第75話「辺境の繁栄」
第75話「辺境の繁栄」
秋の収穫が、ピークを迎えていた。
温室からの野菜、露地の穀物、ミルト村の燻製魚、クレイン村のルーン石——辺境のすべての産業が、軌道に乗っている。
カイン様と一緒に、各村を巡回することになった。
馬で並んで走る。一年前は馬の上でぎこちなかったわたくしも、今ではそれなりに乗りこなせるようになっていた。
最初に訪れたのは、フィア村だ。
金色の麦畑が広がっている。一年前は痩せた土だった場所が——今は、風に揺れる穂波で埋まっていた。
ザウアー翁が、畑の端で待っていてくれた。
「エリナ様。あんたが来てからこの辺境は変わった。もう、冬が怖くない」
「ザウアー翁のご尽力あってのことですわ」
「ははは。あんたはいつもそう言う。でもな——」
翁が畑を指した。
「この麦を見てくれ。輪作の効果が出ている。土が生き返ったんだ」
次に、ミルト村。
大河のほとりに、燻製の煙が上がっている。ガルスが日焼けした顔で迎えてくれた。
「今年の燻製は過去最高だ。全部あんたのおかげだ」
「ガルスの腕が上がったからですわ」
「嬢さんに褒められると照れちまうな。——辺境伯も、お元気そうで」
カイン様が小さく頷いた。ガルスがにやりと笑った。
(前世の上司に聞かせてやりたいわ。「お前の企画書は数字が甘い」って言われたけど——ここの数字は、嘘じゃないのよ)
——いえ、それはもういいの。あの人生は終わった。今の人生を生きている。
クレイン村では、ゲルツ親方が坑道の入り口で待っていた。
「嬢さん! 温泉の湧出量が安定してきた。南の坑道から引いたパイプの設計、あれは見事だったよ」
「親方がすぐに実行してくださったからですわ」
「ふん。俺はただ穴を掘っただけだ。——辺境伯、嬢さんの石頭には勝てませんよ。いい意味で」
カイン様が——ほんの少しだけ、口元を緩めた。
三つの村を回って、馬を並べて帰路についた。
秋の午後の空が高い。金色の畑が左右に広がって、遠くに山が見えている。紅葉が始まった山肌が、午後の日差しに輝いていた。
「……きれいだな」
カイン様が、呟いた。
わたくしも同じことを思っていた。この景色が——一年前は荒地だった。今は、実りの大地に変わっている。
「ええ。本当に——美しいですわ」
ふと——気づいた。
カイン様の視線が、畑ではなく——わたくしの横顔に向いていた。
「か、カイン様?」
「何だ」
「今——どちらを見ていらっしゃいましたか?」
「……前を見ていた」
「前は——畑ですわ」
「……ああ」
カイン様が、ふっと黙った。沈黙が——少しだけ長い。
わたくしも——何も言えなかった。
馬の歩調に揺られながら、秋の風が二人の間を通り抜けた。
金色の畑。紅葉の山。高い空。
一年前、馬車の窓から見た荒涼とした風景が——こんなに豊かになった。
(この人と——一緒に作った景色だ)
そう思うと——胸の奥が、じわりと温かくなった。
手綱を握る手に、少しだけ力を込めた。
隣を走るカイン様の手も——同じくらいの強さで、手綱を握っていた。
---
アルフレート・フォン・ルヴェンタール——第二王子。
その名前に、かつてついていた形容詞がある。「聡明なる」「将来を嘱望された」「王国の希望」。
今——廊下を歩くとき、聞こえるのは別の言葉だった。
「聖女は偽物だったそうですわね」
「第二王子は——騙されていたの? それとも——知っていて黙認していたの?」
「あの方、最近はどこにもお顔を出されませんわ」
知らなかった。
本当に——知らなかった。メリアが聖女でないことを。
あの光が偽物だったことを。衣服の裏地に聖光石を塗り込んで、自分の光属性魔法を増幅して見せていたことを。
でも——それが言い訳にならないことは、わかっている。
「お前の目は——何を見ていたのだ」
兄のあの言葉が、耳の奥で何度も繰り返される。
執務室の机に座った。
書類が積まれている。外交文書。予算報告。軍備の査察記録。
どれも——以前なら、すぐに目を通せた。今は——文字が頭に入らない。
クラウス・フォン・ヴァルトシュタインから、書状が届いていた。
開封する。近衛騎士の角ばった文字が並んでいる。
「殿下。
わたしの妹は辺境で幸せに暮らしています。
殿下がそれを知る必要があるかどうかはわかりませんが——事実として、お伝えします。
クラウス・フォン・ヴァルトシュタイン」
書状を——握りしめた。
(エリナが——幸せだと? 俺が追い出した女が?)
