第45話「変わる距離」
第45話「変わる距離」
お茶の時間が、変わってきていた。
最初の頃——半年以上前のことだ——カイン様とのお茶は、ほぼ仕事の話だった。領地の問題、食料の計画、村の状況。沈黙が多く、互いに書類を広げていることもあった。
今は違う。
書類を持ってこない日も、ある。
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「カイン様は、どの季節がお好きですか」
午後のお茶を一口飲んで、わたくしは何気なく聞いた。
「秋だ」
「秋。どうして?」
「収穫が終わる。冬の備えが整う。やるべきことが一つずつ片付いていく感じがある」
(仕事に結びつけるあたりが、いかにもカイン様らしい)
でも何かが温かくて、わたくしは少し笑った。
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「好きな食べ物は」
今度はカイン様から聞いてきた。
(珍しい。カイン様から個人的な質問をしてくるのは、最近のことだ)
「燻製サーモンです。この辺境に来て初めて食べて——あの味は忘れられませんわ」
「……あれは領内自慢の品だ」
「カイン様は?」
「黒パンだ。子どもの頃から食べていた。母が毎朝焼いていた」
その話が出るとき、カイン様の声は少しだけ変わる。お母様のことを語るとき特有の、静かな声。
わたくしはそれに気づいていた。気づいて、大切に聞いていた。
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翌日の午後、城のどこかに隠れている茶色い猫の話になった。
「その子、名前はありますか」
「……つけていない」
「そうなのですか。なぜ」
「懐いてくれるとは思っていなかった。最初の二年は逃げていた」
(二年かけてやっと懐かせたのか——)
「カイン様に懐くのに二年かかったということは、その猫もよほど頑固な性格なのですね」
「そうかもしれない」
カイン様が少し考える顔をして、言った。
「似た者同士なのかもしれないな」
(自覚はあるんですね)
笑いをこらえながら、わたくしはカップをテーブルに戻した。
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翌々日の夕方近く、ディートリヒが「今日は日差しが柔らかいですから、少し外に出られてはいかがです」と言った。
カイン様が立ち上がった。
「散歩がてら、南の畑の状況を確認する。エリナ、来るか」
「はい、喜んで」
城の裏手から庭に出ると、春の光が柔らかく落ちていた。花壇には先月植えたばかりのハーブが芽吹き始めている。
カイン様が歩き始めた。
わたくしはその横に並ぼうとして——カイン様の歩幅が、自然にわたくしに合わせて遅くなっていることに気づいた。
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(気づいてしまった)
カイン様の普段の歩き方は、騎士のそれだ。速くて、まっすぐで、迷いない。
今はゆったりしている。わたくしの隣で、わたくしの足の運びに合わせて、静かに歩いている。
「カイン様は——犬がお好きですか?」
何か言わないと、心臓がおかしなことになりそうで、わたくしは口を開いた。
「なぜ犬の話だ」
「城下の鍛冶屋さんのところに大きな犬がいて、カイン様が通るたびにじゃれついていると聞きましたので」
「……猫だ」
「え?」
「好きなのは猫だ」
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(意外すぎる)
「あの、意外ですわ。犬の方がカイン様に似合いそうで」
「似合う似合わないで選ぶものではない」
カイン様が少しだけ口角を動かした。
「お前、今俺のことを言ったのか」
「そんなことは!」
「城に一匹いる。納屋の辺りにいつもいる茶色の。人に懐かない。俺が近づくときだけ寄ってくる」
人に懐かない猫が、カイン様だけに寄ってくる。そういうことが——なんとなく、納得できた。
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畑を一周して、城へ戻る道に差し掛かったとき。カイン様が急に立ち止まった。
わたくしの方を見ていた。正確には、わたくしの頭の少し上あたりを。
カイン様がゆっくりと手を伸ばした。
「……花びらが」
低い声が言った。指先がわたくしの髪に触れた。
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花びらを取り除くための、そっとした動作。
でも——カイン様の指が、止まった。
ほんの一瞬。髪の上に触れたまま、動かなかった。
(この人の手が、今——)
心臓が跳ねた。
カイン様の表情が、かすかに変わった。何かを思ったのが、顔に出た。「柔らかい」と感じた人の顔だ、とわたくしには見えた。
手が引かれた。けれど——その速度が、ゆっくりだった。
