第52話「夏の夜」
第52話「夏の夜」
篝火が揺れている。
夏市の夜が深まるにつれ、城下の賑わいは変わっていく。昼の活気から、夜の余韻へ。人の声も笑い声も続いているけれど、どこか丸くなって——空気の中に溶け込んでいた。
---
二曲が終わって、わたくしとカイン様は広場の端にいた。
手は、もう離れている。でも——傍にいる。
「少し、歩きますか」
わたくしが言うと、カイン様は短く頷いた。城下の喧騒から少し外れた方向へ、二人で歩き始めた。
---
向かったのは城の東棟だった。
廊下を奥へ進んでいくと、温室の扉が見えてくる。わたくしが辺境に来てまもなく実験を始め、今や城の中で一番好きな場所になった場所だ。
「温室を見てもよいですか」
「構わない」
カイン様が先に扉を開けた。
---
夜の温室は、昼とは違う顔をしていた。
月明かりが大きなガラス窓から差し込み、育てた植物たちが銀色に光っていた。
昼間は緑が映えるこの場所が、今夜はまるで水の底のように静かで、白かった。
「きれいですわ」
思わず声が出た。
---
(ここに最初の苗を植えたとき、こんな夜を想像しなかった)
ハーブの鉢が並ぶ棚。冬でも実をつけるよう管理した果樹の小枝。フィア村から持ち帰った種から育てた野菜たち。
全部——この辺境で、わたくしが育てたものだ。
「この場所が好きです」
わたくしは静かに言った。
「……知っている」
カイン様の声が、少し低く、柔らかく返ってきた。
---
並んで棚の前に立った。
肩が触れそうな距離だった。触れてはいない。でも——確かに、近い。
しばらく、どちらも何も言わなかった。
(こういう沈黙が、最初は苦手だった)
辺境に来た頃、カイン様との沈黙はいつも少し息が詰まった。何を考えているのかわからなくて、何を言えばいいのかもわからなくて。
今は——ただそこにある、という感じがする。
---
「今日の祭り——楽しかったです」
先に口を開いたのは、わたくしだった。
「……ああ」
カイン様の返事は短い。でも、短い中に温度がある。
「カイン様は、楽しかったですか?」
間があった。
少しだけ長い間が。
---
「……前は、祭りは苦手だった」
カイン様が、月明かりの差し込む窓の方を見たまま言った。
「そうなのですか」
「人が多い場所は、今も苦手だ。何を話せばいいかわからない。どこに目を向けていいかも、わからなくなる。視線がどこかに行く先を探してしまう」
「辺境伯様も、そういうことがおありなのですね」
「貴族だからといって、得意なことばかりではない」
「そうですね。わたくしも——社交の場は得意ですが、少し疲れます。うまくやれていても、消耗する」
「……そうか」
---
「今は?」
聞いてみた。
カイン様が少し動いた気がした。こちらを見たような気がしたが、わたくしは育てたバジルの鉢を見たままだった。
少しの間があった。
「……お前がいるなら——悪くない」
---
「悪くない」。
また、その言葉だ。
でも——わたくしはもう聞き分けられる。最初の「悪くない」と、今夜の「悪くない」は——同じ言葉でも、全然違う。
(前世のわたくしなら「それ最初からそう言えばいいじゃないですか」と思ったかもしれない)
でも今は——この言葉が好きだ。
---
月明かりが窓から流れて、カイン様の横顔を照らした。
普段より目が細い。考えているときの目ではなく——ただ、何かを受け取っているときの目だと思った。
この人が、今夜は楽しいのだ。
そうわかった瞬間、胸の中に静かなものが広がった。
(この人を楽しくさせられた)
そのことが——どうしてこんなに嬉しいのかは、今更聞くまでもなかった。
---
「カイン様」
「何だ」
言おうとした。
言葉が、喉の手前まで来た。
でも——出てこなかった。
「——何でもありません」
---
言いながら、少し驚いた。
今まで、「何でもありません」と言うのはいつもカイン様の側だった。何かを言いかけて、途中でやめる。その度にわたくしは(何を言おうとしたのですか)と思っていた。
今夜は——わたくしが言った。
---
言いたいことはあった。
でも言葉にしたら、大きすぎる気がした。
この温室の中、夏の夜、月明かりと育てた植物たちに囲まれて——ここで言ったら、消えてしまいそうな気がした。大切なものを、風に飛ばしてしまいそうで。
(まだ、今夜ではない気がする)
なぜそう思うのかは、うまく説明できない。でも——もう少し、準備をして。ちゃんと言葉を見つけてから。
そう決めた。
