第70話「彼が守りたかったもの」
第70話「彼が守りたかったもの」
告白のあと。
俺の日常が、少しだけ変わった。
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朝。
エリナが来る前に、お茶の準備を確認する。白湯の温度。パン菓子の数。テーブルの上に書類が散らかっていないか。窓辺の花の水が切れていないか。
以前からやっていた。ただ、以前は——城主としての義務だと思っていた。客人が不自由しないように。それが当然のことだと。
今は——違う。
この女が笑顔で「おはようございます」と言う。その声を聞くために、準備をしている。
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守りたい。
その言葉の意味が、一年で変わった。
以前の「守る」は——剣で敵を倒すことだった。
父がそうしていた。母がそうしていた。領地を守る。民を守る。それが領主の仕事だと。
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今の「守る」は——朝のお茶が冷めないようにすること。
帳簿の仕事で疲れた顔をしていたら、パンを持っていくこと。
夜の城壁で風が冷たくなったら、自分の外套をかけること。
——いや、それは何度もやった。あの女はいつも「大丈夫です」と言うが、大丈夫ではない。頬が赤いのは風邪の兆候だ。
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ルドルフが言っていた。
「カイン様、あなたの溺愛は目に見えますよ」
溺愛。その言葉は好きではない。
俺がしているのは——当然のことだ。
本当に?
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クラウスが来た。
エリナの兄。近衛騎士。まっすぐな目をした男だった。
「妹をどう思っている」——単刀直入に聞いてきた。
「大切な人間だ」と答えた。
「それだけか?」——兄の目が、鋭くなった。
「それ以上のことは——本人に伝えた」
自分でも驚いた。こんな言葉が出るとは。
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クラウスがいた三日間。
あの男の横で笑うエリナを見た。
知らない笑い方だった。
俺の前では見せたことのない——肩の力が抜けて、声が高くなって、子供のように笑う顔。兄にだけ見せる顔。
胸の中で、名前のつけようのない感情が動いた。
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嫉妬だ。
あれは嫉妬だった。認めるのに三日かかった。
俺が知らないエリナの顔がある。兄にだけ見せる顔。王都の友人にだけ見せる顔。前世にだけある記憶。
全部を知りたい。
でも——全部を知る必要はない。
この女が笑っていれば——それでいい。
それが嘘じゃないことを、俺は知っている。
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クラウスが帰った後、エリナが言った。
「兄といるときの笑い方と、カイン様といるときの笑い方は違いますわ」
「……」
「今のわたくしの笑い方です。ここで見つけた、新しい笑い方」
——ああ。
この女は、いつもこうだ。俺が言葉にできないことを、先に言葉にしてくれる。
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夜。
執務室の窓から、管理棟のエリナの灯りを見ている。
まだ消えていない。
時刻は——子の刻を過ぎている。
「……また遅くまで働いている」
ため息をついた。何度言っても聞かない。「大丈夫です」と笑う。前世と同じだと、自分で言っていたのに——直らない。
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厨房に行った。
パンが一つ残っていた。昼に焼いたゾフィの蜂蜜パン。布に包んだ。
廊下を歩く。管理棟の扉の前で——少し、立ち止まった。
ノックした。
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「はい——あ、カイン様」
扉を開けたエリナの目が、驚いて丸くなった。手にはまだ羽根ペンを持っている。
「……これを」
パンを差し出した。
「ヨハンナに頼まれた」
嘘だ。ヨハンナには何も頼まれていない。
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エリナが——少し笑った。
「ヨハンナは、今日はもう休んでおりますわ」
「……そうか」
「カイン様が——持ってきてくださったのですね」
「…………」
「ありがとうございます」
あの笑顔だ。俺だけに見せる笑顔——ではないかもしれない。でも、今この瞬間、この灯りの下で向けられている笑顔は——俺のものだ。
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「食ったら寝ろ」
「はい。もう少しだけ——」
「今すぐだ」
「……はい」
エリナが笑いながら羽根ペンを置いた。
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廊下に戻った。
足音が自分のものだけになる。
振り返りたい衝動を——堪えた。振り返ったら、また何か言ってしまいそうだ。
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自室に戻って、窓の外を見た。
管理棟の灯りが——消えた。
「……よし」
小さく、呟いた。
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守る。
剣で守ることは——いずれ必要になるかもしれない。外から来る敵に対して。
でも今は——パンを持っていくことが、俺にとっての「守る」だ。
灯りが消えたことを確認することが。
朝のお茶の温度を確かめることが。
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あの女を——守りたい。
その気持ちは、剣を握るときより——ずっと強い。