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「……花びらが、ついていた」
「あ、ありがとうございます」
声が、少しかすれた。
カイン様が視線を逸らした。畑の方を向いた。
ディートリヒが、三歩後ろで石像のように立ち尽くしていた。
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翌朝から書類が多かった。
ルーン石の採掘計画の最終版に、鉱山の警備隊編成の案が加わり、それに加えてルドルフから届いた王都の魔法道具商との交渉結果の報告書——。
「お嬢様、今日は管理棟と執務棟を三往復されましたね」
お昼前にヨハンナが言った。
「書類を届けないといけませんもの」
「使いに行かせればよいのですよ」
「その方が話が早いので——」
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ヨハンナが小さくため息をついた。
それ以上は言わなかった。わたくしが「体を動かしたい性分」であることを、もう知っているからだ。
回復から一ヶ月が経ち、魔力もすっかり戻った。体を動かさないでいる方が、かえって落ち着かない。
「では、これを最後にします」
「お約束ですよ」
書類の束を抱えて、管理棟を出た。
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廊下は石畳だ。
冬の間はよかった。分厚いブーツで歩くから、足元が安定している。
でも春になると、ヨハンナが「足元が軽くなりますから転ばれないように」と言う。その意味を——体で理解することになった。
三段ある階段の、一段目。
革靴の底が石に滑った。
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「——っ」
書類の束が宙を舞った。
わたくしは片手を石壁につきながら、なんとか立った。転倒はしなかった。でも——壁に手をついた瞬間、少し擦った。
書類が廊下に散らばっていた。
(ヨハンナに言わないようにしよう)
膝をついて書類を拾い始めたとき、後ろから足音がした。
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「何をしている」
振り返ると、カイン様だった。
偶然にもほどがある。この廊下は、東棟から執務棟へ向かう道だ。カイン様も移動中だったらしい。
「転びそうになっただけです。書類が散らかってしまいまして」
カイン様が屈んで、わたくしの代わりに書類を集め始めた。
「……ありがとうございます。ご自分でなさらなくても——」
「手が赤い」
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短い声だった。
カイン様がわたくしの右手を見ていた。
廊下に手をついた際、石で少し擦れていたらしい。見れば確かに——掌の付け根の辺りが、うっすら赤くなっていた。血が滲んでいる。
「たいしたことではありませんわ。少し擦りむいただけで——」
「手を出せ」
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その声が、いつもと少し違った。
命令口調はいつも通りだ。でも——低さが、少し変わった気がした。
「カイン様?」
「手を出せ、と言った」
ほとんど反射的に、わたくしは右手を差し出していた。
カイン様が、じっとその掌を見た。深緑の目が、細くなった。
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「ディートリヒ」
廊下の先に控えていたディートリヒが、すぐに寄ってきた。
「包帯と消毒薬を持ってこい。医務室にある」
「はい、すぐに」
ディートリヒが走っていった。
(包帯。この擦り傷に包帯——本当に大袈裟ですわ)
でも何も言えなかった。カイン様の表情が、珍しく固まっていたから。血を見て、どこかがぴんと張ったような顔。
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ディートリヒが小さな木箱を持って戻ってきた。
カイン様が受け取って、蓋を開けた。
消毒用の布と、白い包帯。
カイン様が消毒布でわたくしの掌を拭いた。丁寧だった。荒っぽくなかった。
(意外)
剣を握ってきた手が、こんなに慎重に動く。
消毒が終わって——包帯を取り出した。
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少しの沈黙があった。
カイン様が包帯を手に持ったまま、わたくしの掌を見ていた。
「……あの、カイン様?」
「待て」
それから、包帯を巻き始めた。
最初の一周が、やけにしっかりしていた。次の一周も、しっかりしていた。その次も。その次も——。
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わたくしは途中から、自分の手が見えなくなったことに気づいた。
白い包帯が、ぐるