第54話「辺境の花」
第54話「辺境の花」
朝、目が覚めたとき——まず、光に気がついた。
カーテンの隙間から、秋の始まりを少し含んだ夏の朝日が差し込んでいた。夏の光だが、少しだけ柔らかい。季節が、ゆっくりと動いている。
起き上がって窓辺に歩いた。
鉢植えを見た。
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咲いていた。
二輪目が——咲いていた。
一輪目より、少し大きい。五枚の花びらは同じだが、開き方が違う。一輪目がそっと開いたとするなら、二輪目はのびやかに、空間に向かって広がっていた。
白い花びら。中心の淡い黄色。
「……おはようございます」
声に出したのは、自分でも気づかなかった。誰かに言ったわけではなくて——ただ、この花に。そうしたかったから。
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(泥の中にいたのに。あの春の朝、カイン様が拾い上げてくれた芽が)
と思って、すぐに打ち消した。あの頃のことを思い出すのは好きだが、今はただ、この花が咲いたことが——嬉しかった。
二輪目は、一輪目より大きい。
これからもっと、咲くかもしれない。
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管理棟に向かう廊下は、もう慣れた道だ。
朝の灯りが廊下の天井に揺れている。石の床に、自分の足音が響く。
「おはようございます、エリナ様」
フリッツが廊下の端で頭を下げた。城代として何十年も務めてきた老人で、最近ではわたくしの朝の時間を完璧に把握していて、お茶の用意が必ずちょうど合っている。
「おはようございます、フリッツ」
「今朝のパン菓子は、ゾフィが新しい配合を試みたそうです。蜂蜜の量を少し増やしたとのことで」
「それは楽しみです」
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管理棟の扉を開けると、ゾフィのスープの匂いが流れてきた。
今日は何のスープだろう。あの匂いは——根菜の濃い出汁だ。冬野菜がまだ残っているのかもしれない。いや、温室の秋野菜が出始めたのかもしれない。
(どちらにせよ、今日も美味しいわね)
廊下の角でディートリヒとすれ違った。
「おはようございます、エリナ様。今日は北側の畑の確認が入っています。よろしければ昼前に——」
「わかりました。午前の帳簿を終えてから、ご一緒します」
「ありがとうございます。あと、今日は旦那様の朝のお茶が少し早いかもしれません。北側の確認前に巡回が入っているようで」
「ご連絡ありがとうございます」
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「エリナさーん!」
奥の方からルーカスの声がした。
走ってくる足音。このパターンは毎朝同じだ。走ってくる、手に何かを持っている、笑顔で何かを告げる——の三段階。
「今日のパン菓子、ちゃんと丸い! 昨日は僕が形を整える練習をして——」
「上手にできましたか」
「はい! でもまだゾフィさんの方が早くて」
「練習は続けてください。きっとできます」
「はい!」
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(一年前、ここにこの声はなかった)
廊下を歩きながら、思った。
一年前、わたくしがこの城に来たとき——ここは静かすぎた。人がいるのに、声がなかった。笑いがなかった。
今は違う。フリッツが朝の菓子の情報を教えてくれる。ゾフィがスープの配合を試みる。ディートリヒが予定を確認しに来る。ルーカスが走ってくる。
全部が——一年前にはなかったものだ。
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お茶の時間は、いつもの席だった。
白湯と、ゾフィが少し蜂蜜を増やしたパン菓子。
カイン様が先に座っていた。書類を一枚読んでいたが、わたくしが入ると机の端に置いた。
「おはようございます」
「ああ」
いつもの始まりだ。
わたくしはカップに手を伸ばした。白湯の温かさが、掌から伝わってくる。
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「カイン様」
「何だ」
「辺境に来て——もうすぐ一年になります」
カイン様が、書類から目を上げた。
「……そうだな」
「秋で、ちょうど一年です」
「知っている」
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カイン様がそう言ったとき、少し驚いた。
「知っている」という言葉は、「数えていた」という意味だ。この人は、数えていた。わたくしが来た日を。
(……この人は、本当に)
何かを言いたかったが、言葉が追いつかなかった。
代わりに、こう言った。
「わたくし、後悔していません。一度も」
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短い沈黙があった。
カイン様の目が——まっすぐにこちらを見た。
深緑の瞳に、言葉にならない何かが溢れていた。感情という言葉があまりにも普通すぎて、何と呼べばいいかわからない。ただ——それは、確かにそこにあった。
「……知っている」
また、同じ言葉だった。
でも今回の「知っている」は、最初の「知っている」とは違う重さがあった。
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お茶の時間の間、わたくしは窓の外を時々見た。
辺境の朝が広がっている。城下の屋根。遠い山の輪郭。道を歩く人の影。
一年前、はじめてここを見たとき——「遠くに来てしまった」と思った。王都の賑やかさも、社交界の慣れた空気も、なじみの顔も、ここにはない。あるのは石と風と、素直すぎるほど素直な人々だけだった。