怒りが湧いた。何に対する怒りなのか、自分でもわからない。
——いや、わかっている。
この怒りは——自分自身に向いている。
(なぜ怒っている。俺がそうしたのに。俺がそう決めたのに)
婚約破棄を宣言したのは、俺だ。舞踏会の場で、衆人環視の中で——「お前との婚約を破棄する」と言ったのは。
エリナは——あの夜、「ありがとうございます」と微笑んで去った。
あの笑顔の意味を、あの時は理解できなかった。
シュテファンの言葉が蘇る。
「お前の目は——何を見ていたのだ」
窓の外を見た。
夕暮れの王都。塔の先端が、秋の夕日に染まっている。
かつてこの窓からは未来が見えた。王国の将来。自分の役割。メリアという聖女と共に歩む道。
今は——何も見えない。
辺境。
あの北の果ての、雪と岩の地。報告書で読んだことがある。税収は低く、人口は減り続けている——はずだった。
だがシュテファンの話では——今、辺境は変わっている。税収は三倍。人口は一割増。餓死者・凍死者ゼロ。温室農業。燻製の出荷。ルーン石の鉱脈。
すべて——エリナが、やったことだと。
(あの女に——そんな力があったのか)
いや——力はあったのだ。最初から。
俺が見なかっただけだ。
机の引き出しを——無意識に開けた。
奥に、一枚の布が畳まれている。
刺繍入りのハンカチ。白地に青い小花の刺繍。エリナの刺繍だ。
婚約時代に、贈られたもの。
捨てられなかった。
なぜ捨てなかったのか——自分でもわからない。
「……エリナ」
口にした名前の味が、苦い。
この名前を——いつから呼ばなくなっていたのだろう。いつから「あの女」と呼ぶようになったのだろう。
窓の外が暗くなっていく。
秋の王都は、日が短い。
夕日が沈む方角は——西。辺境がある方角。
アルフレートは、しばらくその方角を見つめていた。
やがて——カーテンを閉めた。
手の中のハンカチを、引き出しに戻した。
今度は——奥ではなく、手前に置いた。
---
思いついたのは、朝のお茶の時間だった。
カイン様が向かい合って白湯を飲んでいる。窓の外に、秋の日差しが差し込んでいる。
「カイン様」
「何だ」
「城の皆さんで——お茶会を開きたいのですが」
カイン様の眉が、ほんの少し動いた。
「お茶会」
「はい。使用人の皆さんを集めて、ゾフィの新作菓子を囲んで。日頃のご苦労を労う——ささやかなものですけれど」
「……好きにしろ」
(翻訳:いい考えだ。やれ)
もう一年以上付き合っている。この人の「好きにしろ」の温度差は、完全に聞き分けられるようになった。
三日後。管理棟の広間に、テーブルを並べた。
ゾフィが腕を振るった新作菓子が並んでいる。蜂蜜とクルミのタルト。リンゴの焼き菓子。秋の木の実を散らしたバター焼き。
ウルズラが城下から秋の花束を持ってきてくれた。黄色と橙色の花が、テーブルの中央に飾られている。
ルーカスが張り切っていた。
「僕もお茶を淹れます!」
ヨハンナが微笑んで見守る中、ルーカスが一生懸命にお茶を淹れた。
——少し、こぼした。
「す、すみません!」
「大丈夫よ、ルーカス。わたくしも最初はこぼしたものですわ」
「本当ですか!?」
「前の人生では——ええ、本当よ」
ハンスが帳簿を抱えたまま参加した。
ゾフィが彼の手から帳簿を取り上げた。
「今日は仕事禁止!」
