第60話「遠い知らせ」
第60話「遠い知らせ」
秋の朝、管理棟の机の上に手紙が一通、置かれていた。
封蝋にヴァルトシュタイン家の紋章。クラウス兄様からだ。
手紙は辺境に届くまでに十日以上かかる。書かれた時点の王都と、今のわたくしの間には、季節一つ分の時差がある。
封を切った。
---
「エリナへ
兄として一報を入れておく。
メリア・シュヴァルツの聖女としての力に、神官庁から正式な調査が入った。バウム顧問の測定記録が決め手になったらしい。三年分の計測データと、聖光石の流通調査、衣服から検出された魔力残留物——全てが揃ったということだ。
まだ結果は出ていないが——おそらく、覆ることはない。
父上は何も言わないが、先日の叙勲式ではメリアの失態を直接目にしたようだ。帰宅後、書斎で一人、長い間何かを考えていた。
辺境での仕事は順調か。くれぐれも無理はするな。秋に会えることを楽しみにしている。
追伸——辺境伯によろしく伝えてくれ。
クラウス」
---
手紙を読み終えて、窓の外を見た。
辺境の秋空が広がっている。高い雲。澄んだ空気。遠くの山の稜線が朝日に照らされて、金色に光っている。
胸の中に、何があるかを探った。
怒り——はない。もう、とうに過ぎた感情だ。
喜び——もない。メリアが落ちることで、わたくしが何かを取り戻すわけではない。
ただ——静かな安堵があった。嘘が暴かれることへの。
---
(あの人が聖女でなかったとしても、わたくしの人生は変わらない)
これは真実だった。
一年前なら、この知らせは違う意味を持っていただろう。復讐心が湧いたかもしれない。あるいは虚しさが。
今は——何も揺れない。
(わたくしはもう、ここにいる。この場所で、自分の足で立っている。メリアのことも、アルフレート殿下のことも——もう、わたくしの物語の一部ではない)
---
昼過ぎ、お茶の時間にカイン様にクラウスの手紙の内容を伝えた。
カイン様は白湯を飲みながら聞いていた。表情は変わらなかった。
「そうか」
短い言葉だった。いつもの。
わたくしは手紙を畳んで、机の端に置いた。
沈黙が落ちた。いつもの沈黙とは少し違う。空気の温度が——わずかに変わっていた。
---
カイン様が白湯の器を置いた。
「エリナ」
「はい」
目が合った。深緑の瞳が、まっすぐにこちらを見ていた。
長い沈黙のあとに——カイン様が口を開いた。
---
「お前は——あの男のことを、まだ考えるか」
その言葉が、予想外だった。
カイン様がアルフレート殿下のことを口にするのは——初めてだった。一年間、一度も。婚約破棄の経緯も、王都での出来事も、カイン様は一度も触れなかった。
わたくしから話したことはある。けれどカイン様の方から——聞いたことはなかった。
---
「いいえ」
迷いなく答えた。
「もう、何も。殿下のことは——とうに終わったことですわ」
声が、自分でも驚くほど穏やかだった。嘘ではなかった。強がりでもなかった。ただ——事実を、そのまま言った。
アルフレート殿下に対する感情は、もうどこにもなかった。恨みも、悲しみも、未練も。あるのは——過ぎた季節の記憶だけだ。色褪せた、古い絵のような。
---
カイン様の目が、一瞬だけ——何かを確認するように、まっすぐこちらを見た。
その視線の奥に、安堵のようなものが過ぎったのを、わたくしは見逃さなかった。
(この人は——確かめたかったのだ。わたくしの中に、まだあの人がいるかどうかを)
胸がきゅっと締まった。嬉しくて。この人が——そんなことを気にしていたことが。
---
お茶の時間が終わって、カイン様が立ち上がった。
いつもの通り、外套を取って、扉に手をかけた。
そこで——止まった。
振り返った。
---
「エリナ」
「はい」
深緑の瞳が、夕方の光の中で静かに光っていた。
「明日の夕方——城壁の、あの場所に来てくれ」
あの場所。
あの——月夜の城壁。満月の夜にカイン様と話をした場所。「お前が来てからだ」と言ってくれた場所。階段を降りるとき、手を取ってくれた場所。
---
「来てくれ」——その言い方が、いつもと違った。
カイン様は普段、命令口調だ。「やれ」「来い」「行け」。短い言葉で、迷いなく。
でも今日の「来てくれ」は——命令ではなかった。
お願い、だった。
---
「……はい」
そう答えた。声が、少し震えた。自分でもわかった。
カイン様は頷いて、出ていった。扉が静かに閉まった。
---
一人になった部屋で、わたくしは自分の手を見た。
心臓が——速い。
(あの場所に、来てくれ)
この人が「お願い」をすることは、ほとんどない。巡回に行くとき、仕事を任せるとき、報告を聞くとき——全て、自然に、当然のように。
でも「来てくれ」は——違った。
何かを伝えるために。何かを言うために。あの場所を選んだ。
---
窓の外に、秋の夕焼けが広がっていた。
明日の夕方。城壁の上。
何が待っているのかは——まだ、わからない。
でも胸の奥で、名前のない予感が——もう、名前を持ち始めていた。




