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婚約破棄されたので辺境で好きに生きます〜なぜか辺境伯に溺愛されていますが〜  作者: きなこ
第2章「辺境の花、咲き始める」

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第47話「月夜の対話」

第47話「月夜の対話」


 その夜は、眠れなかった。


 理由はわからない。いや——正確には、わかっているのかもしれないが、言葉にしようとすると逃げていく。


 窓の外に月が出ていた。


 満月だった。夏の夜に珍しいほど大きく、丸く、白く輝いている。月明かりで室内が薄く照らされているほどの、明るい月。


---


(眠れないなら、外に出てもいいかしら)


 起き上がりながら考えた。


 夜の城内を一人で出歩くのは、辺境に来たばかりの頃は遠慮していた。今は——ここが自分の場所になっているから、それほど気にならない。


 薄い上衣を羽織って、部屋を出た。


---


 城壁への階段は、管理棟から少し歩いたところにある。


 細い石の階段を上がりながら、月明かりが濃くなっていくのを感じた。上に出るほど、光が強くなる。風も少し出てきた。夏の夜の冷たさが、頬に触れた。


(この風は好きだ)


 前世の職場の空気とは全然違う。あそこは季節も感じられなかった。閉められた窓、換気の音、白い人工の光——。


 ここには、月と風と石の匂いがある。


---


 城壁の上に出たとき——先客がいた。


 深緑の外套。城壁の縁石に片手を置いて、夜の辺境を見下ろしている、広い背中。


「——カイン様」


 思わず声が出た。


 カイン様が振り向いた。少しだけ、表情が変わった。驚き——というには小さく、でも「予想外」という空気が、一瞬だけ顔をよぎった。


---


「エリナ」


「夜分に失礼します。眠れなくて——外に出てしまいました」


「構わない」


 カイン様はもとの向きに戻った。夜の辺境を見下ろす横顔。月明かりがその輪郭を照らしていた。


(邪魔だったかしら。でも「構わない」とおっしゃった)


 わたくしは少し逡巡してから、カイン様の隣まで歩いた。三歩分の距離を空けて、同じ方向を見た。


---


 辺境の夜が、広がっていた。


 昼間とは全く違う景色だった。


 暗い森が遠く続いて、その向こうに山の輪郭が見える。城下の家々には灯りが少ない。眠っている時間だから当然だ。でもところどころに、橙色の光がぽつぽつと浮かんでいる。誰かがまだ起きている、その証のように。


(こんなに広かったのか)


 昼間に眺めたこともあるが、夜の景色はまた違う。深さが違う。全部が静かで、大きくて——月だけが、煌々と光っている。


---


「カイン様は——ここからの景色が、お好きですか」


 自然に口から出た。


 カイン様が少しの間、沈黙した。それから、低い声で言った。


「……前は、何も思わなかった」


「今は」


「今は——違う」


---


 短い答えだった。


 でも——「違う」だけで、何かが伝わった。


「何が変わったのですか」


 聞いてしまった。


 カイン様が振り向かないまま、しばらく黙っていた。風が吹いた。外套の裾が揺れた。月が、変わらず白く輝いている。


---


「……お前が来てからだ」


 低い声が、夜の中に落ちた。


 わたくしは息を飲んだ。


 カイン様はまだ前を向いていた。横顔だけが見える。月明かりの中で、その顔は普段より少し柔らかく見えた。——夜のせいだろうか。それとも、月明かりのせいか。


---


(お前が来てから)


 その言葉を、胸の中で受け取った。


 こぼれないように、そっと。両手で受け取るように。


 カイン様の横顔を見つめた。


 言葉を持たない人が、こうして言葉にした。それがどれほどのことか——この数ヶ月で、少しはわかるようになっていた。


---


 月が、雲の端を通り過ぎた。


 一瞬だけ陰って、また明るくなった。


 カイン様の視線が、ゆっくりと動いた。


 夜の景色から——こちらへ。


 深緑の目が、月光を映している。暗いはずなのに、その目に光がある。


---


 わたくしは目を逸らさなかった。


 前世のわたくしなら——きっと逸らしていた。直視することが苦手で、感情的な場面を避けていた。でも今のわたくしには——逸らしたくない、という気持ちのほうが強かった。


(ちゃんと見ていたい。この人の顔を)


