことはなかった。でも、社交界から見れば、そういうことになるのかもしれない。


 「もうひとつ」


 ルドルフが声をさらに低くした。


 「ベルドラント連邦の件です。手紙に書いた通り、ルーン石への問い合わせが増えています。わたしの商人仲間に調べさせたところ、連邦の評議会が正式にルーン石の調査を始めたようです」


 評議会。


 七つの自由都市の代表が集まる、連邦の最高意思決定機関だ。商人の集まりだが、その影響力は一国の議会に等しい。


 「調査、というのは?」


 「グラフ領のルーン石の産出量、品質、流通経路。それから——辺境伯領の軍事力と外交関係」


 商品だけでなく、軍事まで調べているのか。


 商業的な関心を超えている。


 「連邦は商業国です。武力で物事を進めることは少ない。でも、通商圧力という手段を持っています。グラフ領は冬の間、外部からの物資に頼る部分がまだある。そこを突かれると——」


 「面倒なことになりますね」


 「ええ。今すぐどうこうという話ではありませんが、春以降に何か動きがあるかもしれません」


 ルドルフの言葉を噛みしめた。


 ルーン石の発見は、辺境に富をもたらした。でも、富は人の目を引く。


 (これは前世の経験でもわかる。利益が出れば、必ず横からかすめ取ろうとする者が現れる)


 昼前にカイン様が戻ってきた。


 応接間に入ってきたカイン様は、ルドルフを見て軽く頷いた。


 「ルドルフ」


 「辺境伯様。冬のご挨拶が遅れまして」


 「用件は」


 「商談の報告と、少し気になる話を。エリナ様にはもうお伝えしました」


 ベルドラント連邦の話を、もう一度まとめて伝えた。


 カイン様は黙って聞いていた。腕を組んで、眉をわずかに寄せている。


 「連邦か」


 「はい。今のところ表立った動きではありませんが」


 「国境付近で何かあったか」


 「いえ、まだ。ですが連邦の傭兵ギルドが最近人を集めているという噂はあります」


 カイン様がこちらを見た。


 わたくしも、カイン様を見た。


 言葉は交わさなかった。でも、視線が合うだけで通じるものがある。


 「警戒はしておく。ルドルフ、引き続き情報を集めてくれ」


 「もちろんです。商人の耳は、兵士の目より遠くまで届きますから」


 昼食をルドルフと一緒に取った。


 ゾフィが張り切って冬の新作スープを出してくれた。根菜と鶏肉の煮込み。ルドルフが「これも商品にできませんか」と半分本気で言っている。


 午後、ルドルフが帰る前に、廊下で二人きりになった。


 「エリナ様」


 「何ですか?」


 ルドルフが、少しだけ真剣な顔をした。


 「春の王都は——あなたにとって、戦場です。でも、一人じゃない。わたしもいます。辺境伯様もいる。あたしの目に狂いがなければ、あの方はあなたのためなら何だってしますよ」


