第49話「差し金」
第49話「差し金」
クラウスが書状を読み終えたのは、届いてから三十秒も経たない頃だった。
短い。ルドルフからの急報は必要な事実だけを並べていた。辺境への物資輸送が止められた。王都の商人ギルドから複数の支部に通達が下り、中小商会を中心に差し止めが行われている。表向きの名目は「街道の安全確認」。背後には政治的意図がある。
机の上に書状を置いた。
次に、もう一通。ルドルフとは別のルートで入った情報——近衛騎士仲間の伝手から回ってきた断片。
商人ギルドの副会長、ハウアーという男が動いた。王侯の名義を使って。
「——許さない」
クラウスは立ち上がった。
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二日で情報は揃った。
近衛騎士として王宮の内側に出入りできる立場を利用し、ギルドの事務局にも顔が効く知人を通じて確認を取った。
ハウアーが受けた依頼は、ある令嬢からのものだった。名義はアルフレート殿下。しかし殿下本人がこの件に関与した形跡はない。
(殿下の名を勝手に使った)
そうなれば、答えは一つだ。
クラウスは近衛の同僚に一言断り、王宮の奥へ足を向けた。
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シュテファン・フォン・ルヴェンタール第一王子の執務室は、王宮の二階、北向きの静かな一角にある。
扉の前に立つ衛兵にクラウスが名を告げると、すぐに通された。
「ヴァルトシュタイン卿。どうぞ」
シュテファン殿下は書類の束を脇に置いて立ち上がった。二十四歳。金褐色の髪に灰青色の目。アルフレート殿下とは母が違い、気質がまるで異なる人物だ。
冷静で、聡明で——怒鳴る代わりに静かに事実を積む人だった。
「聞いております」
クラウスが口を開く前に、殿下が先に言った。
「辺境への物資差し止めの件ですね」
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「早い」
クラウスは率直に言った。
「近衛騎士が動けば、こちらにも情報は入ります」
殿下が机の端に腰をかけた。くだけた姿勢だが、視線は真剣だった。
「ヴァルトシュタイン令嬢への妨害であることは把握しています。商人ギルド副会長のハウアーが実行に動いた。使われた名義はアルフレートのもの」
「しかし」
「しかし——アルフレートは関知していない」
クラウスの眉が動いた。
「メリア・シュヴァルツ」
殿下の口から、その名前が静かに落ちた。
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翌朝。
シュテファン殿下は、王宮の応接間に商人ギルド副会長ハウアーを呼び出した。
応接間に通されたハウアーは、第一王子が席についているのを見て、明らかに顔色を変えた。恰幅の良い体が、扉をくぐった瞬間に縮んだ。
「ハウアー副会長。おかけください」
殿下の声は穏やかだった。怒鳴らない。声を荒らげない。だからこそ——重い。
「先日の件について、確認したいことがあります」
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「辺境伯領への物資輸送の差し止め。あなたが中継倉庫に通達を出しましたね」
「はい——ですが、それはアルフレート殿下の御名を——」
「アルフレートは関知していません」
ハウアーの顔から血の気が引いた。
「……え」
「この件に関して、アルフレートには直接確認を取りました。彼は今回の輸送差し止めに一切関与していない。あなたに依頼をした人物が、殿下の名前を——無断で使いました」
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ハウアーの唇が開いて、閉じた。開いて、閉じた。
殿下が続けた。
「王国法第三十七条をご存じですか」
ハウアーは答えられなかった。
「王侯貴族の名義を詐称して経済活動に介入することは、重罪に当たります。加えて、ドラクロワ辺境伯領への不当な物資差し止めは、辺境伯との通商協定に反する王国法違反でもある」
ハウアーが椅子の上で縮んだ。太い首が肩に埋まるような姿勢になった。
「依頼をした人物の名前と、交わした内容の全てを文書にまとめてください。三日以内に」
「……かしこまりました」
「素直に協力いただけるなら、処分は最低限に留める用意があります」
ハウアーが青い顔のまま退出した後、殿下は侍従に告げた。
「商人ギルドの監査を入れる。副会長職は当面停止だ」
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同日の夕刻。
シュテファン殿下は、アルフレートの居室を訪ねた。
「兄上。何のご用ですか」
アルフレートはソファの上に書類を広げていた。立ち上がりかけて、兄の表情を見て止まった。
「今日、商人ギルド副会長を王宮に呼んだ。辺境への物資差し止めの件で」
「辺境?」
