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婚約破棄されたので辺境で好きに生きます〜なぜか辺境伯に溺愛されていますが〜  作者: きなこ
第3章「告白と因果応報」

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第55話「秋の足音」

第55話「秋の足音」


 夏市の余韻が消えたのは、思ったより早かった。


 城下の広場にはまだ出店の跡が残っている。踏み固められた地面に、焼き菓子の匂いの名残り。けれど空を見上げると——雲の形が、もう夏のものではなかった。


 高い雲だ。薄く引かれた筆の線のように、空の端から端まで伸びている。


(秋の雲だ)


---


 朝、窓辺の鉢植えに水をやった。


 二輪目の花は、咲いてから五日が経っている。一輪目より大きく開いた白い花びらの端に、朝日が触れて淡く光っていた。


 茎の根元あたりに、新しい蕾が見えた。小さな、指先ほどの膨らみ。三つ目。


(また一つ——増えた)


 鉢植えの根はもう鉢の底まで届いているだろう。ここまで大きくなるとは思わなかった。泥の中にいた小さな芽が——もう、わたくしの手のひらでは包みきれないほどに育っていた。


---


 管理棟に向かう途中、ルドルフとすれ違った。


「おはようございます、エリナ様。少しお時間をいただけますか」


 いつもより表情が硬い。ルドルフは商人としての顔と、親しい者に見せる顔の切り替えが早い人だが、今朝は商人の顔のほうだった。


「どうされましたか」


「先日の王都便で、取引先の魔法道具商と話をしまして。辺境のルーン石のことが話題になったついでに——少し気になる話を聞いたのです」


 管理棟の小部屋に入ると、ルドルフが椅子に腰を下ろした。


---


「エリナ様の魔力について——王都での測定はCランクでしたね」


「ええ。王立の簡易測定所で受けたものです」


 ルドルフが少し間を置いた。


「魔法道具商の話では、あの簡易測定所の装置は古い型なのだそうです。特に土属性は数値が低く出る傾向があると——精密な測定ができるのは、王立学院の研究棟にある装置だけだと聞きました」


(王都の測定が簡易式で、土属性が低く出やすい——?)


 わたくしは少し俯いた。


 鉱山で覚醒したとき、ギルベルト侍医はAランク超からSランクに迫ると言っていた。Cランクからの飛躍が大きすぎるとは、ずっと気になっていた。


「つまり——最初から、Cランクではなかった可能性があると」


「可能性の話です。ただ、ルーン石との共鳴を見ても——最初からお力は相当おありだったのではないかと」


---


 ルドルフが帰ったあと、わたくしは少し考えていた。


 もしも最初から魔力がもっと高かったのなら——王都での評価も、アルフレート殿下からの扱いも、何か違っていたかもしれない。


 けれど。


(それは、もう終わったこと)


 今のわたくしにとって大切なのは、この力をどう使うかだ。ランクの数字ではない。この土地のために、何ができるかだ。


 鉱山の崩落を思い出す。あの日、ゲルツ親方たちを救い出すために、わたくしの体から溢れた金色の光。怖かった。でも——手が届いた。


 それだけで十分だった。


---


 昼前、帳簿の更新をしていると、ヨハンナが茶器を持って入ってきた。


「お嬢様、今日はこちらをどうぞ。ゾフィが新しく仕入れた秋の香草で淹れたそうです」


 器から立ち上る湯気に、ほのかに甘い匂いが混じっていた。夏のハーブティーとは違う——深くて、丸みのある香り。


「ありがとうございます。……もう秋の香草が出ているのですね」


「ええ。城下の畑でも、秋の作付けが始まっているようですよ」


 ヨハンナが窓の外を見た。遠くの山の稜線が、夏より少し近く見える。空気が澄んできたのだろう。


---


 午後、いつものお茶の時間。


 管理棟の奥の部屋。窓から秋の始まりの光が差し込んで、テーブルの木目を淡く照らしている。


 カイン様が向かいに座っていた。白湯を両手で包んでいる。


 いつもの席。いつもの時間。


 けれど——今日のカイン様は、少しだけ、いつもと違っていた。


---


 書類を手に取って読んでいる——と思ったら、同じ行を二度目から読み直していた。三度目で、紙をめくった。が、すぐに戻した。


(……カイン様、同じところを読んでいらっしゃる)


 わたくしは気づかないふりをして、自分の茶器に口をつけた。


 秋の香草茶は、思ったより美味しかった。少し苦みがあるけれど、後味に甘さが残る。


 カイン様が書類を机に置いた。白湯を一口飲んだ。また書類を取り上げた。


 ……また、同じ行から読んでいる。


---


「カイン様」


「何だ」


「今日のお茶——ゾフィが秋の香草で淹れたそうです。お口に合いますか」


 話題を変えたかった。この人が落ち着かないでいると、こちらまでそわそわしてくる。


「……ああ。悪くない」


 いつもの返事だった。でも、声の力が少し足りない。言葉が上の空に聞こえた。


 カイン様の指が、白湯の器の縁を何度か叩いた。この人が指を動かすのは、珍しい。普段はどんなときでも静かに座っている人なのに。


---


「カイン様、何かお考えですか」


「いや」


「お仕事で何か——」


「仕事の話ではない」


 はっきりと言った。それから——少し、息を吸った。


(仕事の話ではない、と自分から言った。この人が「仕事の話ではない」と認めるのは、相当なことだ)


---


 沈黙が落ちた。


 秋の風が窓から入ってきた。帳簿の端がかすかに持ち上がった。


 カイン様が、こちらを見た。


 深緑の瞳が、まっすぐに向けられた。あの城壁の夜に月明かりの中で見た目と、同じ色。同じ深さ。でも——今日はその奥に、何か違うものが揺れていた。


 迷い、とは少し違う。覚悟に近い何か。けれどまだ形になっていない。言葉の手前で立ち止まっている、そういう表情だった。


---


「エリナ」


「はい」


 心臓が、一拍だけ速く打った。名前を呼ばれるたびに、胸の奥の何かが反応する。もう慣れたと思っていたのに——慣れないものだ。


 カイン様の口が開いた。


 閉じた。


 もう一度、開いた。


---


「……いや。何でもない」


 そう言って、書類に目を戻した。


 白湯を一口飲んだ。もう、指は動いていなかった。何事もなかったかのように、静かな横顔が戻っていた。


---


 わたくしは、少しの間、カイン様の横顔を見ていた。


 これは——前にもあった。


 一年前、この城に来たばかりのころ。お茶の席で、カイン様が何かを言いかけて「何でもない」と止めたことがあった。夏市の夜にも。その前の春にも。


 何度もあった。


 でも——今回の「何でもない」は、いつもと違う温度だった。


 いつもは平坦な声で、本当に何でもないかのように言い流す。今日は——声の端に、微かな力が入っていた。


「何でもない」と言い切るために、力が必要だったような、そんな声だった。


---


(この人は——何を伝えようとしているの)


 秋の風が、もう一度吹いた。


 窓辺の帳簿の端がまた持ち上がった。カイン様は書類を読んでいるが——おそらく、読めていない。


 わたくしも、もう手元のお茶の味がわからなくなっていた。


 胸の奥で、小さな予感が静かに揺れていた。名前のない予感。形のない期待。


---


 秋が来ようとしている。


 辺境の空は高く澄んで、遠くの山が近く見える。城下からは秋の収穫の準備の声が聞こえる。


 何かが——動こうとしていた。季節だけではなく。


 カイン様の「何でもない」の向こうにあるものが、まだ見えない。でも——もう少しで、見えるような気がしていた。



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