第80話「終わりと始まり」
第80話「終わりと始まり」
ヴィルヘルム公爵——お父様からの手紙が届いた。
クラウス兄様からも、同じ便で。
お父様の手紙を読んだ。
「全てが終わった。メリア・シュヴァルツには国外追放の処分が下された。お前の名誉は——もうすぐ、正式に回復される」
手紙を読み終えて——長い間、窓の外を見ていた。
(メリア様。あなたは——自分の選択の結果を、受け取ったのね)
怒りはない。
喜びもない。
ただ——遠い場所で起きた出来事のように感じる。
一年前なら——違ったかもしれない。
舞踏会で婚約破棄を宣言されたあの夜、メリアの顔が目の前にあった。あの計算高い微笑みが。
でも今——メリアの顔は、もう記憶の中でぼやけている。
(わたくしはもう、王都の人間ではない。ここの人間だ)
カイン様が来た。
「聞いたか」
「はい。お父様から、手紙が」
「……お前は、あの女をどう思う」
少し考えた。
「気の毒だとは思います。——でも、自分の選択の結果です。嘘で手に入れたものは、いつか崩れる」
「ああ」
カイン様が頷いた。
それ以上、この話はしなかった。この人は——終わったことを引きずらない。
代わりに——カイン様が、机の上に小さな箱を置いた。
木の箱。丁寧に研磨されていて、蓋に辺境の紋章が彫られている。
「これは」
「ルーン石だ。ゲルツが選んだ。一番透明度が高いやつを」
箱を開けた。
淡い青みがかった石が、静かに光っていた。
親指の先ほどの大きさ。角が丸く研磨されていて、手のひらに載せると——ちょうどいい重さだった。
「……なぜ、わたくしに?」
「理由がいるのか」
(——またこの人は。さりげなく、大切なものを差し出す)
石を手に取った。
温かい。ルーン石は通常、手のひらの温度には反応しない。でもこの石は——わたくしの土属性魔力に呼応して、ほんのりと温まっていた。
内側から、淡い光が脈打つように明滅している。心臓の鼓動と——同じリズムで。
「カイン様」
「何だ」
「……ありがとうございます。大切にします」
「……ああ」
窓辺の鉢植えの横に、ルーン石を置いた。
白い花と、淡い青の光が——並んでいる。
(この石が——わたくしたちの絆を映しているようだ)
夕方。クラウス兄様の手紙を改めて読み返した。
「エリナ。
メリアの件は片付いた。王宮は今、次の話題に移ろうとしている。お前の名前が——良い意味で、宮廷に広がっている。
辺境伯には改めて礼を言っておけ。あの男は——お前にふさわしい男だ。兄が保証する。
春に会おう。
クラウス」
「お前にふさわしい男」——兄様がそう書いてくれたことが、何より嬉しかった。
夜。城壁の上で。
カイン様の隣に立った。冬の星空が頭上に広がっている。
「カイン様。メリアの件が終わって——何かが、一つ閉じた気がします」
「ああ」
「でも——同時に、何かが開いた気もします」
「何がだ」
「わかりません。ただ——前よりも、遠くが見える気がします」
カイン様が——小さく頷いた。
「俺もだ」
手が繋がる。冬の空気は冷たい。でも——手は温かい。
ルーン石のように——触れると温まる。
(終わったことがある。始まることがある)
メリアの話は終わった。アルフレートの話も、いずれ終わるだろう。
でもわたくしの話は——まだ、続いている。
この人と。この辺境で。
---
冬の準備が本格化した。
二度目の冬だが——今年は余裕がある。
去年は「生き延びるため」の冬支度だった。食料が足りるか。暖房石は持つか。凍死者を出さないために、何ができるか。
今年は「快適に過ごすため」の冬支度だ。食料は十分。暖房は足りている。温室は冬でも野菜を供給し続ける。
城下を歩いた。
商店が並ぶ通り。去年の冬は——三軒しかなかった。今は十二軒。
焼き菓子屋。革細工の工房。香草を束ねて売る店。毛皮の手袋を作る老人の小さな店。
冬支度の品を買い求める人々で、通りは賑わっていた。
「エリナ様!」
ルーカスが走ってきた。
十四歳の少年は——この一年で、背が伸びた。最初に会ったときは、わたくしの肩までもなかった。今は、ほぼ同じ高さだ。
「今日のゾフィさんのスープ、新作です! 温泉の塩を使ったやつ!」
「楽しみですね」
「あと、カイン様が探していました。管理棟にお戻りくださいって」
(カイン様が探している。——その言葉だけで、足が速くなるのは、どうしてかしら)
——どうしてか、なんて。もうわかっている。
管理棟に戻ると、カイン様が書類を持って待っていた。
「届いた」
書状を差し出された。シュテファン殿下からの正式な書状だ。蝋封に王家の紋章が押されている。
開封した。読んだ。
——二度、読んだ。
「辺境伯領への功績を認め、領地経営顧問エリナ・フォン・ヴァルトシュタインに、春の叙勲を検討する」
「叙勲……?」
声が、自分でもわかるほど震えていた。
「シュテファン殿下の推薦だ。お前の功績が——正式に認められた」
叙勲。
王都で——悪役令嬢と呼ばれたわたくしが。
婚約破棄された公爵令嬢が。