---


「エリナ」


「はい」


「お前がここにいて——悪くない」


 静かな声だった。


 感情的ではない。でも——この人が「悪くない」と言うとき、それが最上の言葉だということを、わたくしはもう知っていた。


「悪くない」という言葉で、「最高だ」と言う人だということを。


---


 胸が、じわりと温かくなった。


 泣きたいわけではなかった。ただ——何かが満ちていく感覚。


「わたくしも——ここにいられて、嬉しいです」


 声が、少しだけかすれた。


(嬉しい、では足りない気がする。でも今は、これが精一杯だ)


---


 カイン様が、少しの間、黙っていた。


 それからゆっくりと、前を向いた。また、夜の辺境を見下ろす。


 わたくしも同じ方向を見た。


 二人で、同じ景色を見ていた。言葉がなかった。でも——沈黙が苦しくなかった。


 この人との沈黙は、最初の頃と全然違う。あの頃は何を言えばいいかわからなくて、緊張していた。今は——ただ、一緒にいる。それだけで、十分だった。


---


(前世のわたくしには、こういう時間がなかった)


 ぼんやりと思った。


 夜に誰かと並んで、月を見て、ただそこにいる——そういう時間が。


 仕事以外で人と一緒にいることが、あの頃は下手だった。何かを話さなければいけない気がして、沈黙が怖かった。でも何を話せばいいかわからなくて、結局一人の方が楽だと思っていた。


(今は——)


 こうして黙っていても、苦しくない。むしろ、この静けさが——大切に感じる。


---


 城下のどこかで、犬が一声だけ鳴いた。


 遠い音だった。夜の空気の中を、風に乗って届いてきた。


 カイン様が、わずかに目を細めた。


「犬が起きている」


「夜番をしているのでしょうか」


「番犬だからな。夜の方が仕事になる」


「——カイン様は、猫がお好きだとうかがっています」


 カイン様が少しだけこちらを見た。


「ベルンハルトか」


「いいえ、以前ご本人から」


---


 短い沈黙があった。


「……納屋の茶色は、今夜も出てきているかもしれない」


「夜の城を歩いているのですか」


「いつもそうだ。自由に動く」


(自由に動く猫。夜の城を一人で歩き回る——)


(カイン様に似ているような気もするが、これは言わない方がいいだろう)


「いつか、わたくしにも会わせていただけますか」


 カイン様が少しだけ考えるような間を置いた。それから、短く言った。


「気が向けば、向こうから来る」


(それは——どちらの話をしているのだろう)


 聞けなかった。聞かないままにしておいた方が、いい気がした。


---


 どのくらいの時間、そうしていたのだろう。


 月が少しだけ西へ動いた頃、カイン様が短く言った。


「寒くなってきた」


「——そうですね」


 風が強くなっていた。夏の夜とはいえ、辺境の高台の上はよく冷える。薄い上衣では、少し無防備だったかもしれない。


「戻る」


「はい」


---


 城壁の端から階段の入り口まで歩いた。


 先にカイン様が踏み段に足をかけた。それからこちらを振り向いた。


 石の階段は細い。月明かりが届かない分、昇ってきた時よりも暗かった。


 カイン様がわずかに手を伸ばした。


「暗い。足元に気をつけろ」


---


 大きな手が、わたくしの手を包んだ。


 指が、しっかりと、わたくしの手を握った。


 引き離すような力ではなかった。ただ——確かに、繋がっていた。


「……ありがとうございます」


 声が出たのか、出なかったのか、自分でもわからなかった。


 カイン様はそれだけ言って、一段ずつ、降り始めた。手を——離さないまま。


---


 石の階段を降りる。一歩、また一歩。


 カイン様の手の体温が、わたくしの手に伝わった。


(温かい)


 武骨な手だった。騎士として、辺境伯として、長年を過ごしてきた手。同じ手が、鉱山で岩を砕いた。包帯を巻いた。野の花を机の上に置いた。


 そして今——わたくしの手を、こうして握っている。


---


(この温度が——心臓まで届いている)


 階段の最後の一段に、足がついた。


 カイン様が手を離した。自然に、当然のように。


「気をつけて戻れ」


「……はい。おやすみなさいませ」


「ああ」


---


 廊下を歩きながら、手の平を見た。


 もう、そこには何も残っていない。でも——温もりの記憶だけが、確かにあった。


 眠れなかったはずなのに。


 部屋に戻ってから、わたくしはすぐに眠れた。


 月が窓から見えていた。満月が、白く輝いたまま、夜の空にあった。



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