表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
婚約破棄されたので辺境で好きに生きます〜なぜか辺境伯に溺愛されていますが〜  作者: きなこ
第2章「辺境の花、咲き始める」

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

53/61

第52話「夏の夜」

第52話「夏の夜」


 篝火が揺れている。


 夏市の夜が深まるにつれ、城下の賑わいは変わっていく。昼の活気から、夜の余韻へ。人の声も笑い声も続いているけれど、どこか丸くなって——空気の中に溶け込んでいた。


---


 二曲が終わって、わたくしとカイン様は広場の端にいた。


 手は、もう離れている。でも——傍にいる。


「少し、歩きますか」


 わたくしが言うと、カイン様は短く頷いた。城下の喧騒から少し外れた方向へ、二人で歩き始めた。


---


 向かったのは城の東棟だった。


 廊下を奥へ進んでいくと、温室の扉が見えてくる。わたくしが辺境に来てまもなく実験を始め、今や城の中で一番好きな場所になった場所だ。


「温室を見てもよいですか」


「構わない」


 カイン様が先に扉を開けた。


---


 夜の温室は、昼とは違う顔をしていた。


 月明かりが大きなガラス窓から差し込み、育てた植物たちが銀色に光っていた。


 昼間は緑が映えるこの場所が、今夜はまるで水の底のように静かで、白かった。


「きれいですわ」


 思わず声が出た。


---


(ここに最初の苗を植えたとき、こんな夜を想像しなかった)


 ハーブの鉢が並ぶ棚。冬でも実をつけるよう管理した果樹の小枝。フィア村から持ち帰った種から育てた野菜たち。


 全部——この辺境で、わたくしが育てたものだ。


「この場所が好きです」


 わたくしは静かに言った。


「……知っている」


 カイン様の声が、少し低く、柔らかく返ってきた。


---


 並んで棚の前に立った。


 肩が触れそうな距離だった。触れてはいない。でも——確かに、近い。


 しばらく、どちらも何も言わなかった。


(こういう沈黙が、最初は苦手だった)


 辺境に来た頃、カイン様との沈黙はいつも少し息が詰まった。何を考えているのかわからなくて、何を言えばいいのかもわからなくて。


 今は——ただそこにある、という感じがする。


---


「今日の祭り——楽しかったです」


 先に口を開いたのは、わたくしだった。


「……ああ」


 カイン様の返事は短い。でも、短い中に温度がある。


「カイン様は、楽しかったですか?」


 間があった。


 少しだけ長い間が。


---


「……前は、祭りは苦手だった」


 カイン様が、月明かりの差し込む窓の方を見たまま言った。


「そうなのですか」


「人が多い場所は、今も苦手だ。何を話せばいいかわからない。どこに目を向けていいかも、わからなくなる。視線がどこかに行く先を探してしまう」


「辺境伯様も、そういうことがおありなのですね」


「貴族だからといって、得意なことばかりではない」


「そうですね。わたくしも——社交の場は得意ですが、少し疲れます。うまくやれていても、消耗する」


「……そうか」


---


「今は?」


 聞いてみた。


 カイン様が少し動いた気がした。こちらを見たような気がしたが、わたくしは育てたバジルの鉢を見たままだった。


 少しの間があった。


「……お前がいるなら——悪くない」


---


「悪くない」。


 また、その言葉だ。


 でも——わたくしはもう聞き分けられる。最初の「悪くない」と、今夜の「悪くない」は——同じ言葉でも、全然違う。


(前世のわたくしなら「それ最初からそう言えばいいじゃないですか」と思ったかもしれない)


 でも今は——この言葉が好きだ。


---


 月明かりが窓から流れて、カイン様の横顔を照らした。


 普段より目が細い。考えているときの目ではなく——ただ、何かを受け取っているときの目だと思った。


 この人が、今夜は楽しいのだ。


 そうわかった瞬間、胸の中に静かなものが広がった。


(この人を楽しくさせられた)


 そのことが——どうしてこんなに嬉しいのかは、今更聞くまでもなかった。


---


「カイン様」


「何だ」


 言おうとした。


 言葉が、喉の手前まで来た。


 でも——出てこなかった。


「——何でもありません」


---


 言いながら、少し驚いた。


 今まで、「何でもありません」と言うのはいつもカイン様の側だった。何かを言いかけて、途中でやめる。その度にわたくしは(何を言おうとしたのですか)と思っていた。


 今夜は——わたくしが言った。


---


 言いたいことはあった。


 でも言葉にしたら、大きすぎる気がした。


 この温室の中、夏の夜、月明かりと育てた植物たちに囲まれて——ここで言ったら、消えてしまいそうな気がした。大切なものを、風に飛ばしてしまいそうで。


(まだ、今夜ではない気がする)


