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婚約破棄されたので辺境で好きに生きます〜なぜか辺境伯に溺愛されていますが〜  作者: きなこ
第2章「辺境の花、咲き始める」

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第51話「グラフの夏市」

第51話「グラフの夏市」


 夏市の当日は、朝から空が高かった。


 雲がほとんどない。辺境の空は王都よりも広く感じる。それは建物が低いからか、山が遠くまで見渡せるからか——今日のような青い日には、その広さが胸に沁みた。


 城下に出ると、すでに人の波があった。


---


 見慣れない顔が、あちこちに増えていた。


 他領から来た商人、旅人、家族連れ——彼らが市の色に混じると、グラフが違う顔になる。いつもは穏やかで少し静かなこの城下が、今日だけは輪郭がにじんで、大きく広がっているようだった。


(三割増しどころか、もっと来ているかもしれない)


 記録では「来客見込み百五十名」と見込んでいたが——実際に見ると、すでにその数に届きそうだ。まだ午前中だというのに。


---


「エリナ様!」


 甲高い声が後ろから来た。


 振り返ると、ルーカスが小走りで追いついてきた。十四歳の少年使用人。今日は腕に木箱を抱えている。汗をかいていて、頬が赤い。


「屋台の端の方に、飾り物が届いていて——どこに置けばいいかって」


「入口から入って最初に見えるところに。人が足を止める場所にきれいなものを置くと、最初の印象が変わります。色は明るいものを前に」


「わかりました!」


 駆けていく後ろ姿を見送りながら、わたくしはリストに目を落とした。


---


 配置は、計画通りに組めていた。


 ウルズラの屋台は、入口から三つ目の位置にある。今日のために保存食をたっぷり仕込んできたらしく、煙たく甘いにおいが漂っていた。干し肉の燻製、根菜の塩漬け、ルーン石で低温熟成した辺境チーズ——それぞれに値札が付けられ、並べ方も整えられている。


「来たか、エリナ。どうだい、売れ行きは」


 ウルズラが豪快に笑いかけた。


「開いたばかりでそんなに売れましたか」


「干し肉はもう残り半分だよ。においに引っかかった旅の人が、次々と」


「においで引き込む配置にした甲斐がありましたわ」


「その言葉、値段を上げていいかね」


「それは交渉次第です」


---


 道の反対側では、フランツとマルクスが楽器の調整をしていた。


 鍛冶師のフランツと、その弟の笛吹きマルクス。二人が並んでいると、体格は似ているが目が違う——フランツは職人の目で、マルクスは音楽家の目だ。


「エリナ様、よう来てくださった」


 マルクスが笛を下ろして会釈した。


「今日の演奏、楽しみにしておりますわ」


「演奏の配置、さすがでした。奥から音を出す——そりゃそうだなと思いましたよ。入口近くで鳴らすと、うるさいだけですもんね」


「引き込むためには、追いかけさせることです。遠くから聞こえる音は、人を動かします」


「エリナ様は、音楽のことも知っていらっしゃる」


「前の——昔、似たようなことを考える機会があって」


 マルクスが笑った。


「なんとも不思議なお方ですね、エリナ様」


---


 ゲルツが率いる鉱山の露店には、小さな加工品が並んでいた。


 その中で、一つだけ目を引くものがある。


 ルーン石を薄く削って、銀の台に嵌めたペンダント。拇指ほどの大きさだが、光の当たり方で淡い緑や青に揺れる。


「エリナ様のご提案どおり、小物に加工してみました」


 ゲルツが、ごつごつした掌の上にそっとのせて見せた。


「鉱山から出てきた石が、こういう形になるとは——誰も考えていなかった」


「石の価値は、使い方で変わります。鉱石のままでは一握りの専門家にしか届かないものが、こうして身につけられる形になれば、ずっと多くの人に届く」


「実際、もう三つ売れましたよ。旅人の若い娘さんに」


「素晴らしい。ゲルツさんたちの加工の腕があってこそです」


 ゲルツが、照れたような顔をした。これだけ大きな体をした男が照れると、なかなか可愛いと思う。


(前世なら絶対口に出せない感想だが)


---


 昼前、ルドルフが他領の商人を三人連れてきた。


「エリナ様、こちらの方々です。リーベック商会のヴォルフ様、南の港商会のフォルカー様、繊維商のゾーン様——三方とも、この辺境に興味を持ってくださっている」


 紹介が続く間、わたくしは三人の目を見ていた。


 商人の目は正直だ。今いる土地に、どんな反応をするか——そこに商機を感じているかどうかが出る。三人とも、城下を見回しながら、一度は目を細めていた。それは、良い意味でのものだと思う。


---


「昨年と比べて、随分と変わりましたね」


 フォルカーと名乗った商人が言った。


「そうおっしゃっていただけますか」


「来客の数もそうですが——城下に、生気があります。辺境というと、正直なところ厳しい土地という印象でしたが。通り道として寄るだけで、腰を落ち着ける場所ではない、と」


