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婚約破棄されたので辺境で好きに生きます〜なぜか辺境伯に溺愛されていますが〜  作者: きなこ
第3章「告白と因果応報」

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第57話「秋の収穫と噂話」

第57話「秋の収穫と噂話」


 辺境の秋は忙しい。


 朝、城壁の上から見下ろすと、城下の畑は色づいていた。温室からは夏野菜の最後の収穫が続いていて、露地では秋の作物が次々に上がり始めている。


 根菜。穀物。秋の香草。それから——フィア村から運ばれてきた、輪作の成果。


 一年前に始めた農地改革が、初めての実りを迎えようとしていた。





 午前中は帳簿の確認をしていた。秋の収穫量の見積もりと、ルドルフへの出荷計画。


 数字を見ながら、思わず口元が緩む。


 温室の効果は予想以上だった。域外からの食料調達費は前年比で四割減。それでいて、城下の食料備蓄は冬越しの基準を既に超えている。


(去年の冬、食料が底をつきかけたのが嘘のよう)





 昼前に、城下の市場に出た。


 秋の日差しは穏やかで、石畳の上を歩くと影が長く伸びた。市場の出店には秋の作物が並んでいる。先月まではなかった焼き芋の屋台が一軒、新しく出ていた。


「エリナ様!」


 声が飛んできた。聞き覚えのある、よく通る声。


 振り返ると——マルタが手を振りながら駆け寄ってきた。





 マルタ。城下の娘で、年はわたくしと同じくらいだろうか。赤みがかった栗色の髪を一つにまとめていて、そばかすのある顔にいつも元気がいい。


 夏市のときに世話役を務めていた娘だ。動きが機敏で、声が大きくて、城下のことなら何でも知っている。


「おはようございます、マルタ。今日も早いですね」


「市場は朝が勝負ですから。母さんの店番の前に回ってきたんです」


 マルタが隣に並んで歩いた。市場の出店を眺めながら、何か言いたそうに口元を動かしている。





「あの、エリナ様」


「はい」


「聞いていいですか。城下の娘たちがね——噂してるんですよ」


(来た)


 マルタが噂話を始めるときの顔は、もう覚えた。目が輝いて、声が少し低くなる。


「辺境伯様がね、最近——城壁の見回りで、必ずエリナ様のお部屋の窓の下を通るって」





 足が止まった。


「……え」


「朝の巡回も、夕方の巡回も。いつからかはわからないけど——お部屋の近くを通る経路ですよね。あの辺りで足が遅くなるって、見張りの兵士が言ってたらしいんです」


 頬に熱が上がった。


「それは——巡回の経路が、たまたま」


「たまたま毎日ですか?」


 マルタがにやりと笑った。この娘は——こういうところが鋭い。





「城下の娘たちが言ってました。『辺境伯様にもそういうところがあるんだ』って。みんな嬉しそうでしたよ。あの方がそういう顔をするの、見たことないですから」


「そういう顔、というのは」


「柔らかい顔ですよ。城壁の上から、城下じゃなくて——エリナ様の窓を見てる顔。兵士が『何を見ているんですか』って聞いたら、『空を見ている』って答えたそうですけど」


(空を見ている、と答えた——!)


 もう顔が熱い。


「マルタ、その話は——」


「内緒にしてほしいですか? もう城下中ですけど」





(城下中——!)


 歩きながら、わたくしは顔の熱が引くのを待った。引かなかった。


 秋の風が吹いているのに、顔だけが真夏だった。





 城に戻ると、ディートリヒが廊下にいた。


「エリナ様、おかえりなさいませ。辺境伯は午後の巡回から——少し早くお戻りになりました」


「早く、ですか」


「ここ数日、巡回のお戻りが早いのです」


 ディートリヒの口元に、あの見覚えのある微笑みが浮かんでいた。





「先ほどお尋ねしたのですが——『巡回路を効率化した』と」


「……効率化」


「はい。無表情でそう仰いました」


 ディートリヒが少し間を置いた。


「……嘘ですね。巡回路は先月から変わっておりません」


「ディートリヒ」


「はい」


「それは——カイン様ご本人に言うべきでは」


「言いました。『それは違います』と。そうしたら——」


「そうしたら?」


「黙って出ていかれました」





 わたくしは口元を押さえた。笑ってはいけない。笑ってはいけないのに——笑いが溢れてきた。


 カイン様が嘘をつく。それも——こんなわかりやすい嘘を。


(巡回路を効率化した。そんな理由で早く帰ってくるわけがないこと、ディートリヒだって知っている。カイン様だって、自分が嘘をついていることに気づいているはずなのに——それでも言ってしまうのだ、この人は)





 夕方、自室に戻ると、ヨハンナがカーテンの位置を直していた。


「お嬢様、おかえりなさいませ」


「ヨハンナ、ただいま」


「今日も市場に行かれたのですね。マルタさんとお話しされましたか」


「ええ。……色々と、噂を教えてもらいました」


 ヨハンナが何も言わずに微笑んだ。この人は——全部知っている顔だ。





「お嬢様」


「はい」


「辺境伯様がよく——お嬢様のお部屋の前で、足音が止まっていることをご存知ですか」


「……知って、います」


 以前から気づいていた。夜、廊下の向こうから重い足音が近づいてきて——わたくしの部屋の前で、一瞬だけ止まる。それから、また遠ざかっていく。


 最初は偶然だと思っていた。でも——偶然が毎晩続くことは、ない。





「あの方は——不器用でいらっしゃるのです」


 ヨハンナが言った。声が柔らかい。


「想いがあっても、言葉にするまでに時間がかかる方です。けれど——行動には、全て出ております。廊下の灯り。紅茶の在庫。城壁の巡回路。足音。全て」


「ヨハンナ——」


「もう少し、お待ちになってくださいませ。あの方の言葉は——遅いですが、嘘がございません」





 ヨハンナが出ていったあと、わたくしは窓辺に立った。


 秋の夕焼けが辺境の空を染めている。城壁の上に、見回りの兵士の影が見える。


(この人は——何を伝えようとしているの)


 わたくしの窓の下を通るとき、足が遅くなる。部屋の前で足音が止まる。巡回を早く切り上げて城に戻る。書類を何度も同じところから読み直す。


 全部が——何かを言おうとして、言えないでいる人の行動だった。





(答えは——もう少し先にある)


 でも、もう少し先がどこなのか——わたくしには、まだわからなかった。


 鉢植えの三つ目の蕾が、夕日に照らされて小さく膨らんでいた。



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