「商人ギルドが辺境伯領への輸送を差し止めていた。名義は——お前のものだった」
アルフレートが書類から手を離した。
「俺が? そんな命令は出していない。誰が——」
「メリア・シュヴァルツが、お前の名前で依頼した」
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静寂が落ちた。
窓の外で鳥が一声鳴いて、それも遠くへ消えた。
アルフレートの顔から色が引いた。
「メリアが——そんなことを?」
「ハウアー副会長の供述で確認が取れている。メリア嬢がお前の名前を使い、辺境伯領への輸送を止めるよう依頼した。ドラクロワ辺境伯領には今、ヴァルトシュタイン令嬢がいる。メリア嬢にとって、令嬢の活躍は——都合が悪かったのだろう」
アルフレートが何も言わない。
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シュテファンは弟の目を見た。
「お前は——本当に何も知らなかったのか」
声は低く、落ち着いていた。怒鳴っているわけではない。むしろ静かすぎた。
だからこそ——その言葉が重い。
確認の形をした問いだった。しかし、その確認の中に別の問いが含まれていた。「知っていたのに黙っていたなら、お前は共犯だ」——その言葉を、シュテファンは口にしていない。口にする必要がなかった。
アルフレートの表情が揺れた。
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「……知らなかった。本当に。俺は——」
「わかった」
シュテファンは短く頷いた。
しかし、そこで止めなかった。
「だが——知らなかったとして。今、何と言う」
問いの形は変わっていた。「過去」から「現在」へ。お前は今、この事実をどう受け止めるのか。
アルフレートが口を開いた。
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「……メリアは悪くない」
声が小さかった。
「あいつは——俺のためを思って——」
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シュテファンの目が変わった。
怒りではなかった。怒りよりもずっと低い温度の、静かな目。失望——に近いが、それすらも超えた先にある、冷えた透明な目だった。
「では、お前が全責任を取るのだな」
「それは——」
アルフレートの声が詰まった。
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シュテファンは一歩も動かなかった。
「メリア嬢がお前の名で行った行為だ。お前が責任を取ると言うなら、それはそれで筋が通る。名義を使われた当人として、全ての処分を自分の身に引き受ける——そう言うのか」
アルフレートは黙っていた。
「メリアは悪くない」と言った。しかし——「俺が全責任を取る」とは言えなかった。
その間の沈黙が、すべてを語っていた。
庇う言葉は出た。けれど、身を差し出す覚悟は出なかった。
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「自分の名を勝手に使われて——なお庇うか」
シュテファンの声は、静かなまま続いた。
「お前の政治的信用は、今この瞬間にさらに失われた。わかっているか」
「……兄上」
「わかっているか、と聞いている」
アルフレートは目を逸らした。
窓の外を見た。夕暮れの王都が赤く染まっていた。その赤が、廊下まで伸びてきて、アルフレートの足元に届いていた。
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シュテファンは立ち上がった。
「今回の処理は俺がする。お前は何もしなくていい」
それは許しの言葉ではなかった。
お前にはもう任せられない、という宣告だった。
「ただ——」
殿下は弟の目を見た。
「自分の名前が何に使われているか、これからは目を配れ。それすらできないなら——お前に残された信用は、もうない」
それだけ言って、部屋を出た。
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扉が閉まった後、アルフレートは一人でソファに座っていた。
書類は広げたままだった。
(メリアは悪くない)
もう一度、心の中で繰り返した。
しかし——さっきより、その言葉が軽くなっていた。口にした瞬間に兄の目が変わった、あの一瞬が、頭の奥に貼りついて離れなかった。
(俺は——メリアを庇った。でも、責任は取れなかった)
その二つの事実が、矛盾していることに——気づいていないふりをした。
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クラウスの手紙が届いたのは、七日後の朝だった。
わたくしは封を開けて、中の文字を追った。
兄の字は豪快で、少し崩れている。でも読みにくいわけではない。昔からこういう字だった。
