第53話「風向きが変わる」
第53話「風向きが変わる」
夏市が終わって、三日が経っていた。
城下はまだ少し、祭りの熱が残っている。片づけが続く露店の跡。昨日まであった篝火台の焦げた跡。道の端に落ちた紙飾りの切れ端。
片づけながら、みんなが笑っていた。
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管理棟の窓から見下ろすと、荷車が二台続いて城門を出ていくのが見えた。
他領の商人たちが帰るのだろう。今年の夏市は、例年より遠方からの来客が多かった。マルテンシュタイン侯爵領からの繊維商人。レーヴェン子爵領からの酒造業者。港湾都市リーベックからは、塩と干し魚を持ち込んだ商会の使いが三組も来た。
(こんなに遠くからいらっしゃるとは、思わなかったわ)
一年前のグラフの夏市がどんな規模だったかを思い返すと、今年との差に今でも少し驚く。
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「エリナ様、荷の最終集計が上がりました」
ハンスが書類を持って入ってきた。文官主任として帳簿管理を担う堅実な男で、最近では確認の必要がないほど正確に数字をまとめてくれる。
「ありがとうございます、ハンス」
受け取って、数字に目を走らせた。
夏市の三日間で動いた取引高。出店数。来訪者の推計数。域外からの商人の割合。
(……三年前の記録と比べると、規模が倍以上だわ)
フリッツが以前見せてくれた古い台帳の数字が頭に浮かんだ。あの頃の夏市は、城下の住民が細々と物を売り買いする、本当に小さな祭りだった。
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「エリナ様」
ハンスが、少しためらうような顔で続けた。
「帰りしなに、マルテンシュタインの商人さんが話しかけてきたのですが」
「どのような話でしたか」
「『辺境がここまで変わったとは、王都では誰も知らない。帰って伝えたい』と。それで——エリナ様のことを何度もお聞きになっていました。どなたが温室を始めたのか、燻製サーモンの発案は、ルーン石の流通を整備したのはどなたか、と」
わたくしは少し、間を置いた。
「なんとお答えになりましたか」
「『辺境伯様が連れてこられた、ヴァルトシュタイン公爵家のご令嬢です』と」
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ハンスが部屋を出ていってから、わたくしは窓の外を見た。
最後の荷車が城門を抜けていく。
(王都では誰も知らない、か)
少し不思議な感覚だった。
王都を出たとき、わたくしは「悪役令嬢」だった。婚約破棄された公爵令嬢。辺境に送られた問題ある女。そういう噂と一緒に、この地に来た。
それが今——ここでは普通に、名前で呼ばれる。エリナ様、と。
(どちらが本当のわたくしか、などとは思わない。でも——)
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(ここにいる方が、息がしやすい)
それは確かだった。
王都の社交界では、笑顔の裏側を読みながら立ち続けるのが当たり前だった。気を抜いたら何かを逃す。そういう場所だった。
ここでは、ハンスが正直に報告し、ゾフィが気分によって塩気を変え、ウルズラが図星を突いてくる。みんな、顔と声が一致している。
(前世の職場でこんな人たちに囲まれていたら、もう少し違ったかもしれないわ)
思ってから、少し苦笑いした。
今となっては関係ないことだ。
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シュテファン・フォン・ルヴェンタールが父王の執務室に入ったのは、昼前のことだった。
「辺境からの定期報告をお持ちしました」
「ドラクロワの分か」
国王テオドール・フォン・ルヴェンタールは、窓際の椅子から顔を上げた。七十に近い年齢だが、目の力は衰えていない。白くなった口髭の奥で、その目が静かに動く。
シュテファンは報告書を机の端に置いた。
「辺境伯の四半期収支です。昨年同期比で収入が五十二パーセント増。食料自給率は九割を超えました。域外との商取引も拡大し、今年の夏市では域外商人の参加数が三年ぶりに最多を更新しています」
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テオドール国王が報告書に目を落とした。
しばらく、黙って数字を追う。
「……ドラクロワ辺境伯が動いたのか」
「辺境伯領に滞在しているヴァルトシュタイン公爵令嬢が、農業改革・水産業開発・鉱山経済の立て直しを主導したと聞き及んでいます。辺境伯は全面的に権限を委ねていると」
「ヴァルトシュタインの——エリナか」
国王が呟いた。
「アルフレートが婚約破棄した娘だな」
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シュテファンは答えなかった。
答えるまでもなかった。父王は既に自分で答えを持っている。
「婚約破棄された翌日に辺境行きを自分で申し出て——一年でこの数字を作ったのか」
「はい」
「……ほう」
テオドール国王が報告書を閉じた。
「面白い娘だ」
それだけ言って、また窓の外を見た。
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王宮の廊下を歩きながら、シュテファンは少し考えた。
「面白い娘だ」——父王がそう言うとき、それは単なる感想ではない。何かを見定めている目だった。
(エリナ・フォン・ヴァルトシュタイン)
シュテファンが初めて彼女を見たのは、彼女が辺境へ発つ前日だった。王宮の庭園で言葉を交わした。婚約破棄の翌日で、顔には疲労があったが、目は——伏せていなかった。
前を見て、歩いていた。
(あの目は、負けた人間の目ではなかった)
そのことを、シュテファンはずっと覚えている。
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同じ刻、王宮の別の棟。
アルフレート・フォン・ルヴェンタールは、執務卓の前で手を止めていた。
机の上には山積みの書類。最近は、かつてより真剣に政務に向き合っている。メリアの件の後——シュテファン兄上に「自分の名前が何に使われているか、目を配れ」と言われた言葉が、まだ耳に残っている。
部屋の扉が開いた。
「殿下、社交界の週報をお持ちしました」
侍従が差し出した紙の束の中に、見慣れない名前があった。
「……ヴァルトシュタイン令嬢、か」
