第78話「冬の使者」
第78話「冬の使者」
初雪が降った翌朝——マルテンシュタイン侯爵の正式な使者が、辺境に到着した。
フリッツが報告に来た。
「ヴァルトシュタイン嬢。侯爵家の使者が一名、護衛三名とともに城門前に到着しております。面会を求めています」
「使者の名前は?」
「ヘルマン・フォン・ブレーメン。侯爵家の顧問官だそうです」
カイン様と一緒に、大広間で使者を迎えた。
ヘルマン・フォン・ブレーメン。五十代半ばの男。温和な笑みを浮かべている。灰色の髪をきちんと整え、旅塵のない外套を着ている。護衛の到着直後とは思えない身なりだ。
(——この人は、準備をしてきている)
第一印象で、そう感じた。
「ドラクロワ辺境伯。このたびはルーン石鉱山について、友好的な協議の場を設けたく——」
カイン様が短く答えた。
「用件を言え」
ヘルマンが微笑んだ。
この人は——微笑むとき、目が笑わない。口元だけが動く。
「率直でいらっしゃる。では——ルーン石の採掘権の一部を、マルテンシュタイン侯爵家との共同管理にしていただきたい。侯爵家の商路と販路を活用すれば、辺境伯領にとっても利益になるかと」
わたくしが口を開いた。
「その提案の法的根拠を、お聞かせいただけますか」
ヘルマンの目が——わたくしに向いた。
値踏みするような目だった。温和な表情の奥に、鋭い刃物のような知性が光っている。
「これは——ヴァルトシュタイン令嬢ですか。噂は聞いております」
「お噂とは?」
「辺境の花と呼ばれていると。——美しい花には、棘があるとも」
わたくしは微笑んだ。
「棘はございません。ただの根がございます」
ヘルマンが一瞬だけ、目を細めた。
(——この女は侮れない)
そう思ったのが、見て取れた。
「法的根拠について申し上げますと——」
ヘルマンが、書類を取り出した。王宮に提出した請願書の写しだ。
「国益の観点から、希少鉱物の管理は中央で一括すべきという原則がございます。これは建国以来の——」
「建国時の勅令では、辺境伯領の地下資源は辺境伯の管轄と定められています」
わたくしが遮った。
「この勅令は、現在も有効です。侯爵家の請願は——この勅令に矛盾しています」
ヘルマンの眉が、ほんの少しだけ動いた。
「令嬢は——勅令の原文をお読みになったと?」
「ええ。三日前に」
沈黙が落ちた。
カイン様が——腕を組んで、椅子の背にもたれている。何も言わない。わたくしに任せている。
ヘルマンが笑みを取り戻した。
「なるほど。令嬢は——交渉にも長けておいでだ。しかし、法的根拠だけでは物事は動きません。政治的な——」
「政治的な面についても、準備はできております。シュテファン殿下にはすでに書状をお送りしております」
ヘルマンの笑みが——一瞬だけ、固まった。
(先手を打っていた、ということか)
「本日のところは——互いの立場を確認できたということで」
ヘルマンが立ち上がった。
「数日、この城に滞在させていただいてもよろしいでしょうか。旅の疲れを——」
カイン様が答えた。
「客室を用意する。——ただし、城内の移動は案内付きだ」
「ご親切に」
ヘルマンが退出した。
扉が閉まった後——カイン様がわたくしを見た。
「あの男——ただの使者ではない」
「ええ。侯爵家の切り札ですわ。温和な顔で、情報を集めに来ています」
「城下にも出歩くだろう」
「ベルンハルトに、目を離さないようお願いしていただけますか」
「もう言ってある」
(——この人は、わたくしが言う前に動いている)
目が合った。
ほんの一瞬だけ——仕事の緊張の中に、温かいものが通った。
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ヘルマン・フォン・ブレーメンは、礼儀正しい客人だった。
朝食の席では穏やかに天気の話をし、城内の案内では建築の美しさを褒め、誰にでも丁寧に挨拶をした。
そして——城下に出歩くたびに、商人に話しかけていた。
ベルンハルトが報告に来た。
