第77話「冬の足音」
第77話「冬の足音」
交易路が雪で閉ざされる前の、最後の荷が届いた。
ルドルフ商会から——冬の間に城下で売るための品物と、美肌薬の材料に使う香草の種。それから、ルドルフの手紙。
「エリナ様へ
冬便はこれが最後になります。春まで陸路は使えませんが、リーベック港経由の海路ルートは冬でも動いています。急ぎの場合はそちらをお使いください。
美肌薬の予約が四十件に達しました。春の第一便で出荷できる量の確保をお願いいたします。
お体にお気をつけて。辺境の冬は厳しいですから。
——あと、辺境伯様にもくれぐれもよろしく。あの方の耳は、きっとまだ赤いでしょう。
ルドルフ」
(この人は——最後の一行に余計なことを書かないと気が済まないのかしら)
でも——ルドルフの手紙は、いつも温かい。商売の話と、わたくしへの気遣いと、少しのからかいが、絶妙な配分で入っている。
城下の人々は忙しかった。
冬支度が始まっている。薪を積み上げ、保存食を確認し、窓に防寒の布を張る。
でも——去年のような不安はない。
「今年は大丈夫だ」「エリナ様がいるから」——そういう信頼が、もう当たり前になっている。
マルタが城下で声をかけてきた。
「エリナ様! うちのお母さんが、美肌薬の試作品を使ったんです。肌がすべすべになったって大喜びで!」
「まだ試作品の段階ですけれど——」
「城下の女の人たち、みんな春の出荷を楽しみにしてますよ!」
マルタの笑顔は——城下の空気そのものだ。この娘が笑っているということは、城下が穏やかだということ。
夕方。城壁の上。
秋の星空が広がっていた。冬が近づくと、星が鋭くなる。一つ一つの光が、針のように尖って見える。
カイン様の隣に立った。手が繋がる。
冷たい空気の中で、手の温もりだけが確かだ。
「カイン様」
「何だ」
「来年の春には——もっとたくさんのことができます。温泉の施設も作りたいし、美肌薬の工房も。交易路の整備も進めたいですし。それから——」
「エリナ」
名前で止められた。
「はい」
「今の話は——明日でもいい。今は——ここにいろ」
言葉を飲み込んだ。
この人は——未来の計画より、今この瞬間を大事にする。
前世のわたくしには、それが一番苦手なことだった。いつも先のことを考えていた。来月の企画書。来期の目標。五年後のキャリアプラン。
今この瞬間に——立ち止まることができなかった。
でも——今はわかる。
隣にいる人の温もりを感じること。星空を見上げること。冷たい風の中で、手を繋いでいること。
それが——何より大切だということ。
「カイン様」
「何だ」
「ここにいます」
「……ああ」
星が——一つ、流れた。
二人とも見ていた。
でも——願い事は言わなかった。
(言う必要がない。もう——叶っているから)
城壁を降りるとき、カイン様がわたくしの手を引いた。階段が暗い。足元が見えにくい。
「気をつけろ」
「はい。カイン様がいれば——大丈夫です」
「……そういうことを、さらっと言うな」
「え?」
「……何でもない」
カイン様の声が——ほんの少し、低くなった。
わたくしの鼓動も——きっと、同じくらい速い。
冬の足音が聞こえている。
でも——隣にこの人がいる。
二度目の冬は——温かい冬になる。
---
クラウス兄様からの手紙が届いた。
冬便の最後に紛れ込んでいた——急ぎの書状だった。封蝋に近衛騎士の印が押されている。
開封した。兄様の角ばった文字が、いつもより硬い筆圧で書かれている。
「エリナ。
王都で辺境伯領のルーン石について、動きがある。
マルテンシュタイン侯爵の一派が、ルーン石の採掘権について王宮に請願を出した。辺境伯領の管轄ではなく、王室直轄の鉱山として管理すべきだという主張だ。
理由は「国益の観点から、希少鉱物の管理は中央で一括すべき」とのこと。もっともらしいが——裏があると俺は見ている。
シュテファン殿下がどう動くかは不明だが、侯爵は国庫への上納金増額を条件に王室の支持を取り付けようとしているらしい。
早めに手を打て。
クラウス」
書状を読み終えて、表情を硬くした。
(来た——)
ルドルフが言っていた。「権力欲の強い人間は黙っていない」と。ルーン石の戦略を三人で話し合ったとき——いつかこういう動きがあると、警告されていた。
(王室直轄にされれば、辺境伯領の管轄権が失われる。ルーン石の売上は辺境の経済を支えている柱だ。これを奪われたら——)
冷静に分析する。前世のわたくしが起動する。
