第62話「不器用な言葉」
第62話「不器用な言葉」
城壁の上。
夕焼けが——紫に変わり始めていた。
空の端に、最初の星がひとつ、瞬いている。秋の宵は早い。あと少しで、夜が来る。
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カイン様の声は——途切れ途切れだった。
「お前が来る前——この城は静かだった。それが普通だと思っていた」
風が吹いた。わたくしは黙って聞いていた。
「お前が来てから——うるさくなった」
その言葉に、胸がちくりとした。でも——カイン様の声は、責めているのではなかった。
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「朝のお茶の時間がある。帳簿の報告がある。花の話がある。ルーカスが走り回る。ゾフィのスープの匂いがする」
「はい」
「巡回から戻ると、管理棟に灯りがついている。机の上に書類がある。お前の字だ。丁寧で、読みやすくて——俺の字より、ずっと」
ここで少し、止まった。
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「それが——俺には」
カイン様の目が、わたくしから逸れた。
城壁の向こう、辺境の大地に目を向けた。耳が——赤くなっていた。
「……悪くなかった」
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わたくしは、少し笑った。
「『悪くない』ですか」
声が震えなかったのは、奇跡だった。
カイン様が——こちらを見た。耳だけでなく、頬にも色が差していた。
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「悪くないのではなく——」
言葉が、途切れた。
カイン様の顎が——歯を食いしばるように、動いた。
何かを絞り出そうとしている。言葉を。この人が一番苦手な、言葉を。
わたくしは待った。
急かさなかった。この人の言葉は——遅いけれど、嘘がない。ヨハンナが言った通りだった。
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「——好きだ」
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世界が、一瞬だけ止まった。
風が止まったように感じた。空の色が止まったように感じた。心臓だけが——激しく動いていた。
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「お前が——好きだ」
カイン様の声が、低く、確かに、続いた。
「ずっと、そうだった。いつからかは——わからない。気がついたときには、もう」
深緑の瞳が、まっすぐにこちらを見ている。揺れていなかった。
「言葉にする方法がわからなかった。廊下の灯りを増やした。紅茶を取り寄せた。城壁の見回りで窓の下を通った。マントを——何度もかけた」
一つずつ、声にしていた。この一年間、言葉の代わりにしてきた全てを。
「でも——それでは足りないとわかった。足りないのだと」
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カイン様の手が——外套の裾を握ったまま、微かに震えていた。
この人の手は大きくて、剣を握る手で、岩蜥蜴を一太刀で斬り伏せた手で——その手が、今、震えている。
(この人が——こんなに、怖がっている)
怖い、のだと思った。言葉にすることが。言葉にして——返事が来ないことが。この人にとって、剣を振るうよりも——言葉を口にする方が、ずっと怖いのだ。
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涙が——滲んだ。
泣くつもりはなかった。こんな場面で泣くのは、格好がつかない。でも——この不器用で正直な言葉が、胸の奥のどこかに触れて、そこから温かいものが溢れてきた。
前世では——こんな言葉をもらったことがなかった。誰かに「好きだ」と言われたことがなかった。面と向かって。震える声で。全てを振り絞って。
この世界に来て——初めて。
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「わたくしも——同じですわ、カイン様」
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声が震えた。今度は隠せなかった。
カイン様の目が——見開かれた。
「……本当か」
その声が——ほんの少し、裏返っていた。
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わたくしは、涙を拭って、笑った。
「嘘をつくのが下手なのは、わたくしも同じです」
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カイン様が——息を吐いた。長い、長い、息だった。
何ヶ月も——いや、もしかしたらもっと長い間——止めていた息を、今やっと吐いたように見えた。
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カイン様の大きな手が——伸びてきた。
わたくしの手に、触れた。
指先が冷たかった。外套を握りしめていたから。でも——手のひらは温かかった。
そして——その手が、震えていた。
この人の手が震えているのを見るのは。触れるのは。初めてだった。
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わたくしは——その手を、握り返した。
しっかりと。力を込めて。
(大丈夫。わたくしは、ここにいます)
声にはしなかった。でも——手から、伝わったと思う。
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城壁の上で、秋の最初の星が——一つ、空に灯った。
小さな光が、紫がかった空の端にぽつりと現れた。
風が吹いた。でも——寒くなかった。繋いだ手のひらから、温もりが全身に広がっていた。
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しばらく、何も言わなかった。
言葉は——もう、いらなかった。
この人の手が伝えていることを、わたくしの手が返していることを。それだけで十分だった。
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どれくらい経っただろう。星が二つ、三つと増えていた。
「……寒くないか」
カイン様が言った。声が——穏やかだった。
「寒く、ありません」
「嘘だろう」
「……少しだけ」
カイン様が外套を外した。わたくしの肩にかけた。
毛皮の裏地。革と焚き火と冷たい外気の匂い。この匂いは——もう何度も嗅いだ。マントの匂いと同じだ。
でも今日は——この匂いが、違う意味を持っていた。
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「帰るか」
「もう少しだけ」
「……そうか」
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二人で城壁の縁に立ったまま、辺境の夜を見ていた。
城下に灯りが一つ、二つと灯っていく。遠くの山の輪郭が闇に溶けていく。空には星が増え続けている。
繋いだ手は——離さなかった。
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(前世のわたくしは——こういう夜を知らなかった)
誰かと手を繋いで、同じ景色を見る夜。何も言わなくても、何かが伝わっている夜。
二十六年間、一度もなかった。
今世の王都でも——なかった。
ここで。この人と。初めて。
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城壁の階段を降りるとき、カイン様はわたくしの手を離さなかった。
前に一度——月夜の晩に、「暗い。足元に気をつけろ」と言って手を取ってくれたことがあった。
今日は——何も言わなかった。ただ、繋いだまま、一段ずつ降りた。
階段を降り終えて、廊下に出た。
灯りが五つ、均等に並んでいる。カイン様が増やしてくれた灯りだ。
その灯りの下で——ようやく、手が離れた。
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「おやすみ」
カイン様が言った。
「おやすみなさいませ、カイン様」
足音が遠ざかっていく。重くて、でも——今夜は少しだけ、軽い歩調に聞こえた。
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自室に戻って、扉を閉めた。
背中を扉につけて——そのまま、座り込んだ。
手のひらを見た。カイン様の手の温もりが、まだ残っていた。
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涙が——また出た。
嬉しかった。ただ、嬉しかった。
この気持ちに名前をつけるなら——幸せ、だった。
前世では知らなかった感情だ。
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窓辺の鉢植えに目をやった。
暗い部屋の中で、白い花が二輪、月明かりにうっすらと浮かんでいた。三つ目の蕾が——明日にも開きそうなほどに、膨らんでいた。
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(この花は——わたくしだ。泥の中にいた芽が、光を受けて、根を張って、花を咲かせた)
そして——花が咲くための光は。
(あの人だった。ずっと——あの人だった)




