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婚約破棄されたので辺境で好きに生きます〜なぜか辺境伯に溺愛されていますが〜  作者: きなこ
第2章「辺境の花、咲き始める」

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第46話「名前の重さ」

第46話「名前の重さ」


 カイン様が、わたくしの名前を呼ぶ。


 気づいたのはいつからだろう。最初はほとんど「お前」だった。それがこの辺境で一年以上過ごすうちに、「エリナ」が混じるようになった。


「エリナ」と呼ぶとき——声が、少しだけ変わる。


---


「お嬢様、今日はよく顔が赤いですね」


 朝、ヨハンナに言われた。


「日差しのせいですわ」


「管理棟には日差しは入りませんよ」


 鉢植えを見た。蕾は昨日よりもさらに膨らんでいた。白い花びらが、もうほとんど見えていた。


(もうすぐ咲く。あと少し)


---


 その日の午後。管理棟に二人でいる時間があった。


「エリナ」


 声がした。名前を呼ばれた——と気づいた瞬間、わたくしは顔を上げた。


 カイン様が窓の外を向いていた。


「はい」


 短い沈黙が来た。言葉が、来なかった。


「……いや。何でもない」


---


(何でもない? 何でもないって——)


 わたくしは手元の書類を見た。数字が、頭に入ってこなかった。


「カイン様」


「何でもないのですか?」


「……ああ」


「本当に?」


 長い沈黙が来た。庭の方から風の音がした。


「……名前を呼びたかっただけだ」


---


 その言葉が、部屋の中に落ちた。


 わたくしは書類を、机の上に置いた。ゆっくりと、音を立てないように。


(名前を——呼びたかっただけ)


 心臓が、今日一番の速さで鳴っていた。


 カイン様は窓の外を向いたままだった。耳が——赤かった。初夏の光の中で、はっきりと。


「仕事に戻る」


 短く言って、机に戻った。何も起きなかったように。


 でも——そうではなかった。


---


 この人は言葉を選ぶ。感情を言葉にしない。だから行動で示す。水やりをして、お茶を運んで、野の花を机に置いて、散歩の歩幅を合わせて、包帯を巻いて——。


(全部、言葉じゃなかった)


 でも——今、言葉にした。


---


 夕方になって、カイン様が退出した。


 管理棟に一人残って、わたくしはしばらく動けなかった。窓の外では、夕暮れが始まっていた。


(この気持ちに——もう、名前をつけなければいけない)


 一年以上前、辺境に来たばかりの頃には——こんな音を立てなかった。前世のわたくしも、こんな音は知らなかった。


---


 翌朝のお茶の時間。カイン様はいらっしゃらなかった。


 北方の村との定期会議が入っている、とディートリヒ副官から聞いていた。昼前には戻る予定だが、午後もぎっしりだ、と。


 わたくしはヨハンナと二人で、静かにお茶を飲んだ。


(前まではこれが普通だったのに)


 そう気づいた瞬間、少し驚いた。二人きりのお茶が、今は「いつもとちがう」になっている。


---


「お嬢様」


 ヨハンナが、穏やかな声で言った。


「今朝は、ずいぶん窓の外をご覧になっていますね」


「……そうですか?」


「ええ。三度」


 正確に数えていたのか、この人は。


 わたくしは少しばつが悪くなって、カップに視線を落とした。


---


「ヨハンナ」


「はい」


「人を——好きになるというのは、どういう感覚なのですか」


 言葉にしてから、頬が熱くなった。


 我ながら唐突すぎる。けれど今朝からずっと、胸の奥で引っかかっていたことを——口から出す前に止める方法が、わからなかった。


---


 ヨハンナが、少しの間沈黙した。


 それからゆっくりと、温かいものを目の中に灯して言った。


「お嬢様。やっとお気づきになりましたか」


「——え」


「わたくしめは、ずいぶん前から気づいておりましたよ」


 そう言って、カップに口をつけた。にこにこしている。


(待って。その「気づいていた」は、いつから——?)


---


 わたくしは混乱しながら、自分の手を見た。


 昨日、手を動かすたびに、包帯のことを思い出した。昨夜、巻き直そうと思ったのに、結局そのままにしてしまった理由を、今朝になってやっと自分で認めた。


 カイン様が巻いてくれた包帯だから。


 それだけのことで——取り替えたくなかった。


(これは、どう考えても)


---


「名前を呼ばれるだけで、胸が痛いのです」


 思わず声に出た。


「隣にいると、落ち着くのに——落ち着かないのです。おかしいですわよね。矛盾しているのに」


「おかしくはございません」


 ヨハンナが穏やかに言った。


「それが恋というものでございます、お嬢様」


---


 恋。


 その言葉を、頭の中で転がした。


 前世では——恋をしている暇がなかった。


 二十代の前半に、職場の先輩と少しだけ話が弾んだことがあった。でも残業続きで連絡が途絶えて、気づいたら自然消滅していた。「好きだったのかもしれない」と思ったのは、すべてが終わったずっと後のことだ。


