第79話「第一王子の判断」
第79話「第一王子の判断」
王都——第一王子シュテファン・フォン・ルヴェンタールの執務室。
机の上に、辺境伯領からの書状が広げられていた。
シュテファンが読み終えた。
表情は変わらなかったが——目に、感心の色があった。
「この提案を書いたのは——ヴァルトシュタイン令嬢か」
侍従エッカルトが答えた。
「辺境伯の名義ですが、筆跡と内容の構成から判断して——令嬢が原案を作成したものと思われます」
シュテファンは書状をもう一度読み返した。
法的根拠の整理。ルーン石の管理体制報告。自主的な上納金増額の提案——金貨十五枚。
マルテンシュタイン侯爵が提示した金貨十二枚を上回る数字を、辺境伯領の財政で無理なく捻出できることが、詳細な収支表とともに示されている。
「見事だ。侯爵の提案より、はるかに実態に即している」
シュテファンは椅子から立ち上がった。
窓の外に、秋の王都が広がっている。
(あの夜——庭園で会った令嬢だ)
「辺境に参ります」と言ったエリナ・フォン・ヴァルトシュタイン。負けた人間の目ではなかった。
あの目が——今、これを書いている。
「エッカルト」
「はい」
「王室会議の議題に追加しろ。マルテンシュタイン侯爵の請願に対する見解を、正式に示す」
王室会議。
シュテファンが発言した。
「辺境伯領のルーン石鉱山について、マルテンシュタイン侯爵が採掘権の共同管理を請願しております。これに対し、辺境伯領からの報告書を精査いたしました」
重臣たちが注目する。
「辺境伯領の管轄権は、建国時の勅令に基づき正当であります。また、現在の管理体制は——計画的な採掘制御、品質管理、辺境ブランドとしての販売戦略——いずれも模範的であり、王国にとって有益です」
マルテンシュタイン侯爵が、席の奥で顔を歪めた。
シュテファンが続けた。
「さらに、辺境伯は国庫への自主的な上納金として、年間金貨十五枚の増額を提案しております。これは侯爵の提示額を上回るものです」
重臣の間でざわめきが起きた。
「よって——辺境伯領の管轄権は正当であり、現状の管理体制は王国にとって有益であるとの見解を示します」
国王テオドールが、ゆっくりと頷いた。
「シュテファンの見解を支持する。マルテンシュタイン侯爵の請願については——再検討を求める」
侯爵の顔が歪んだ。
「陛下——」
「侯爵。辺境伯領は王国の北の守りであり、その自治権は尊重されるべきだ。——これは、初代国王以来の方針だ」
侯爵は何も言えなかった。
会議の後、シュテファンは執務室に戻った。
辺境伯への返書を書いた。
「辺境伯カイン・フォン・ドラクロワ殿
辺境伯領の管轄権は守られます。今後も王国のため、尽力されたし。
——なお、令嬢にくれぐれもよろしくお伝えください。あの提案書は、王室会議で最も説得力のある文書でした。
第一王子 シュテファン・フォン・ルヴェンタール」
シュテファンはペンを置いた。
(辺境の花——か)
あの令嬢は——棘ではなく根がある、と言ったらしい。
その通りだ。根があるから——どんな風にも倒れない。
---
シュテファン殿下からの返書が届いた日——ヘルマン・フォン・ブレーメンにも、王都から報せが届いた。
ヘルマンが、出立の挨拶に来た。
大広間ではなく、管理棟の前の廊下で。
「辺境伯。——令嬢。このたびは、ご厚遇いただきありがとうございました」
カイン様が頷いた。言葉はない。
ヘルマンがわたくしに向き直った。
「令嬢。——いや、辺境の花殿。あなたの才覚は認めます」
「ご丁寧にありがとうございます」
「次があるかどうかは——わかりませんが」
「ないことを願っておりますわ。お帰りの道中、お気をつけて」
ヘルマンが——初めて、目で笑った。
「面白い方だ。侯爵にそうお伝えしておきます」
馬車が城門を出ていった。護衛三名を従えて、南の街道へと消えていく。
ベルンハルトが隣で見送っていた。
「行きましたね。——あの男、最後まで隙がなかった」
「ええ。でも——こちらも、隙は見せなかったと思います」
嵐が去った。
夕方。城壁の上。
今日は少し早い時間だった。冬が近づいて、日が短くなっている。