「しかし、月末の集計が——」
「月末は明日も来ます」
ハンスが諦めて椅子に座った。ゾフィが勝ち誇った顔でリンゴの焼き菓子を差し出す。
フリッツが紅茶を一口飲んで、静かに言った。
「こうして城の者が一堂に会するのは——先代がお元気だった頃以来ですな」
「そうなのですか」
「ええ。リーゼロッテ様が——よく、お茶会を開いておられた。庭の花を飾って、手作りの菓子を出して」
(カイン様のお母様も——同じことをしていたのね)
不思議な縁を感じた。わたくしが思いつきでやったことが、この城の古い記憶と繋がっている。
ディートリヒが窓辺に立って、控えめにお茶を飲んでいた。ベルンハルトが隣で何か冗談を言っている。レムケが笑っている。
クルトが、厨房から自分で焼いた黒パンを持ってきた。「ゾフィの菓子もいいが、パンも食え」と言いながら。
遅れて——カイン様が現れた。
広間の入り口で立ち止まる。中の賑やかさを見て——少し、たじろいだように見えた。
「……何の集まりだ」
「秋のお茶会です。カイン様もどうぞ」
「俺はそういうのは——」
ルーカスが、満面の笑みでカップを差し出した。
「カイン様の分も淹れました!」
白湯だった。ルーカスは、カイン様が白湯しか飲まないことを知っている。
カイン様がルーカスを見た。
「……もらおう」
端の椅子に座った。一番人から離れた席だ。
わたくしが——隣に座った。
カイン様は何も言わなかったが——体の力が、少し抜けたように見えた。
フリッツが辺境の古い歌を口ずさんだ。コンラートが弦楽器で合わせる。マルクスが笛で参加した。
小さな音楽が、広間に流れた。
(一年前、ここにこの笑い声はなかった)
寡黙な城だった。必要最低限の会話しかない場所だった。
今——笑い声と、音楽と、菓子の甘い匂いが満ちている。
カイン様が白湯を飲んでいる。膝の上に手を置いて、静かに周囲を見ている。
不器用な人だ。こういう場所では——何を話していいかわからなくなる人。
でも——ここにいてくれる。ルーカスのお茶を受け取ってくれる。端の椅子に座ってくれる。
それだけで——十分だ。
ゾフィがカイン様の前にリンゴの焼き菓子を置いた。
「辺境伯様。これ、新作です。感想を聞かせてください」
カイン様が一口食べた。
「……うまい」
「本当ですか!? ありがとうございます!」
ゾフィが嬉しそうに戻っていった。
わたくしが小さく笑った。
「カイン様。今——楽しんでいらっしゃいますか?」
「……わからない」
「わからない?」
「こういうのは——慣れていない」
「でも、いらしてくださいましたわ」
「……ルーカスが淹れたと言うから」
それはルーカスのためだけではないと——わたくしは知っている。
でも——言わない。この人は、そういう人だから。
お茶会が終わって、片付けを手伝っていたら——ヨハンナが近づいてきた。
「お嬢様」
「何かしら、ヨハンナ」
「お茶会で——辺境伯様が笑っておられましたよ」
「え?」
「口元だけですが。ゾフィが菓子の感想を聞いたとき——ほんの少しだけ、口の端が上がっておりました」
カイン様の笑顔は——まだ、数えるほどしか見ていない。
春祭りのダンスのとき。夏市の二曲目のとき。そして——今日。
(もっと——見たい)
そう思った自分に気づいて——少しだけ、頬が熱くなった。