---
カイン様が、ゆっくりこちらを見た。
「……そうか」
それだけ言った。
でも——口の端が、わずかに動いた。
嗤ったわけではない。怒ったわけでもない。
ただ、ほどけた。
その表情が見えた瞬間、わたくしは植物の棚を見た。バジルを見た。トマトの小さな実を見た。視線を逃がした。
(見ていたら、次の言葉が出てきてしまいそうだったので)
---
「なんでもない、は——お前には似合わない」
カイン様が言った。
「……そうですか?」
「何かを言いたいときは、大抵言う。お前は」
「今日は言えませんでした」
「わかっている」
少しの間があった。
「いつか言えたら——聞く」
---
静かな言葉だった。
強制でも、せかしでもない。ただ、そこにある、という言葉。
「その日が来るまで——ここにいる」と言っているように聞こえた。言っていないかもしれないけれど、そう聞こえた。
わたくしの喉の奥が、じわりと詰まった。
「……ありがとうございます」
声が少しかすれた。
「礼を言うことではない」
---
しばらく、また沈黙が続いた。
でも今夜の沈黙は、気まずくない。どちらも何かを思っていて、それを言葉にしないまま、ただ同じ場所に立っている。
それだけで——満たされていた。
城下から歓声が上がった。祭りの余韻が、ここまで届いてくる。
---
「……戻るか」
カイン様が言った。
「はい」
温室を出た。カイン様が扉を閉める。
廊下を歩き始めて——わたくしは鉢植えにつまずきかけた。
「っ」
温室の出口に置いてあった大きな鉢が、暗がりで見えなかった。
---
横から手が来た。
袖を掴まれた、というよりも——手のひらが、肘を支えた。
「……すみません」
「気をつけろ」
それだけだった。
手は、次の一歩を踏んだところで離れた。
でも——その温度が、しばらく腕に残っていた。
---
城の廊下に入ると、外の篝火の光から灯明の灯りに変わった。
ゆっくりと歩く。城は静かだった。夏市の日で人手が外に出ているからか、廊下には誰もいない。足音だけが響く。
わたくしの部屋の前まで来た。
カイン様が立ち止まった。
「おやすみ」
低い声。それだけだった。
「おやすみなさいませ、カイン様」
---
扉を開けて、中に入った。
扉が閉まる。
部屋の中は暗い。窓から夏の夜風が入ってきて、カーテンを揺らした。
---
(カイン様は、まだ廊下にいる)
なぜそう思ったのかは、わからない。
ただ——足音が聞こえなかった。扉の向こうで、気配が、まだある。
わたくしは動かなかった。部屋の暗がりの中で、扉に近いところに立ったまま、その気配を感じていた。
---
カイン様は廊下に立っていた。
扉の前で、足を動かさなかった。
なぜここを動けないのか——本人にも、うまく説明がつかなかった。
ただ、扉の向こうに気配がある。それが感じられる間は——もう少し、ここにいてもいいような気がした。
(いつか言えたら、聞く)
さっき自分が言った言葉が、頭の中で繰り返された。
(何を言うつもりで言ったのか)
——わかっていた。
わかっていて、言った。
---
廊下の突き当たりで、ディートリヒが書類を確認していた。
こちらには気づいていないか——あるいは、気づいて気づかないふりをしているかのどちらかだ。あの副官のことだから、後者だと思う。
その副官が、書類から目を上げずに、ごく小さな声で言った。
「旦那様。今夜は——よい祭りでしたね」
カイン様は答えなかった。
でも——足が、ようやく動いた。廊下を歩き始めた。
---
扉の向こうで、足音が遠くなっていく。
わたくしはそれを聞いていた。
角を曲がって、聞こえなくなる。
---
窓辺に行った。
月明かりの中で、温室から持ち込んだ白い花が一輪、静かに咲いていた。
「今日も——咲いていましたね」
声に出した。花は答えない。でも風にかすかに揺れた。夏の夜風に。
わたくしは花を見ながら、今夜のことを思った。
夏市の篝火の中で差し出された手。ダンスの温もり。温室の月明かり。鉢植えにつまずいたときの、腕に残った温度。「いつか言えたら聞く」——その声。
---
(もう少しだけ、時間をかけましょう)
胸の中でそう決めながら——窓辺の花と同じように、今夜は静かに、そこに立っていた。
外から、最後の祭りの音が、かすかに届いた。
辺境の夏は、短い。
でも——この夜は、ずっと覚えていると思う。
温室に並んで立った、あの静かな時間。育てたものたちが月に照らされていた、あの銀色の場所を。