——犯人はメリアだった。シュテファン殿下が処理してくれた。商人ギルド副会長は聴取の上、当面の業務停止処分。メリアへの処分については殿下が検討中とのこと。
——アルフレートは今回の件に関知していなかった。だが名義を使われていたことへの対応もできずにいる。あの男は——もう自分で自分の足元を見ることすらできなくなっているように見える。
そして最後の一文。
——お前のことは、俺たちが守る。
二度、読んだ。
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「……メリア様は」
思わず声が出た。
「まだ、こんなことを」
しかし——怒りは来なかった。
来なかった、というよりも、湧いてこなかった。
(あの人は追い詰められているのだ)
そう思った瞬間、怒りの代わりに来たのは——しんとした哀れみだった。
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メリア様を恨んでいないわけではない。
でも——わたくしを傷つけることで自分の立場を守ろうとしている人間に、今さら憎しみをぶつける気にはなれなかった。
前世の自分なら、怒っていた。正面からぶつけに行っていた。
今は違う。怒りよりも先に、相手の「なぜ」が見える。見えてしまうのが、今のわたくしだ。
(聖光石が弱まっている。治癒にも失敗した。立場が揺らいでいる。だから——わたくしを引きずり下ろすことで、自分を守ろうとした)
理屈はわかる。わかってしまう。
だからこそ——哀れだと思った。
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カイン様が来たのは、昼過ぎだった。
巡回から戻ってきた様子で、外套に埃が少し積もっている。
「クラウスから手紙が届きました」
わたくしは書状を差し出した。カイン様が受け取って、目を通す。
読んでいる間、表情は動かなかった。でも——目が少し、細くなった。
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カイン様が書状を返した。
「シュテファン殿下が動いたか」
「はい。お兄様も」
「……そうか」
カイン様が立ったまま、窓の外を一度見た。それからわたくしの方に視線を戻した。
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「エリナ」
「はい」
「お前に手を出す者は——俺が許さない」
静かな言葉だった。怒鳴っているわけでも、剣を抜いているわけでもない。ただ低く、重く——声が落ちてきた。
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(これは領主としての言葉だろうか)
そう思おうとして——できなかった。
「お前に手を出す者は」。その言葉はわたくし一人に向けられていた。領民を守る宣言ではなく、わたくしという個人への——。
そのことがわかってしまった。
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「……ありがとうございます、カイン様」
声が少しかすれた。
カイン様は何も言わなかった。ただ、深緑の目で静かにこちらを見ていた。
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「パンが来ている」
カイン様が唐突に言った。
「……パン、ですか」
見ると、机の端に小さな布包みがあった。いつからそこにあったのか、わたくしは気づかなかった。
「ヨハンナに頼まれた」
(嘘だ)
確信があった。ヨハンナがカイン様にパンの配達を頼む理由がない。それにこのパンは——ゾフィが朝焼きするもので、管理棟には直接来ない。わざわざ厨房に寄って、持ってきてくださったのだ。
「……ありがとうございます。いただきますわ」
カイン様は頷いて、椅子を引いた。いつものように、向かいに座った。
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わたくしは筆を取った。帳簿を開いた。
向かいに座るカイン様の気配を感じながら、午後の仕事を再び始めた。
窓の外、グラフ城の城下に、荷車が一台走っている。リーベックへの新しいルートを通ってきた荷だ。
止めようとした誰かがいた。でも止まらなかった。流れは続いている。
(お兄様が動いてくれた。殿下が処理してくださった。カイン様が怒ってくださった)
わたくしは、一人ではない。
そのことが——前世よりずっとよく、わかる。
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布包みのパンは、まだ少し温かかった。
(ヨハンナに頼まれた、と言ったあの人が——厨房で焼きたてのパンを受け取っている姿を想像すると)
帳簿に向かいながら、口元がほどけた。
(止まらないわ。何があっても)
窓の外の荷車が、今日も新しい方角へと向かっていく。辺境は止まらない。




