第50話「夏の足音」
第50話「夏の足音」
辺境の夏は、短い。
王都育ちのわたくしにとって、それは来る前から知識として持っていた事実だったけれど——こうして実際に迎えてみると、その意味がまるで違って感じた。
春が終わったと思ったら、もう城下の空気が変わっていた。
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市場に行くと、人の顔が明るい。足取りが軽い。荷台に積まれる品物の種類が変わっていく。冬の間は乾物と保存食ばかりだったのが、今は色が増えた。黄色い瓜、赤みがかった根菜、どこかの村から運ばれてきたらしい小さな夏の果物。
子供たちが市場を走り回る声が、以前より高い。
(辺境に、夏が来た)
そう実感したのは、そういう小さなことの積み重ねからだった。
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グラフの夏市、という言葉を最初に聞いたのは、ウルズラからだった。
「辺境の一年で一番活気のある時期だよ。短いからこそ、みんな弾けるんだ」
言いながら、彼女は大きな手を打ち合わせた。豪快な仕草。でも目の奥に、本物の楽しみが光っていた。
「他領からも商人が来るし、旅人も来る。去年は三日間で百五十人は来たかな。今年はもっと増えるかもしれないよ、なんたって辺境の評判が変わってきたから」
「それは——嬉しいですわ」
「あんたのおかげだよ」
「みなさんのおかげです」
「謙遜しなくていい」
ウルズラはそう言って、また大きく笑った。
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その夜、わたくしは夏市の記録を引っ張り出した。
過去の記録は、ハンスたちが整理していてくれた。出店数、来客見込み数、他領からの商人の数、前年比の収益——。
数字を追いながら、頭の中で別のものが動き始めていた。
(これは、祭りの規模に対して導線の設計が甘い)
(他領からの客は、初めて来る人が多いはず。最初の十分で迷ったら、もう回らない)
(食べ物の匂いは入口近くに集める。音楽は奥から聞こえるようにする。出口付近に工芸品の屋台を置けば、帰り際に財布の紐がゆるむ)
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前世でそんなことを考えたことがあったか、と思い返すと——あった。
社内の展示会企画を、上司に丸投げされてほとんど一人でやったことがある。会場の動線、来場者の誘導、「最初の十分で印象を作る」——そういうことを、三日間ろくに眠らずに考えた。
あのときは報われたのかどうかよくわからないまま終わったけれど。
(前世で使い切れなかった分を、ここで使うとは思っていなかったけれど)
まあ、使えるものは使う。それがわたくしの流儀だ。
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翌朝。
わたくしは管理棟のテーブルに城下の配置図を広げた。
ディートリヒが横から覗き込んでいる。
「これは——夏市の出店配置図ですか」
「そうです。今年から変えます。入口から左に回って、まず食べ物の屋台。香りで引き込みます。ウルズラの保存食の屋台は入口から三つ目——においが届く位置に」
「なるほど」
「次に工芸品と鉱山系の加工品——ゲルツさんたちのルーン石ペンダントはここ。目で止める。右奥に音楽の場所を設けます。音が奥から聞こえれば、自然と人が奥まで足を進める」
ディートリヒが、ふむ、と腕を組んだ。
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「エリナ様」
「はい」
「これは——かなり本格的な配置設計ですね」
「祭りというのは、動線です。人がどこで立ち止まって、どこで手が動くか——それを意識して作るかどうかで、全体の収益が変わります」
ディートリヒが、少し驚いた顔をした。
「そのような観点で祭りを設計したことは、当地では……」
「なかったでしょうね」
(前世の経験から来た話なので、あまり詳しく説明するとボロが出るのですが。このくらいにしておきましょう)
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「……なるほど」
後ろから声がした。
振り返ると、いつの間にかカイン様が立っていた。外套はまだ着ている。巡回から戻ってきたばかりらしく、埃が少し積もっていた。
「聞こえていましたか」
「ちょうど入ったところだ」
カイン様が地図の端に視線を落とした。大きな手が、配置図の端をそっと辿った。
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「祭りの準備は」
少し間があった。
「——お前が得意だろうな」
ぼそっと、でも確かにそう言った。
「得意というか——考えるのが好きなのです。人の動きを想像するのが」
「同じことだ」
カイン様がそっけなく言う。でも否定ではなかった。
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「では、カイン様も一緒にやりましょう」
