第72話「温泉と新しい道」
第72話「温泉と新しい道」
ゲルツ親方がクレイン村の鉱山から駆けつけてきたのは、秋も深まったある朝のことだった。
「嬢さん! ちょっと来てくれ。南の坑道で面白いもんが出た」
ゲルツ親方の「面白いもん」は、過去の実績から考えると——大鉱脈か、魔物か、どちらかだ。
「面白いものとは」
「温水だ。坑道の南側の壁から、温かい水が染み出してきた。硫黄の匂いがする」
わたくしの目が——光った。
(温泉だ)
翌日、クレイン村を訪れた。
南の坑道の壁から、確かに温かい水が滲み出していた。指先で触れると——ぬるい湯だった。微かに硫黄の匂い。肌触りが柔らかくて、指先がすべすべする。
「親方、この水——いつから出ていますか」
「三日前だ。最初は染みだと思って放っておいたが——量が増えてきた。よく見たら温かいんで、おかしいなと」
わたくしは坑道の壁に手を当てた。土属性の感覚を集中する。
壁の奥に——温かい水脈がある。地下深くから、ルーン石の鉱脈に沿って上がってきている。鉱物を含んだ温水が、岩盤の隙間を通って地上近くまで来ていた。
「親方。これは——鉱山の水ではありません。天然の温泉水です」
(前世の温泉旅行の記憶が蘇ってくる。山の湯。海辺の湯。古い街の湯。あの温泉の匂い。肌がつるつるになる湯)
いやいや、今は前世の旅行を懐かしがっている場合ではない。
問題は——この湯の活用方法だ。
温水を器に汲んで、城に持ち帰った。
帳簿部屋で調べ物をしながら、考えた。
温泉水の活用。入浴施設——はすぐには難しい。設備と人手がかかる。
でも——温泉水に含まれる鉱物を利用した美肌の薬。
この世界では「美肌薬」と呼ぶべきか。温泉水を濾過して、香草を加えて——化粧水のようなものを作れるかもしれない。
辺境の女性向け商品として。ルーン石に次ぐ特産品として。
ゾフィに相談した。
「この水で——肌によいものが作れないかと思っているのですが」
ゾフィが温水を手に取って、匂いを嗅いだ。指先で肌に塗ってみた。
「……すべすべしますね。これは——薬草と合わせたら、いいものができるかもしれません」
「ゾフィなら、どの薬草を使いますか」
「カモミールと、ラベンダーと——あと、この辺りに生えるヴァイスクラウト。肌荒れに効くんです。城下の女性たちも使っていますよ」
カイン様に相談した。
「温泉を活用した保養施設と、美肌薬の開発を考えています。ルーン石、保存食に次ぐ辺境の第三の特産品になりうると思います」
カイン様が白湯を一口飲んだ。
「好きにしろ」
「その言い方——賛成と受け取ってよろしいですか?」
「……ああ」
(この人の「好きにしろ」は「お前なら大丈夫だ」の翻訳。もう一年以上付き合っていて、わかっている)
ルドルフへの手紙に、新しい計画を書き添えた。
「辺境ブランドの第三の柱として、温泉水を利用した美肌薬の開発を構想しています。詳細は次便でお送りしますが、まずは市場調査として——王都の女性向け化粧品の流通状況を教えていただけますか」
ルドルフの返信が楽しみだ。おそらく——目を輝かせて、五ページくらいの分析レポートを送ってくるだろう。
夕方、城壁の上で。
「カイン様」
「何だ」
「辺境が——もっと豊かになります。温泉水の商品が軌道に乗れば、城下にさらに人が集まります。保養施設ができれば、他領からの訪問者も増えます」
「……ああ」
「そうすると——交易路の整備が、もっと重要になりますわね」
カイン様が頷いた。
「エリナ」
「はい」
「お前は——休まないのか」
「え?」
「新しいことを考えるのは構わない。だが——息をつく時間も必要だ」
わたくしは少し考えて——笑った。
「今がその時間ですわ。カイン様と、ここにいる時間が」
カイン様の手が——少し、温かくなった気がした。
秋の空に、新しい道が見えている。
ルーン石。保存食。そして——温泉。
辺境は変わり続けている。わたくしも——変わり続けている。