 「ルドルフ」


 「はい?」


 「あなたの目に狂いはないと思います」


 ルドルフが笑った。商人の笑顔だが、今日のは少しだけ、友人の笑顔に近かった。


 馬車が雪道を去っていくのを、窓から見送った。


 カイン様が隣に立っている。


 「連邦の件——気になるか」


 「少し。でも、今すぐの話ではありませんから」


 「……ああ」


 カイン様が窓の外を見ている。雪原の向こうに、かすかに山が見える。あの山の先に——連邦がある。


 「まずは春だ。王都に行く」


 「はい」


 「それから考えればいい」


 頷いた。


 この人は、いつも順番を間違えない。目の前のことを一つずつ片づける。不安を先に膨らませない。


 前世のわたしに、一番足りなかったことだ。


 窓の外に、冬の日差しが差している。弱いけれど、確かな光。


 春は——もうすぐだ。


 ルドルフの手紙の追伸が、頭の片隅に残っている。「王都で少し、気になる動きがあります。春にお会いした際、詳しく」



---


 叙勲式の準備を始めた。


 ヨハンナと一緒に、必要な書類を確認する。正式な招待状、宿泊の手配、お土産の選定。やることは山ほどある。


 「お嬢様。叙勲式の席順について、ヴァルトシュタイン家からの書状が届いております」


 「見せてください」


 ヨハンナから受け取った書状を開いた。


 父の筆跡。堅く、真っ直ぐな文字。


 式典の席順と作法について、細かく書いてある。貴族の式典には決まりごとが多い。特に叙勲式は、王の前に立つ。一つの所作も間違えてはならない。


 読み進めていくうちに、ある一文に目が止まった。


 『式典の会場は、王城大広間にて執り行われる』


 王城大広間。


 あの場所だ。


 指先が、冷たくなった。


 一年半前の秋。収穫大舞踏会。あの夜、わたくしはあの大広間に立っていた。


 アルフレート殿下が、大勢の貴族の前で婚約破棄を宣言した場所。


 「ありがとうございます」と笑って去った場所。


 あの夜の光景が——蘇った。


 シャンデリアの光。ざわめく人々。メリアの胸元の不自然な光。アルフレート殿下の冷たい目。


 嘲笑。囁き。誰もがわたくしから距離を取った。


 ラウエン令嬢が、最初に目を逸らした。次にブルーメ子爵。ヴォルカー家の令嬢が、後ずさるように離れた。


 手が震えている。


 「お嬢様?」


 ヨハンナの声が聞こえた。遠い。


 体が動かなかった。


 書状を持つ手が震えている。指先が白い。足が冷たい。石の床に根が張ったように、動けない。


 (大丈夫。あれはもう終わったこと。わたくしは辺境で生きてきた。帳簿を整え、保存食を作り、鉱山を救い、ルーン石を守った。何も恐れることはない)


 頭ではわかっている。


 でも体が言うことを聞かない。


 (前世でもこういうことがあった。大事なプレゼンの前に、急に手が動かなくなる。資料を作ったのに、届かない。喉が詰まる。頭が真っ白になる)


 あのときは、誰も助けてくれなかった。


 「お嬢様。お顔の色が」


 ヨハンナが近づいてきた。肩に手を置いてくれた。温かい手だ。


 「少しお休みになりましょう。お茶をお持ちします」


 首を振った。


 休んで治るものではない。これは体の記憶だ。あの夜の大広間が、わたくしの体に刻まれている。


 扉が開いた。


 カイン様だった。


 何も言わずに部屋に入ってきた。わたくしの顔を見て、一瞬だけ目が変わった。


 「何があった」


 短い声。低い声。いつもと同じ声量なのに、部屋の空気が変わった。


 「大丈夫です。少し——」


 「嘘をつくな」


 嘘だとわかるのだ、この人には。


 カイン様がこちらに歩いてきた。


 書状を持ったまま動けないわたくしの前に立って、何も聞かなかった。


 代わりに——わたくしの手を、取った。


 震えている右手を。書状ごと。


 大きな手のひらで、そっと包んだ。


 温かかった。


 この手を知っている。包帯を巻いてくれた手。マントをかけてくれた手。城壁で繋いでくれた手。


 しばらく、そのまま立っていた。


 何も言わなかった。カイン様も何も聞かなかった。


 ただ、手を握っていた。


 少しずつ——震えが止まった。


 指先に血が戻ってくる。足の冷たさが引いていく。呼吸が整う。


 カイン様の手の温もりが、体中に広がっていくようだった。


 「……すみません」


 「謝るな」


 「でも」


 「謝るなと言っている」


 声は厳しいのに、手は柔らかい。この人はいつもそうだ。


 「王城の大広間——あの場所で、叙勲式があるのです」


 カイン様が、少しだけ手に力を込めた。わかった、という合図。


 「あの場所を思い出したら、体が」


 言葉が途切れた。


 情けない。一年半も経つのに。辺境でこんなに強くなったのに。あの夜の記憶だけは、まだわたくしの体を縛っている。


 「エリナ」


 名前を呼ばれた。カイン様が名前で呼ぶのは、大事なときだけだ。


 「俺がいる」


 短い言葉だった。


 でも、それだけで足りた。


 「隣にいる。あの場所にも。どこにでも」


 涙が滲んだ。


 泣くつもりはなかった。でも、この人の前では強がれない。強がらなくていいと、この手が言っている。


 「……ありがとうございます」


 「礼はいらない」


 ヨハンナが静かにお茶を置いて、部屋を出ていった。ドアを閉める音さえ立てなかった。


 しばらくして、書状をもう一度読んだ。


 今度は手が震えなかった。


 王城大広間。


 あの場所に、もう一度立つ。


 今度は——叙勲を受ける側として。カイン様の隣で。


 怖い。


 正直に言えば、まだ怖い。


 でも、この手がある。


 この温もりがある。


 書状を丁寧に畳んで、机の上に置いた。


 カイン様の手は——まだ、わたくしの手を握っていた。


---


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