 なぜそう思うのかは、うまく説明できない。でも——もう少し、準備をして。ちゃんと言葉を見つけてから。


 そう決めた。


---


 カイン様が、ゆっくりこちらを見た。


「……そうか」


 それだけ言った。


 でも——口の端が、わずかに動いた。


 嗤ったわけではない。怒ったわけでもない。


 ただ、ほどけた。


 その表情が見えた瞬間、わたくしは植物の棚を見た。バジルを見た。トマトの小さな実を見た。視線を逃がした。


(見ていたら、次の言葉が出てきてしまいそうだったので)


---


「なんでもない、は——お前には似合わない」


 カイン様が言った。


「……そうですか?」


「何かを言いたいときは、大抵言う。お前は」


「今日は言えませんでした」


「わかっている」


 少しの間があった。


「いつか言えたら——聞く」


---


 静かな言葉だった。


 強制でも、せかしでもない。ただ、そこにある、という言葉。


「その日が来るまで——ここにいる」と言っているように聞こえた。言っていないかもしれないけれど、そう聞こえた。


 わたくしの喉の奥が、じわりと詰まった。


「……ありがとうございます」


 声が少しかすれた。


「礼を言うことではない」


---


 しばらく、また沈黙が続いた。


 でも今夜の沈黙は、気まずくない。どちらも何かを思っていて、それを言葉にしないまま、ただ同じ場所に立っている。


 それだけで——満たされていた。


 城下から歓声が上がった。祭りの余韻が、ここまで届いてくる。


---


「……戻るか」


 カイン様が言った。


「はい」


 温室を出た。カイン様が扉を閉める。


 廊下を歩き始めて——わたくしは鉢植えにつまずきかけた。


「っ」


 温室の出口に置いてあった大きな鉢が、暗がりで見えなかった。


---


 横から手が来た。


 袖を掴まれた、というよりも——手のひらが、肘を支えた。


「……すみません」


「気をつけろ」


 それだけだった。


 手は、次の一歩を踏んだところで離れた。


 でも——その温度が、しばらく腕に残っていた。


---


 城の廊下に入ると、外の篝火の光から灯明の灯りに変わった。


 ゆっくりと歩く。城は静かだった。夏市の日で人手が外に出ているからか、廊下には誰もいない。足音だけが響く。


 わたくしの部屋の前まで来た。


 カイン様が立ち止まった。


「おやすみ」


 低い声。それだけだった。


「おやすみなさいませ、カイン様」


---


 扉を開けて、中に入った。


 扉が閉まる。


 部屋の中は暗い。窓から夏の夜風が入ってきて、カーテンを揺らした。


---


(カイン様は、まだ廊下にいる)


 なぜそう思ったのかは、わからない。


 ただ——足音が聞こえなかった。扉の向こうで、気配が、まだある。


 わたくしは動かなかった。部屋の暗がりの中で、扉に近いところに立ったまま、その気配を感じていた。


---


 カイン様は廊下に立っていた。


 扉の前で、足を動かさなかった。


 なぜここを動けないのか——本人にも、うまく説明がつかなかった。


 ただ、扉の向こうに気配がある。それが感じられる間は——もう少し、ここにいてもいいような気がした。


(いつか言えたら、聞く)


 さっき自分が言った言葉が、頭の中で繰り返された。


(何を言うつもりで言ったのか)


 ——わかっていた。


 わかっていて、言った。


---


 廊下の突き当たりで、ディートリヒが書類を確認していた。


 こちらには気づいていないか——あるいは、気づいて気づかないふりをしているかのどちらかだ。あの副官のことだから、後者だと思う。


 その副官が、書類から目を上げずに、ごく小さな声で言った。


「旦那様。今夜は——よい祭りでしたね」


 カイン様は答えなかった。


 でも——足が、ようやく動いた。廊下を歩き始めた。


---


 扉の向こうで、足音が遠くなっていく。


 わたくしはそれを聞いていた。


 角を曲がって、聞こえなくなる。


---


 窓辺に行った。


 月明かりの中で、温室から持ち込んだ白い花が一輪、静かに咲いていた。


「今日も——咲いていましたね」


 声に出した。花は答えない。でも風にかすかに揺れた。夏の夜風に。


 わたくしは花を見ながら、今夜のことを思った。


 夏市の篝火の中で差し出された手。ダンスの温もり。温室の月明かり。鉢植えにつまずいたときの、腕に残った温度。「いつか言えたら聞く」——その声。


---


(もう少しだけ、時間をかけましょう)


 胸の中でそう決めながら——窓辺の花と同じように、今夜は静かに、そこに立っていた。


 外から、最後の祭りの音が、かすかに届いた。


 辺境の夏は、短い。


 でも——この夜は、ずっと覚えていると思う。


 温室に並んで立った、あの静かな時間。育てたものたちが月に照らされていた、あの銀色の場所を。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