今は違う見え方をする。
(ここが——わたくしの場所だわ)
そう思える日が来るとは、あの頃のわたくしは想像していなかった。
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(前世のわたくしは、居場所という感覚を知らなかった)
ぼんやりと思う。
会社に「居場所」があったかと聞かれたら——なかった。机と業務があっただけだ。それで十分だと思っていた。十分以外を想像できなかった。
今世の王都もそうだった。令嬢として、婚約者として、あるべき場所にいただけで——そこが「わたくしの場所」だったことは、一度もなかった。
ここは違う。
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「カイン様」
「何だ」
「わたくしはこの辺境を変えたかった——と、最初は思っていました」
カイン様が少し首を傾けた。続きを待っている。
「でも——変わったのは、わたくし自身だったのだと、最近そう思います」
「……」
「以前のわたくしでは知らなかったことをたくさん知りました。人を信じること。頼ること。一緒に笑うこと。それから——」
わたくしは少し、止まった。
「誰かを好きになること、も」
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カイン様が、何も言わなかった。
でもカップを置いた。そして——目を逸らさなかった。
わたくしも逸らさなかった。
深緑の瞳が、静かにこちらを見ている。夏市の夜、城壁の上、月夜の対話——あの全ての時間の記憶が、今この瞬間に重なっていた。
「好きになること」という言葉が、空中に浮かんでいるような気がした。
どちらも、それを追わなかった。ただ、そこに置いた。
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窓から風が入った。
白い花びらが、かすかに揺れた。
カイン様の視線が、一瞬だけ鉢植えに移った。それからわたくしに戻った。
「……二輪目が咲いた」
「はい。今朝、気がつきました」
「一輪目より——大きい」
「そうなんです。同じ花なのに、咲くたびに大きくなるのかしら」
「……大きくなるものだ。根が張れば」
その言葉の意味を、わたくしは受け取った。そのまま、全部。
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沈黙が落ちた。
お茶の時間には、ときどきこういう沈黙がある。何も言わなくていい沈黙。言葉の代わりに、何かが伝わっている、と感じる時間。
前世では、こういう時間が怖かった。何かを話さなければ、と焦っていた。沈黙は関係の薄さの証明だと思っていた。
今は違う。
この沈黙に、温度がある。
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カイン様が立ち上がった。
「午後の巡回に出る」
「お気をつけて」
いつもの言葉。いつもの別れ方。
カイン様が外套を取って、扉に手をかけた。
そこで——止まった。
振り返る。
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「エリナ」
「はい」
「……明日も、ここで」
「ええ。もちろん」
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扉が閉まった。
わたくしは、しばらく動かなかった。
「明日も、ここで」——という言葉が、胸の中で静かに響いていた。
明日も。ここで。それだけの言葉だ。でも、この人がそれを言うとき——「明日もお前がここにいてほしい」という意味になる。
わかってしまう。この人の言葉の換算が、いつからかできるようになっていた。
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窓辺の鉢植えに歩いた。
二輪の白い花が、朝の光の中に静かに咲いている。
(この花は——まだ、満開ではない)
そう思いながら、花びらをそっと指先で触れた。
わたくしの気持ちも——まだ、全部は伝えていない。でも。
春に咲いた花は、夏に強くなった。
秋に——実を結ぶかもしれない。
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手のひらを開いた。
包帯はもう外したけれど、カイン様が不器用に巻いてくれたときの温もりは——まだ、手のひらの記憶の中にある。
城壁の階段を降りたとき、繋がっていた大きな手。月明かりの中で向かい合った目。篝火の中で踊った夜。「足りない」と言った声。
「明日も、ここで」。
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辺境の朝が、窓の外に広がっている。
短い夏の終わりが見えていて、その向こうに秋が来ようとしている。
クラウス兄様が来る。冬が来る。そしてその先に——まだ見えていない何かが、この辺境に待っている。
何が来ても、ここにいる。
わたくしはそう思いながら、今日の仕事を始めた。
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窓辺の花は——二輪、咲いている。
まだ、咲き始めたばかりだ。
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〈第2章「辺境の花、咲き始める」了〉
第2章、最後まで読んでいただきありがとうございます!
第2章を通して読んでくださった皆様、本当にありがとうございました。
ブックマークや評価がとても励みになっています。
第3章もすでに準備中ですので、引き続きエリナの物語をお楽しみいただけると嬉しいです。
今後の投稿スケジュールについては活動報告でご連絡いたしますのでよろしくお願いします!