これは経済的な問題であると同時に、政治的な攻撃だ。
すぐにカイン様に報告した。
執務室の机に書状を広げる。カイン様の目が——一瞬だけ鋭くなった。
「マルテンシュタインか」
「ご存知ですか」
「侯爵家の次男が——以前から辺境の鉱山に目をつけていた。夏市にも偵察が来ていたと、ベルンハルトが報告していた」
(やはり——カイン様は気づいていたのね)
この人は、言葉は少ないが——見ている。領主として、常に目を光らせている。
「先手を打てますか」
カイン様がわたくしを見た。
「——お前に考えがあるなら、聞く」
頭が回り始める。前世の危機管理能力が、歯車のように噛み合い始めた。
---
「まず——法的根拠の整理が必要です。ルーン石の鉱山は辺境伯領の地下資源であり、管轄権は辺境伯に正当にある。これを明文化した資料を作ります」
「ああ」
「次に——実績の提示です。計画的な採掘管理、品質管理体制、供給の安定——すべて、わたくしたちが整えた体制です。これを報告書にまとめます。侯爵より我々のほうが適切に管理しているという事実を示すのです」
「それで十分か」
「いいえ。もう一つ必要です。——シュテファン殿下へのお力添えの依頼です」
カイン様が眉を上げた。
「第一王子に——」
「殿下は以前から辺境に好意的です。辺境の経済報告も読んでくださっている。こちらの正当性を示す資料があれば——動いてくださる可能性が高い」
カイン様がしばらく考えた。
「……やれ」
「はい。ただし——資料の準備には数日かかります。ルドルフにも連絡を取って、王都側の情報を集めます」
ルドルフに急報を書いた。
「ルドルフへ。マルテンシュタイン侯爵の動きについて、王都側の情勢を至急お知らせください。侯爵が王室に提示した条件の詳細、王室内部の反応、そして侯爵の弱点があれば——」
ペンが止まった。
(「弱点」——前世のわたくしなら、そう書いただろう。でも——)
書き直した。
「——そして、こちらが提示すべき条件について、ご助言ください」
夜。管理棟の帳簿部屋で、資料を広げた。
ルーン石の採掘量。売上。税収への貢献。品質管理体制。辺境伯領が鉱山を管轄している法的根拠。
一つ一つ、数字と事実で固めていく。
ヨハンナがお茶を持ってきてくれた。
「お嬢様。お顔が——仕事の顔になっておいでです」
「ヨハンナ。辺境のルーン石が、狙われています」
「まあ」
「でも——大丈夫です。守ります」
ヨハンナが微笑んだ。
「お嬢様が『大丈夫です』とおっしゃるときは——本当に大丈夫ですわ」
深夜。資料の骨格ができた。
窓の外が暗い。でも——頭は冴えている。
前世で提案書を徹夜で仕上げた記憶が蘇る。あのときは——誰のためでもなかった。自分の評価のためだった。
今は違う。
(この辺境のために。カイン様のために。ここに暮らす人たちのために——わたくしの力を使う)
守りたいものがある。だから——強くなれる。
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三日間で、資料を仕上げた。
シュテファン殿下への書状。辺境伯領の管轄権の法的根拠。ルーン石の管理体制の報告書。そして——辺境伯領からの自主的な上納金増額の提案。
カイン様に最終確認をお願いした。
執務室の机に資料を広げる。
「法的根拠の整理です。辺境伯領の地下資源は、建国時の勅令により辺境伯の管轄と定められています。マルテンシュタイン侯爵の請願には——法的な根拠がありません」
「ああ」
「管理体制の報告書です。採掘量の計画的制御、等級別の品質管理、辺境ブランドとしての販売体制——すべて記載しました。これは侯爵にはできない管理です」
カイン様が報告書に目を通した。ページをめくるたびに——ほんの少しだけ、頷いている。
「そして——上納金の増額提案です。ルーン石の今期の売上から試算して、現行の上納金に加えて、年間金貨十五枚を自主的に上納します。侯爵が王室に示した条件を上回る数字です」
「出せるのか」
「ルーン石の売上と保存食の輸出益を合わせれば——出せます。辺境の財政は、もう赤字ではありませんから」
カイン様の口元が、ほんのわずかに緩んだ。
「お前がいなければ——この計算はできなかった」
「カイン様がいなければ——この辺境は守れませんでした」
目が合った。
仕事の中で——こうやって目が合う瞬間。
(この瞬間が——一番好きだ)
カイン様が立ち上がった。