辺境に追いやられた女が。
涙は——出なかった。
代わりに——笑った。
「カイン様」
「何だ」
「わたくし——もう少しだけ、頑張れそうですわ」
「もう少しだけ、ではない。まだ先は長い」
(この人は——褒めないわね。でもそれが、この人のやり方だ)
「まだ先は長い」は——「まだ一緒にいる」の意味。
書状を胸に抱いた。
(前世のわたくしは——社内表彰すらもらえなかった。毎日終電まで働いて、誰にも認められずに消えた)
今世のわたくしは——国の最高位の人間に、名前を呼ばれた。
ヨハンナが入ってきた。
わたくしの顔を見て——すぐにわかったらしい。
「お嬢様。良い知らせですね」
「ヨハンナ。叙勲の検討が——」
「まあ!」
ヨハンナの目が大きくなった。それから——静かに微笑んだ。
「お嬢様。あなたは——最初から、こうなる方でした」
新しい防寒服の配給が始まった。
ハンスが集計を報告してくれた。「防寒服三百二十着。暖房石の追加配分百四十個。保存食の備蓄は春まで十分です」
去年の冬は——数字を見るたびに、胃が締め付けられた。
今年は——数字を見るたびに、安心する。
夕方。城壁の上。
カイン様の隣で、冬の空を見上げた。
「カイン様。春に——王都に行くことになりますわね。叙勲の式典で」
「ああ。聞いている」
「……緊張しますわ。王都は——あの場所ですから」
カイン様が、手を握った。
「俺がいる」
二文字。
それだけで——十分だった。
---
ルドルフが辺境を訪れた。
冬の海路便で——リーベック港経由の最後の船に乗って。
「エリナ様! 叙勲おめでとうございます! いやぁ、あたしの見る目に狂いはなかった!」
管理棟に入ってくるなり、両手を広げて叫んだ。
「まだ決定ではありません、ルドルフ」
「決まったも同然ですよ。シュテファン殿下が推薦して、国王陛下がご検討なさっているんですから。あたしが十八年商売をやってきて——こういうときに覆ったことは一度もない」
ルドルフが持ってきた王都の近況。
美肌薬の試作品が貴族令嬢の間で話題になっている。「辺境の温泉水から作られた秘薬」という触れ込みが効いて、正式な予約が五十件を超えた。
辺境ブランドの印がついた燻製が、王都の高級食材として定着し始めている。
ルーン石の第三便も好調——上位等級は予約制にしたことで、さらに希少価値が上がっている。
「エリナ様。あなたの名前は、もう王都で一つのブランドですよ」
「わたくしの名前が?」
「ええ。『辺境のエリナ』で通じます。婚約破棄された悪女なんて——もう誰も覚えていません」
ルドルフの言葉は——いつも、さりげなく核心を突く。
午後。ルドルフと二人で、美肌薬の正式な販売計画を詰めた。
生産量。価格設定。包装。販路。
「春の第一便で百個。初回は少量にして——」
「話題を作ってから量を増やす。あたし好みの戦略です」
マルタが訪ねてきた。
「エリナ様、ルドルフ様がいらっしゃるなら——カイン様、またちょっと……」
「……またですか」
「ルドルフ様がエリナ様と二人きりで話していると、辺境伯様の巡回ルートが必ず管理棟の前を通るんですよ」
ルドルフと顔を見合わせて——笑った。
「カイン様は——変わりませんわね」
「変わらないからいいんですよ。あの方は——不器用だけど、嘘がない」
夕方。ルドルフがカイン様に挨拶に行った。
わたくしも同席した。
「辺境伯。エリナ様との進展、おめでとうございます。あたしが予言した通りでしょう?」
カイン様が——眉をひそめた。
「……あの商人は口が軽い」
「でも数字は正直です。それと——」
ルドルフが真剣な目になった。
「エリナ様を、大事にしてくださいね。あの方は——王国で一番の宝ですから」
カイン様が短く答えた。
「知っている」
その声の温度が——ルドルフを一瞬だけ黙らせた。
翌朝。ルドルフが帰る支度をしていた。
城門の前で、馬車に荷を積んでいる。
「では、春にまた参ります。叙勲の式典には——あたしも王都にいますから」
「ルドルフ。いつも、ありがとうございます」
「礼には及びません。あたしは商人です。利益のあるところに行くだけですから」
でもルドルフの目は——利益だけを見ていない。
この人は——最初から、わたくしの味方だった。
「ルドルフ」
「はい」
「春に——また、お茶を飲みましょう」
「もちろん。——カイン様が嫉妬しない程度にね」
馬車が走り出した。
冬の朝の道を、南へ向かっていく。
城門の影から——カイン様が出てきた。
「……見送りか」
「ええ。カイン様も——来てくださっていたのですね」
「通りかかっただけだ」
城門の前に、カイン様は五分前からいた。ベルンハルトがそう教えてくれた。
——でも、言わないでおく。
「カイン様」
「何だ」
「ルドルフが——カイン様のことを、いい人だと言っていましたわ」
「……そうか」
「口が軽いとも言っていましたけど」
「当たっている」
二人で並んで、城の中に戻った。
冬の朝の空気が冷たい。でも——隣を歩く足音が温かい。