「以前はそうだったかもしれません」


「今は違う。あの露店のルーン石の加工品——あれはここでしか手に入らない。どこの市場でも見たことがない。価値はあります」


「ありがとうございます」


「辺境は、厳しい土地という印象でしたが——」とフォルカーが続けた。「厳しいからこそ、知恵が育つものなのかもしれない」


 フォルカーが少し考えて、頷いた。商人の目に、何かが宿った。次に来るときは荷を持ってくる——そういう目だった。


---


 ルドルフがわたくしの隣に並んだ。


 三人の商人が露店の方へ歩いていくのを見送りながら、小声で言う。


「今日の夏市——エリナ様の作戦勝ちですね」


「みなさんの準備があってこそです」


「でも設計したのはエリナ様だ。城下の人たちが『エリナ様が仕切るなら安心だ』って言ってましたよ」


「本当ですか」


「本当です。そう言われるようになったのは、ここ一年くらいのことですよ」


 わたくしは城下を見た。旗が風に揺れていた。子供が走り回っていた。ウルズラの大きな笑い声が、どこかから聞こえてきた。


(わたくしにとっての場所に——なったのかもしれない)


---


 夕暮れが来た。


 西の山の稜線が、橙と赤に滲んでいく。


 城下のあちこちで篝火が点された。それが一つ、二つと増えていくと——夏市の輪郭が変わる。昼の市から、夜の祭りへ。


 マルクスの笛が、どこかから聞こえてきた。


 少し遅れて、コンラート老人の弦楽器が重なった。


(この音は、好きだわ)


 春祭りのとき、最初にあの組み合わせを聞いたとき——心が解れた気がした。今夜もそれが来た。胸の奥の、固くなっていた何かが、音楽に溶けていく。


---


 人が少し集まり始めた広場の端で、わたくしは一人、篝火の向こうを見ていた。


 今日は長い一日だった。朝から走り回って、確認して、調整して——疲れているはずなのに、不思議と足が軽い。


 城下から歓声が上がる。誰かが踊り始めたらしい。笑い声。拍手の音。


 辺境の夏が、ここにある。


---


「……約束は覚えている」


 声がした。


 振り返ると、カイン様が立っていた。


 今日は外套をまとっているが、いつもより少しだけ装いが整っている気がした。外套の留め金が、篝火の光に鈍く光る。あの留め金、普段はもっとくすんでいたはずだ。


(磨いた——のかしら)


「カイン様」


「踊るんだろう」


 手が、差し出された。


---


 大きな手だ。


 わたくしはその手を取った。


 指が触れた瞬間、心臓が一拍、ずれた。


 人が見ている。コンラート老人がこちらを見て、弦の速度を少し上げた気がした。マルクスの笛が、少し明るくなった気がした。周りの人たちが、ちらちらとこちらに目を向けている。


(みんな、知っています——という目をしているのですが)


---


 踊り始める。


 春祭りのときを思い出した。あのとき、カイン様のステップは少し硬かった。大きな体を持て余すような、どこかぎこちない動きだった。でも一曲の間に少しずつ解れて——最後の頃はそれほど悪くはなかった。


 今夜は——違った。


 リズムに乗っている。足の置き方が、ちゃんとしている。重心がぶれない。


---


(練習したのだ)


 気づいた瞬間、胸の奥で何かが溢れそうになった。


 この人は、言わない。言わないけれど——している。


 春祭りのあと、どこかで一人で、曲に合わせてステップを踏んでいたのだろうか。誰も見ていないところで、大きな体を動かして、拍子を数えながら。


 そんな場面を想像したら、笑えるような、泣けるようなものが喉の奥に来た。


---


「……うまくなりましたね」


 踊りながら、小声で言った。


「そうか」


「春祭りのときより、ずっと」


 カイン様が少し間を置いた。


「……練習した」


 認めた。素直に言った。


---


(素直に言った)


 それだけで、胸がいっぱいになってしまった。


 わたくしは視線を逸らした。篝火の明かりを見た。星を見た。それでも目の奥が熱い。


(泣くな。今ここで泣いたら、台無しです)


 台無しというかむしろ踊れなくなる。足が止まる。


 深呼吸をした。音楽のリズムに合わせて、足を動かした。


---


 一曲が終わった。


 音楽が静かになった瞬間、カイン様の手が——離れなかった。


「カイン様?」


「……もう一曲だ」


「もう一曲ですか?」


「足りない」


---


「足りない」と言った。


 この人が「足りない」と言った。


 普段は「悪くない」がやっとの人が——「足りない」と言った。


(前世のわたくしが今の状況を見たら「それ完全に好きじゃないですか」と冷静に突っ込んでいると思うのですが、今のわたくしにその冷静さはない)


 心臓が、なかなか落ち着かない。


---


 マルクスの笛が、また始まった。


 コンラート老人の弦が重なる。


 さっきより少しだけゆっくりな、夜の曲。


 カイン様の手が、もう一度動いた。


 わたくしはその手を取った。


 今度は、最初から胸の奥がいっぱいだった。


 篝火の明かりが揺れている。星が近い。音楽が夜に溶けていく。


 辺境の短い夏に——夜が、更けていく。



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