第63話「翌朝」
第63話「翌朝」
昨夜のことが——夢ではないかと思った。
目が覚めたとき、まず天井を見た。いつもの天井だ。石の天井に、朝日が薄く差し込んでいる。
起き上がった。
手のひらを見た。
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まだ——温もりが、残っている気がした。
カイン様の大きな手。震えていた手。握り返してくれた手。
「好きだ」と言った声。低くて、途切れ途切れで、不器用で——嘘のない声。
夢ではなかった。
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窓辺を見た。
鉢植えの三つ目の蕾が——開いていた。
昨夜はまだ閉じていたのに。朝の光の中で、小さな白い花びらが、そっと開き始めている。一輪目、二輪目より少し小さいけれど——確かに、三輪目。
「……おはようございます」
声に出して、花に言った。昨日もそうした。明日もそうするだろう。
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身支度を整えて、鏡の前に立った。
いつもの自分の顔。淡い銀灰色の髪。紫紺の目。
でも——頬の色が、いつもより明るい気がした。
ヨハンナが入ってきた。
「おはようございます、お嬢様」
「おはようございます、ヨハンナ」
ヨハンナがわたくしの顔をひと目見て——何も言わずに、微笑んだ。
全部、わかっている顔だった。
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管理棟に向かう廊下を歩いた。
足取りが——少し、軽い。自分でもわかった。
フリッツとすれ違った。
「おはようございます、エリナ様」
「おはようございます、フリッツ」
フリッツが——いつもより深く、頭を下げた気がした。
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管理棟の扉を開けた。
いつもの席。いつものテーブル。白湯と、パン菓子。
カイン様が——先に座っていた。
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目が合った。
一秒の沈黙。
カイン様の耳が——ほんの僅かに、赤かった。
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「……おはよう」
その声が——昨日までとは、違った。
同じ「おはよう」なのに。同じ低い声なのに。
柔らかかった。
(この人の声に——こんな温度があったのだ)
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「おはようございます、カイン様」
わたくしは椅子を引いて座った。いつもの位置。いつもの距離。
何も変わっていない——はずだった。
でも空気が違う。テーブルの木目も、窓から差す光も、白湯の湯気も——全部、昨日と同じなのに、全部が少しだけ、温度を持って見えた。
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お茶の時間の間、二人とも仕事の話をした。
秋の収穫の帳簿。ルドルフへの出荷計画。フィア村の輪作成果の報告。クレイン村鉱山のルーン石採掘量の管理。
いつもと同じだ。
でも——カイン様の視線が、書類から時々、わたくしの方に流れた。
目が合うと——すぐに書類に戻す。
わたくしも——同じことをしていた。帳簿を見ているふりをして、カイン様の横顔を盗み見ている。目が合いそうになると、慌てて数字に目を落とす。
(何をやっているの、わたくしたち)
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「収穫量の見積もりですが——」
「ああ」
「フィア村の秋麦が予想より二割ほど多くなりそうです。輪作の効果が出始めて——」
「そうか」
カイン様の返事が——一拍、遅い。普段なら即座に「それで」と次を促すのに、今日は「そうか」のあとに少し間があった。
(この人も——集中できていないのだわ)
おかしくて。嬉しくて。
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お茶が終わって、カイン様が立ち上がった。
外套を取って、扉に向かう。いつもの動きだ。
扉に手をかけたところで——振り返った。
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「エリナ」
「はい」
心臓が跳ねた。名前を呼ばれるだけで——もう、慣れることはないのだと思った。
「……今日も、あの場所で」
「ええ」
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扉が閉まった。
足音が遠ざかっていく。
わたくしは一人になった部屋で、白湯のカップを両手で包んだ。もう冷めているのに——温かい気がした。
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(わたくし——幸せだわ)
前世では知らなかった感情だ。
前世で「幸せ」と思ったことが、なかったわけではない。仕事がうまくいったとき。後輩に「先輩のおかげです」と言われたとき。それは嬉しかった。
でも——こういう幸せは、知らなかった。
誰かの声が柔らかくなっただけで。名前を呼ばれただけで。「今日も」と言われただけで。
胸の奥が温かくなる——こういう幸せは。
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しばらくして、ディートリヒがお茶の片付けに来た。
テーブルを見て、少し目を細めた。
「エリナ様」
「はい」
「今日のお茶の時間——いつもより十分ほど、長かったようです」
「……そうでしたか」
「はい。珍しいことです。辺境伯が自分から長居されるのは」
ディートリヒが茶器を片付けながら、廊下の方を見た。
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「先ほど廊下でフリッツ殿とすれ違いまして」
「ええ」
「『辺境伯の朝のお茶が十分長かった』と申しましたら、フリッツ殿は——」
「何と」
「『存じております』と」
ディートリヒが、静かに笑った。
「わたくしも——存じておりました」
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わたくしは顔が熱くなるのを感じながら、帳簿を開いた。
数字が——やはり、頭に入らなかった。
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窓の外に秋の空が広がっている。
今日も——「あの場所で」と言ってくれた。昨日のことは夢ではなかった。
明日も明後日も——きっと、「あの場所で」と言ってくれるのだろう。
そう思うだけで——帳簿の数字が霞んで見えた。困ったものだ。
でも——悪くない。
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(ああ。わたくしまで「悪くない」を使い始めている)
一人で笑った。