提案すると、カイン様の眉が動いた。
「……俺が?」
「はい。領主が顔を見せてくださると、他領の商人の方への印象が全然違います。それに、夏市の最終配置の確認は、カイン様にしていただいたほうが現場との齟齬が出にくい。巡回で把握している道の状態があるでしょう」
「それは——」
「合理的でしょう?」
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カイン様が目を細めた。
「お前は人を動かすのがうまい」
「褒め言葉として受け取っておきます」
「……そのつもりで言った」
ディートリヒが書類に視線を落とした。顔が少し下を向いている。肩が微妙に揺れているような気がしたが——見なかったことにしておく。
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「祭りは——俺は苦手だ」
カイン様が、静かにそう言った。
「……そうなのですか」
「人が多い。騒がしい。どこを向いていいかわからなくなる」
「人見知りではないですか、カイン様」
「違う」
「でも、にぎやかな場所が苦手なのでは」
「——似たようなものかもしれない」
珍しく素直な答えだった。
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わたくしは少し考えてから、言った。
「お祭りですわよ。楽しまないと損です」
「楽しめとは言われても——」
「苦手なことを、いきなり得意にしろとは申しておりません。でも——傍に誰かいれば、少しは違いませんか。知っている顔が一つあるだけで、人の多い場所は変わります」
カイン様が黙った。
(ちょっと踏み込みすぎたかしら)
でも——引っ込める気はなかった。
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窓の外から、城下のざわめきが届いてくる。
夏市の準備が始まっている。荷車の車輪音、飾り物を運ぶ掛け声、子供たちの歓声、ハンマーで何かを打ち付けている音——。
わたくしはその音を聞きながら、視線を動かした。
窓辺の鉢植えを見た。
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白い花が、一輪、開いている。
朝の光の中で、五枚の花びらが静かに広がっていた。中心だけが、ほんのりと淡い黄色。
「……咲いたか」
カイン様が小さく呟いた。わたくしと同じものを見ていた。
「はい。ようやく」
わたくしが答えると、カイン様は少しの間、その花を見ていた。
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何を考えているのかは、わからない。
でも——その横顔が、柔らかかった。
いつもは何かを見定めている目が、今は違う。ただ、そこにあるものを受け取っている目だった。
(この人は、こういう小さなものに——ちゃんと目を向ける)
最初の頃は気づかなかった。でも今は、見えている。カイン様は無骨で言葉が少ないけれど、見落とさない。大切なものを、見落とさない。
それが——この人の、一番好きなところかもしれない。
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「カイン様」
「何だ」
「夏市では——わたくしと一緒に、踊ってくださいますか」
言ってから、少し驚いた。自分でも唐突だと思った。
でも——春祭りのことが、頭の中にあった。あのとき「一曲だけだ」と言って、少し不器用なステップで手を引いてくださったこと。大きな手の温度。篝火の明かり。あの一曲が——まだ、胸の中にある。
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カイン様がこちらを見た。
表情は読めない。でも目が、少し変わった気がした。
沈黙が落ちた。長くもなく、短くもない、不思議な時間。
「……考えておく」
それだけ言って、外套の埃を一度払い、部屋を出ていった。
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扉が閉まってから、ディートリヒが視線を上げた。
「エリナ様」
「何でしょう」
「辺境伯が『考えておく』と言うときは——大抵、やります」
にこりともせずに言う。事実として述べているだけ、という顔だ。
「……そうなのですか」
「はい」
「どのくらいの割合で?」
「自分の観測範囲では、ほぼ百です」
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わたくしは地図に目を戻した。
頬が少し熱い。
(夏なので、気候のせいだと思っておきます)
窓辺の白い花が、風もないのにかすかに揺れた気がした。
50話まで読んでいただき、ありがとうございます!
気づけば50話……書いている本人が一番びっくりしています笑
エリナがここまで元気に辺境で生きてこられたのも、読んでくださる皆様のおかげです。
ブックマークや評価もとても励みになっています。ありがとうございます!
第2章も中盤になってきましたが。引き続きよろしくお願いします!