「軍事面は俺がやる。ベルンハルトにクレイン村の鉱山警備を強化させる。偵察が来ていたなら——実力行使の可能性もある」
「武力で来ますか?」
「マルテンシュタインは——そういう家だ。表では政治を使い、裏では力を使う。両方に備える」
政治交渉はわたくし。軍事はカイン様。
ルーン石の戦略会議で決めた役割分担が——今、現実の脅威に対して機能している。
午後。マルタが城下の噂を持ってきた。
「エリナ様。侯爵家の使者が先月、城下に来ていたらしいですよ。旅商人のふりをして」
「先月?」
「はい。ゲルツ親方が後から思い出したって。クレイン村にも立ち寄って、鉱山の入り口を見ていた人がいたって」
(夏市のあの商人たちの中に——偵察がいたのね)
ルドルフが連れてきた他領商人たちの中に、フォルカーやヴォルフがいた。あの中に紛れていたのか——それとも、別の機会か。
いずれにせよ——相手は準備していた。こちらも、遅れは取れない。
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ルドルフからの返信が届いた。
「エリナ様へ
マルテンシュタイン侯爵の動きについて報告します。
侯爵は国庫への上納金を年間金貨十二枚増額する条件で、王室の支持を取り付けようとしています。ただし——王室内部では、シュテファン殿下が慎重姿勢をとっており、侯爵の提案はまだ承認されていません。
こちらがそれ以上の条件を提示できれば、政治的には有利です。
また——侯爵の本当の狙いはルーン石そのものではなく、辺境伯領への影響力拡大だとあたしは見ています。婚姻提案も、鉱山の共同管理要求も、すべて同じ方向を向いています。
ルドルフ」
(金貨十二枚——こちらは十五枚で上回れる)
数字の勝負なら、負けない。辺境の経済は、わたくしが育てた。
夜。シュテファン殿下への書状を清書した。
カイン様の名義で——でも、内容はわたくしが書いた。
「辺境伯領より、第一王子シュテファン殿下へ。
ルーン石鉱山の管轄権について、辺境伯領の立場を正式にご報告申し上げます。
添付の法的根拠、管理体制報告書、および自主上納金の増額提案をご査収ください。
辺境伯領は、この地の資源を適切に管理し、王国の利益に資する体制を構築しております。今後もその責務を果たしてまいります。
グラフ辺境伯 カイン・フォン・ドラクロワ」
カイン様が署名した。力強い筆跡。
「——出せ」
「はい。明朝、リーベック経由の海路便で」
書状を封じて、蝋封にグラフ辺境伯の紋章を押した。
山と河の紋章。この土地の象徴。
カイン様がわたくしの管理棟に残っていた。もう——夜が更けている。
「心配するな」
「心配は——していません。でも、備えは必要です」
「ああ。だから——お前が考えろ。俺は守る」
シンプルで、力強い言葉。
この人は——いつもそうだ。複雑なことを言わない。やるべきことを、まっすぐに言う。
「カイン様」
「何だ」
「わたくしたちで——守りましょう。この辺境を」
「……ああ」
カイン様が立ち上がって、扉に向かった。
「食ったか」
「……まだです」
「厨房にパンがある。食ってから寝ろ」
「カイン様——」
「持ってくる」
扉が閉まった。
足音が廊下を遠ざかる。厨房に向かっている。
(また——パンを持ってきてくれる)
窓の外で、秋の最後の風が吹いている。
窓辺の鉢植えを見た。
三輪の花が静かに咲いている。一輪目はもう盛りを過ぎて、花びらの端が少し褪せてきている。でも二輪目と三輪目はまだ力強い。
そして——四つ目の蕾が、明らかに大きくなっていた。花びらの白い色が、がくの隙間から覗いている。
(もうすぐ——咲く)
四輪目の花が開くとき——わたくしたちは、きっとまだここにいる。
この城壁の上で。この辺境で。手を繋いで。
足音が戻ってきた。
扉が開いた。
カイン様が——パンを一つ、手に持っていた。
「食え」
「ありがとうございます」
パンを受け取った。蜂蜜パンだった。ゾフィが焼いたもの。
一口食べた。甘い。
カイン様が扉口に立ったまま、わたくしが食べるのを見ていた。
全部食べ終わるまで——そこにいた。
「食ったな」
「食べました」
「寝ろ」
「……はい」
カイン様が出ていった。
廊下の足音が遠ざかる。
——止まった。一瞬だけ。
そして——また、歩き出した。
(この人は——こうやって守る。剣ではなく、パンで。命令ではなく、足音で)
わたくしも——守る。数字と言葉と、この頭で。
守るべきものが、同じだから。




