第69話「彼が見ていた景色」
第69話「彼が見ていた景色」
カイン・フォン・ドラクロワは、言葉を信じない男だった。
言葉は嘘をつく。
父が国境の紛争で倒れたとき、「ご無事でした」と最初に報告に来た兵士は嘘つきだった。数刻後に、二人目の伝令が真実を持ってきた。
母が倒れたとき、「治ります」と言った侍医は嘘つきだった。三ヶ月後に、母は息を引き取った。
言葉は空気より軽い。だから——行動で示す。
それが、俺の信条だった。
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あの女が来た日のことを、覚えている。
秋の終わり。空気が冷たくて、城門の石が白く凍っていた朝だった。
馬車から降りてきた令嬢は——思ったより小さかった。
銀灰色の髪。紫紺の目。頬が寒さで少し赤くなっている。華奢な体。王都の公爵家の令嬢が、こんな辺境に。
「よろしくお願いいたします、辺境伯様」
声が——震えていなかった。
それが、最初に気づいたことだ。
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王都の令嬢が辺境に来る。普通なら泣く。嘆く。すぐに帰りたいと言う。
この女は——帳簿を見せろと言った。
帳簿を、だ。
面白い女だ。そう思った。それだけだった。
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いつからか——「面白い」が「気になる」に変わった。
帳簿の数字を組み直して、ハンスを黙らせた日。食料備蓄を計算して、冬越しの道筋を示した日。保存食の生産を始めて、城下の女たちと一緒に手を動かしていた日。
気づくと——目で追っていた。管理棟の窓から。廊下で。城壁の上から。
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冬の夜。
机で居眠りしていた女に、マントをかけた。体が勝手に動いた。考えてやったことではない。
起きたらまずいと思って、足音を殺して部屋を出た。廊下で自分の手を見た。何をしたのかわからなかった。
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春祭り。
ダンスを申し込んだのは——理由がない。気づいたら手を差し出していた。
「一曲だけだ」と言ったのは——あれ以上踊ったら、手を離せなくなると思ったからだ。
一曲目が終わったとき。あの女が笑って「ありがとうございます」と言った。あの笑顔が——眩しかった。
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「エリナ」と、名前で呼んだとき。
あの瞬間——俺の中で何かが変わった。
名前を口にした途端、その音が胸の奥に落ちて、そこに住み着いた。以来、ずっとそこにある。
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鉱山が崩れた日。
あの女が岩壁に手を当てて、金色の光を放った。六人の命を救った。そして——倒れた。
支えた。腕の中は軽かった。こんなに軽い体で、こんなに大きなことをする。
名前を呼んだ。「しっかりしろ。エリナ」。声が——自分のものではないように聞こえた。
城まで運んだ。ディートリヒが「自分が運びます」と言った。渡さなかった。渡すつもりはなかった。
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廊下で椅子に座って、一晩中待った。
扉の向こうで、あの女が目を覚ますのを。
何も考えられなかった。ただ——あの灯りが消えたら、俺は。
あのときに——わかった。
この女がいなくなったら、俺にはもう、何もない。
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城壁の夕焼けの中で、「好きだ」と言った。
一生で一番難しい言葉だった。
剣を振るう方が楽だ。岩蜥蜴と戦う方が楽だ。嵐の中で城を守る方が楽だ。
目の前に立っている女に、「好きだ」と言うことの方が——何倍も、怖かった。
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言えた。
言えてよかった。
あの目が涙で濡れた瞬間。手を握り返してくれた瞬間。
あれが——俺の人生で、一番美しいものだった。
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今——朝のお茶の時間が来るのを、待っている。
あの女が管理棟の扉を開けて入ってくる。「おはようございます、カイン様」と言う。いつもの声で。いつもの笑顔で。
それだけのことが——こんなにも、待ち遠しい。
言葉は信じない。行動で示す。その信条は——今も変わっていない。
ただ。
あの女に言った「好きだ」だけは——俺が口にした中で、一番正直な言葉だった。
——だが、まだ言えていないことがある。この城のこと。母のこと。あの女が知らない、俺の過去を。