カイン様とわたくしが並んで立った。手が繋がる。
「終わったな」
「ええ。カイン様のおかげです」
「俺は何もしていない。全部お前が——」
「いいえ。カイン様がこの辺境を守っていなければ、わたくしの計算は何の意味もありません。鉱山を守る兵がいなければ——数字は紙の上の空論です」
カイン様が——わたくしの手を、いつもより少し強く握った。
「エリナ」
「はい」
「お前と一緒に——この辺境を守りたい。ずっと」
心臓が——大きく跳ねた。
それは——プロポーズのようで、でもまだ違う。
この人のペースで、少しずつ。言葉を積み重ねて、石を一つ一つ積むように、気持ちを形にしていく。
急がなくていい。この人は——いつも、そうやって歩いてきた。
握り返した。
「わたくしも——ずっと、ここにいます」
冬の最初の星が——二人の上に灯った。
城壁の下で、城下の灯りが一つ、また一つと点いていく。
一年前は暗い城下町だった。今は——温かい光で満ちている。
「カイン様」
「何だ」
「ずっと——って、どのくらいですか?」
カイン様が、少し考えた。
「……わからない。ただ——お前がいなくなる日は、考えられない」
不器用な人だ。
でも——不器用だから、この人の言葉は全部本当だ。
帰り道、城壁の階段を降りるとき——足を踏み外しかけた。
カイン様の手が、すぐにわたくしの肘を支えた。
「気をつけろ」
「ありがとうございます。——カイン様の手が、速いですね」
「当たり前だ。お前はよく躓く」
「そんなことは——」
「ある。覚えているだけで四回だ」
(数えていたの——!?)
部屋に戻って、窓辺の鉢植えを見た。
四つ目の蕾が——さらに大きくなっていた。花びらの白が、がくの外に出始めている。
(もう少し。もう少しで——咲く)
この花が開くとき——何かが、また一つ変わる気がする。
嵐が去った後の静けさの中で、次の季節が静かに近づいている。
---
王都——御前会議の間。
国王テオドール・フォン・ルヴェンタールが、玉座に座っている。
今日の議題は——メリア・シュヴァルツの処分の最終決定。
調査報告書が読み上げられた。
聖光石による偽装。王族名義の無断使用。三年間にわたる聖女詐称。
重臣たちの顔は硬い。すでに内容は知られている——御前会議は、形式上の決定の場だった。
国王が口を開いた。
「聖女詐称の罪により——メリア・シュヴァルツの男爵位を剥奪し、国外追放とする。追放先はベルドラント連邦とし、王国への再入国は禁じる」
静かな宣言だった。
アルフレートが立ち上がった。
「父上! メリアは——」
「黙りなさい、アルフレート」
国王の声は静かだが、重い。
「お前の罪については——別途、議論する。今は、この件を片付ける」
アルフレートの口が閉じた。
「お前の罪」という言葉が——重石のように、肩にのしかかった。
メリアが、連行されていく。
広間の扉に向かって歩くその背中は——小さかった。
振り返り際に——アルフレートを見た。
その目に、怒りはなかった。悲しみがあった。
「殿下。わたしは——楽しかったです。あなたのそばにいた時間は」
アルフレートが何も言えなかった。
メリアが——笑った。泣きながら。
「さようなら」
扉が閉まった。
廊下で一人になったシュテファンが、窓の外を見た。
「因果応報——とは言いたくない。だが、避けられない結末だった」
エッカルトが隣に立っていた。
「殿下。アルフレート殿下の処分についても——」
「急ぐ必要はない。弟は——もう十分、罰を受けている」
シュテファンは窓から離れた。
書斎に戻り、手紙を書いた。辺境へ。
その夜——ヴィルヘルム公爵も、手紙を書いていた。
エリナ宛の、短い手紙。
「エリナ。
全てが終わった。メリア・シュヴァルツには国外追放の処分が下された。
お前の名誉は——もうすぐ、正式に回復される。
父より」
公爵はペンを置いた。
窓の外に、晩秋の王都の夜景が広がっている。
(あの日——お前が「ありがとうございます」と言ったとき、私は何も言えなかった)
今なら——言える。
(よくやった、エリナ)
手紙を封じた。蝋封にヴァルトシュタイン家の紋章を押す。
明朝の便で、辺境へ送る。