「好き」を「好き」として抱きしめたことが——一度もなかった。


---


「前世では、忙しくて気づく暇もなかったのだと思います」


「まあ」


「気がついたら全部終わっていて——次の仕事が来て——そのまま死んで」


(……少し重くなりすぎたかしら)


「笑えない話ですけれど、そういうことです。ですから——」


 わたくしは窓の外を見た。


「今のわたくしが、ちゃんと『好き』を知っているのは——少し、嬉しいのです」


---


 ヨハンナがカップを置いた。


「恋とは——怖いもの、でもございます。怖いからこそ、一人で抱えてはいけないのでございます」


 その言葉が、あの雨の夜を呼び起こした。カイン様の静かな声が、耳の中に戻ってきた。


「だから——お前には、同じようになってほしくない」


(カイン様が言ってくださったことと——同じだ)


---


「でも、わたくしは婚約破棄された身ですよ」


 言葉が口から出た。


「辺境伯のお屋敷に厄介になっている立場で。カイン様は、この辺境を背負っていらっしゃる。政治的な重さが違いすぎますし——そもそも、わたくしに資格があるのか——」


「お嬢様」


 ヨハンナが、静かに遮った。


---


「今おっしゃったことは、すべて、頭で考えたことでございます」


「……はい」


「でも、お嬢様がお尋ねになったのは——感覚のことでしたね」


 わたくしは黙った。


 そうだった。「好きになるとはどういう感覚か」と聞いた。それに対して、頭で答えを返していた。


(前世からの癖だ。感情の問いに、論理で答えようとする)


---


「ヨハンナ。わたくしは——どうすればいいのでしょう」


 情けない声だと思いながら、聞いてしまった。


「頼ることを、覚えてくださいませ」


「頼ること」


「お嬢様は、お一人でなんでもおできになります。それは素晴らしいことです。でも——頼ることで、伝わるものもございます」


---


 ヨハンナが立ち上がり、鉢植えに近づいた。


 日当たりのいい窓辺に置いた鉢。何ヶ月も世話を続けてきた、あの小さな植物。


「まあ」


 ヨハンナが声を上げた。


「お嬢様、ご覧くださいませ」


---


 わたくしは立ち上がって、窓辺に歩いた。


 白かった。


 それが最初の印象だった。


 何ヶ月も見続けてきた蕾が——今朝、開いていた。


 小さな花だった。五枚の花びら。雪のように白く、中心だけがほんのりと淡い黄色を帯びている。


 初夏の光の中で、その花は静かに——ただ、咲いていた。


---


「……咲きました」


 声が少し掠れた。


 蕾のころを思い出した。泥の中から救い出して、鉢に移したあの朝から。どうか枯れないでと思いながら水をやり続けた冬から。葉が増えるたびに嬉しかった春から。


 白い蕾が膨らむのを、毎日少しずつ確認していた。


 あの全部が、この一輪に繋がっていた。


---


「花が咲くには、時間がかかります。でも時間をかけた分だけ——しっかりと咲きます」


 その言葉が、花だけに向けられていないことは、わかった。


 わたくしは、白い花びらをそっと指先で触れた。


(泥の中にいたのに。こんなにきれいに咲いた)


---


「頼ることが——怖いのです」


 認めてしまった。


「嫌われたくない。迷惑をかけたくない。この居場所が、なくなるのが怖い」


「お嬢様」


 ヨハンナの声が、柔らかく包んだ。


「それをそのままお伝えできるようになったとき——あなたは本当に、この土地の人になれます」


---


 窓から風が入った。


 白い花びらが、かすかに揺れた。


 一枚も落ちなかった。ちゃんと咲いたまま、風を受けていた。


---


 その夜、わたくしは一人で窓辺に立った。


 月明かりの中で、白い小さな花が静かに浮かび上がっている。


 胸の中に、名前をつけなければならないものがある、とわかっていた。


「好き」というたった二文字。こんなに小さな言葉が——こんなに大きく胸を占領するとは思わなかった。


---


 カイン様の声が、また聞こえた気がした。


「エリナ」


 名前を呼ばれるだけで——心臓が、一回分余計に動く。


(これが恋なのですね)


 ようやく、ちゃんと認めた。


 窓辺の白い花に、もう一度目を向けた。


「わたくしも——咲いたのかしら」


 声に出したら、少し泣きたくなった。


 でも——嫌な泣きたさじゃなかった。


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