第73話「百日の重み」
第73話「百日の重み」
管理棟の窓辺で、帳簿を広げた。
最初の頃のものから、今のものまで。一年分の帳簿が、机の上に並んでいる。
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数字が物語っている。
秋までの税収は前年同期比で三倍。人口は一割を超えて増えた。餓死者——ゼロ。凍死者——ゼロ。城下の商店は二倍に増えた。
温室農業。保存食の域外出荷。燻製サーモン。ルーン石の段階的市場投入。辺境ブランドの確立。
一つ一つの数字に——顔がある。
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フリッツが朝の挨拶で微笑むようになった。一年前は——計量するような目でわたくしを見ていた人だ。
ゾフィの料理の幅が広がった。根菜スープだけだったのが、温室の野菜を使った色とりどりの料理になった。
ルーカスが文字を書けるようになった。最初はペンの持ち方もわからなかった少年が、今では手紙が書ける。
ディートリヒが冗談を言うようになった。あの生真面目な副官が——カイン様の前で、さりげなく笑いを取る。
ハンスが帳簿の新しい様式を自分から提案してきた。あの最初の上から見る視線は、もうない。
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そして——カイン様が「好きだ」と言った。
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(一年前のわたくしに、今のこの状況を教えたら——信じるかしら)
婚約破棄されて、辺境に飛ばされて、城に着いたら寡黙な辺境伯に「来たか」の一言で迎えられて。
あの日のわたくしは——それでも、やれると思った。帳簿を見せろ、と言った。
それが全ての始まりだった。
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前世のわたくしにも、教えてあげたい。
深夜の職場で、疲れた目で画面を見ていたあの日の自分に。
(大丈夫。今度の人生は、ちゃんと生きているよ)
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ヨハンナが入ってきた。
「お嬢様、帳簿の整理ですか」
「ええ。一年分を見返していたら——こんなに変わったのかと、自分でも驚いて」
ヨハンナが机の上の帳簿を見た。最初の一冊——わたくしが費目を八項目に組み直した、あの白紙も挟まっている。
「覚えております。あの日、お嬢様がこの白紙にペンを走らせていたとき——カイン様が通りかかって、お茶を置いていかれましたね」
「ああ——あの大きな器の」
「はい。城の備品でした。カイン様ご自身が淹れたのだと、あとで厨房のクルトが申しておりました」
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(カイン様が——あの日、自分でお茶を淹れていた)
一年前から。もう、あの頃から——この人は、行動で示していたのだ。
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夕方。城壁の上で、カイン様と並んで立った。
秋の空が高い。紅葉の山が夕日に染まっている。城下からは子供の声が聞こえる。
「カイン様」
「何だ」
「ここに来て——よかったです。本当に」
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カイン様は黙っていた。
でも——手が、わたくしの手を探した。指先が触れて——握った。
言葉を探しているのがわかった。いつものように。この人は——言葉を出すのに、時間がかかる。
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「俺も——お前が来てよかった」
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それは——この人の口から聞いた中で、一番長い感情の言葉だった。
「好きだ」は告白だった。「知っている」は確認だった。「悪くない」は最上級の褒め言葉だった。
でも「お前が来てよかった」は——この一年間の全てを、九文字に込めた言葉だった。
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涙は出なかった。
代わりに——手を強く握り返した。
秋の風が吹いた。冷たかったが——手は温かかった。
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城壁から降りて、自室に戻った。
窓辺の鉢植えを見た。
三輪の白い花が、月明かりの中で静かに咲いている。一輪目は少し色が変わり始めている——花の盛りを過ぎようとしているのかもしれない。でも二輪目はまだ力強く、三輪目は咲いたばかりだ。
そして——根元のあたりに、四つ目の蕾が小さく膨らんでいた。
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(まだ咲く。まだ——伸びていく)
この花は——泥の中にいた小さな芽だった。
今は——三輪の花を咲かせている。根は鉢の底まで届いて、茎はまっすぐに伸びて、光に向かって育ち続けている。
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わたくしも——同じだ。
婚約破棄された令嬢。泥の中に放り出された芽。
でも——光を受けた。根を張った。花を咲かせた。
この先も——咲き続ける。
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机の上に、一年分の帳簿が並んでいる。
明日からは——次の一年の、最初のページを開く。




