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婚約破棄されたので辺境で好きに生きます〜なぜか辺境伯に溺愛されていますが〜  作者: きなこ
第3章「告白と因果応報」

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第61話「城壁の約束」

第61話「城壁の約束」


 朝から、手が落ち着かなかった。


 帳簿を開いた。数字を目で追った。三行読んで——一行も頭に入っていないことに気づいた。


 戻って読み直した。また三行。同じだった。


---


 お茶を淹れようとして、器を手に取った。


 手が滑って、茶葉の壺にぶつかった。壺が倒れて、茶葉が机に散った。


「あっ——」


 慌てて拾い集めていると、ヨハンナが無言で手伝ってくれた。


---


「お嬢様」


「はい」


「今日は——お休みになりませんか」


 ヨハンナの声が、穏やかだった。心配しているのではなく——何かを知っている人の声だった。


「大丈夫です。少し、集中できないだけで」


「そうですか」


 ヨハンナが微かに笑った。


---


(なぜこんなに緊張しているの)


 ただ城壁に行くだけだ。あの場所に。カイン様に呼ばれたから。それだけのことなのに。


 でも——昨日の「来てくれ」の声が、頭の中で何度も繰り返されていた。


 命令ではなかった。お願いだった。


 この人がお願いをすることは——ほとんど、ない。


---


 午前中の仕事はほとんど進まなかった。


 数字を書き写しているつもりで、同じ行を二度書いていた。消して書き直した。また間違えた。


(わたくし、カイン様のことを笑えない。書類を二度読み直していたのを笑ったのに——わたくしの方がひどいじゃない)


 お茶をもう一杯淹れようとして、今度はカップを持ち上げたまま数秒、何をしようとしていたか忘れた。


---


 昼食のとき、ゾフィが温かいスープを持ってきてくれた。


「エリナ様、今日はなんだかお顔が——」


「何ですか」


「いえ、赤いなと思って。熱でもありますか」


「……熱は、ありません」


「そうですか。でも——いい色ですよ」


 ゾフィがにっこり笑って去っていった。


---


 午後。


 ルーカスが読み書きの練習に来た。わたくしは教えている間だけ——少しだけ、落ち着いた。


「エリナさん、今日はいつもより優しいです」


「いつも優しいですよ」


「いつもはもう少し怖いです。『もう一回書いて』って言うとき、目が本気です」


「……そうですか」


 ルーカスが不思議そうにわたくしの顔を見た。


「何かいいことがありましたか」


「まだ——ありません。でも、あるかもしれません」


「へんなの」


---


 夕方が近づいてきた。


 窓から見る空が——金色に変わり始めている。


 秋の夕焼けは、夏のそれより低い位置から始まる。空の半分がオレンジに、もう半分がまだ青いままで、その境目が紫色に滲んでいる。


 わたくしは机の上の帳簿を閉じた。今日はもう——これ以上は無理だ。


---


 身支度を整えた。


 特別なことはしていない。髪を少し整えて、いつもの服で。


 でも鏡の前で三回、髪に手をやった。


 ヨハンナが何も言わずに、肩に薄い羽織を掛けてくれた。


「秋の夕方は冷えますから」


「ありがとうございます」


「行ってらっしゃいませ、お嬢様」


 その言葉が——いつもより、温かく聞こえた。


---


 城壁への階段を上った。


 石の段は冷たかった。手すりに触れると、秋の空気が指先から伝わってくる。


 一段。二段。三段。


 心臓が、段を上がるたびに速くなっていくのがわかった。


---


 城壁の上に出た。


 秋の風が、正面から吹きつけた。髪が揺れた。羽織の裾がはためいた。


 そして——カイン様が、いた。


---


 先に来ていた。外套を羽織って、城壁の縁に立っている。


 夕焼けを背にしている。オレンジ色の光がカイン様の輪郭を縁取っていて、黒い髪に赤い光が混じっている。


 深緑の瞳が——振り返って、わたくしを見た。


---


「来たか」


「はい」


 いつもの言葉。でも——声が、いつもより低かった。


 カイン様の手が、外套の裾を握っている。普段は体の脇に自然に下ろしている手が——今日は、何かを握りしめていた。


---


 沈黙が落ちた。


 風が吹いた。秋の風は、夏市の夜より冷たい。あのときは篝火の温もりがあった。今はない。二人と、夕焼けと、風だけ。


 カイン様が口を開いた。


 閉じた。


 また開いた。


---


「……エリナ」


「はい」


「俺は——言葉が下手だ」


「存じております」


 答えが口をついて出た。自分でも驚いた。でも——嘘ではなかった。この人が言葉の人ではないことは、一年間ずっと、体で知っていた。


---


 カイン様の口元が、僅かにほどけた。笑ったのではない。でも——力が抜けたように見えた。


「だから——うまく言えない。何度も考えた。だが——どう言えばいいかわからない」


 風が吹いた。カイン様の外套が揺れた。


 わたくしは、待った。


---


 カイン様が——一歩、近づいた。


 深緑の瞳が、まっすぐにわたくしを見ている。夕焼けの光の中で、その目の色が——今まで見た中で、一番深く見えた。


「お前がいない日は——城が広すぎる」


---


 その言葉が——胸の中に、落ちてきた。


 静かに。確かに。


 わたくしは息を止めていた。続きを——待っていた。



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