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そこには、「辺境伯領の経済発展——令嬢の手腕が各地に伝わる」という見出しがあった。
短い記事だった。でも、名前は何度も出てくる。エリナ・フォン・ヴァルトシュタイン。
アルフレートは、その紙をしばらく見ていた。
怒りではない。羨望でも、嫉妬でもない。それよりもずっと——わかりにくい感情だった。
(俺は——あいつに、何をしたのだろう)
思ったが、すぐに首を振った。
(いや——俺は何も間違ってはいない。婚約破棄は当然の判断だった。あいつがたまたま、うまくいっているだけだ)
自分にそう言い聞かせて、次の書類に手を伸ばした。指先に、わずかな震えがあったことには気づかなかった。
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夕刻、城下の市場をひとりで歩いた。
夏市の後片づけが、ほぼ終わっていた。普段通りの露店。いつもの魚屋の声。鍛冶師の金属を打つ音。
(これが日常だ)
あの賑わいは非日常で、この静かさが本物だ。そして——わたくしはこの静かさの方が好きだと、今は知っている。
「エリナ様!」
声がした。振り向くと、ルーカスが走ってくる。十四歳になった少年は、この春から管理棟の給仕見習いを始めた。走り方が相変わらず全力だ。
「どうしました、ルーカス」
「お兄さんが王都から手紙を持ってきてくれましたよ! カイン様がお届けするって!」
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管理棟に戻ると、カイン様がいた。
机の上に、封書が一通置かれている。
「クラウスからだ」
カイン様が、いつものように短く言った。
「お兄様から——ですか」
封を切る前に、カイン様の顔を見た。普段通りの表情だ。深緑の目が静かにこちらを見ている。
わたくしは封を開けた。
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兄の字は、相変わらず力強く崩れている。
——エリナへ。近況がだいぶ伝わってきている。夏市の話は王都でも噂になった。商人たちが帰るたびに、辺境の話が広まっているらしい。父上も「エリナは本当に辺境でやっているのか」と聞いてきた。「やっています。かなり本格的に」と答えておいた。
——それから、一つ伝えておく。秋にそちらを訪問する。お前に会いに行く。——それと、辺境伯の顔も見ておきたい。
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最後の一文を読んだとき、少し止まった。
(辺境伯の顔を見ておきたい——?)
お兄様らしい書き方だ。ご丁寧に、「辺境伯」と書いてある。「カイン様」ではなく。
(これは——どういう意味で書いたのかしら)
答えはわかっている気がしたが、考えないことにした。
「カイン様」
顔を上げると、カイン様と目が合った。
「兄が——秋に来るそうです」
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カイン様が、少しの間、黙った。
「……そうか」
「会っていただけますか」
「当然だ。客人なら」
客人。その言葉に、少し笑いそうになった。お兄様は客人ではなくて、わたくしの様子を確かめに来る兄なのだ。でも——カイン様にそれを言うのは、今は止めておいた方がいい気がした。
カイン様は窓の外を一度見て、また手紙に視線を戻した。
「クラウス卿は、近衛騎士か」
「はい。第三騎士団に所属しています」
「……達者な男と聞いている」
「剣でしたら、王都でもかなり腕が立ちます。ただ——あの人、実はかなり怖がりなので、泊まる部屋は明るい方が喜びます」
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カイン様が、こちらを見た。
「怖がり?」
「子どもの頃から。お化けの話をすると一週間口をきかなくなります」
「……剣の腕が立つのに」
「人間には得意と不得意がありますから」
カイン様が、わずかに眉を上げた。それから——ほんのわずか、口元がほどけた。
(笑った)
正確には笑いかけて止めた、くらいの表情だが、このくらいで十分だ。カイン様の「笑いかけて止めた」は、他の人の大笑いと同じくらいの意味がある。
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(春に来たときより——表情が増えた)
夏市の夜を思い出した。篝火の光の中で、二曲目を踊ったこと。「足りない」と言ったカイン様の声を。城壁の上で並んで見下ろした城下の灯りを。
「悪くない」という言葉が、また聞こえた気がした。でも夏市の夜の「悪くない」は——春の城壁の「悪くない」とは、温度が違った。
わかっている。わかっているのに——まだ、言葉にできないでいる。
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カイン様が立ち上がった。
「明日の巡回の前に確認したい地図がある。執務棟に戻る」
「はい」
「手紙の続きは、読んでおけ」
「もう全部読みました」
「……そうか」
扉に手をかける。それから、振り向いた。
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「エリナ」
「はい」
「クラウス卿が来るなら——城の南棟を使わせろ。明るい。窓が多い」
「……」
「お前が言っていたことだ。明るい方がいいと」
「……ありがとうございます」
声が、少しかすれた。
カイン様は、それだけ言って部屋を出た。
扉が閉まった後、わたくしはしばらく、手の中の手紙を見ていた。
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(この人は——ちゃんと、覚えているのだ)
「怖がりだから明るい部屋が喜ぶ」という、わたくしが今言ったばかりのことを。
不器用で、言葉が少なくて、笑顔を見せることが滅多にない。
でも——聞いている。見ている。
覚えている。
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窓の外に、夕暮れの辺境が広がっていた。
夏市の喧噪が終わって、静かな夏の夕方が戻ってきた。遠くの山の稜線が、橙色の光の中に沈んでいく。
(この景色を——好きだと思うようになったのは、いつからだろう)
覚えていない。気づいたら、好きになっていた。
それはたぶん——景色だけの話ではない。