「あの男、城下の雑貨屋と酒場で話を聞いて回っています。ルーン石の産出量と、辺境の経済状況について探っています。さりげなく——ですが」
「さりげなく、ですか」
「はい。世間話のふりをして、核心を突く質問をしている。あれは相当な腕ですよ」
(やはり——情報戦だ)
ルドルフに急報を送っていた返信が届いた。定期便ではなく急使に託したらしく、予想より随分と早い到着だった。
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「エリナ様へ
急を要すると判断し、急使で送りました。
侯爵の提案の詳細が掴めました。表向きの上納金増額に加えて、鉱山収益の一割を侯爵家へ直接還流する裏条件を、王室の一部に持ちかけているようです。国庫への貢献を装いながら、実態は侯爵家の私腹を肥やす仕組みになっています。
また——侯爵は七年前にも、北部の小領主から採掘権を「共同管理」名目で奪いかけた前例があります。そのときは領主が急死したため有耶無耶になりましたが、やり口は今回とほぼ同じです。この先例を示せば、シュテファン殿下の説得材料になります。
さらに、侯爵側の動きを支えている協力者として、ヴァラン商会のペータ・グロスという男が浮上しています。王室の購買担当に顔が利く商人で、情報の橋渡し役を担っている疑いがあります。この名前も殿下への書状に添えることをお勧めします。
侯爵の狙いはルーン石そのものではなく、辺境伯領への影響力拡大です。裏条件なしの透明な提案で上回れば、殿下が侯爵の不透明さを嫌う性格上、こちらに有利に働くはずです。
ルドルフ」
(金貨十二枚——こちらは十五枚で提案済み。数字の面では上回っている)
でも——数字だけでは足りない。政治は、数字と信頼の両方で動く。
夜。カイン様と二人きりの執務室。
机の上に地図と書類を広げた。ランプの灯りが揺れている。
「侯爵の狙いを整理しますわ」
「ああ」
「ルーン石の採掘権を共同管理にすることで、辺境伯領への影響力を得たい。最終的には——辺境伯領自体を、マルテンシュタイン家の勢力圏に取り込みたい」
「俺の領地を——奪いたい、ということか」
「直接的な奪取ではなく、経済的な依存関係を作って支配する方法です。前世で言うところの——」
言いかけて、止めた。前世のビジネス用語は使わない。
「——属国にするような手法です」
カイン様の目が、一瞬だけ鋭くなった。
「させない」
短く、強い言葉だった。
「はい。させません。そのために——三つのことを同時に動かします」
わたくしは書類を指差した。
「一つ目。シュテファン殿下への書状はすでに出しました。こちらの正当性を示す資料を添えて。これが政治面」
「二つ目。国庫への上納金増額。侯爵の提案を上回る金貨十五枚で提示しています。これが経済面」
「三つ目——」
カイン様を見た。
「カイン様の領地を守る軍事力。これが抑止力です。侯爵が政治で動けなくなっても、裏で実力行使をする可能性がある。それを防ぐのが——」
「俺の仕事だ」
頷いた。
「ベルンハルトの鉱山警備隊は——もう動いていますか?」
「昨日から。クレイン村に十五名を配置した。交代制で巡回する」
(この人は——いつも、一手先を読んでいる)
書類を整理しながら、ふと——顔を上げた。
カイン様が、机の向こうからわたくしを見ていた。
「何か?」
「……いや」
「カイン様。今——わたくしの顔を見ていらっしゃいましたよね」
「……仕事の顔をしていた」
「仕事の顔?」
「お前が仕事をしているときの顔は——」
カイン様が、言葉を飲み込んだ。
「何ですか?」
「……何でもない」
(また——何でもない、だ)
でもカイン様の視線がそっと窓の外に逸れたから、何でもなくないことはわかっている。
深夜まで作業を続けた。
カイン様は——最後まで、執務室にいた。書類に目を通しながら。時々、わたくしのペンが止まると——白湯を注ぎ足してくれた。
仕事の相棒。そして——好きな人。
この二つが同じ人であることの幸せを——前世のわたくしは、知らなかった。




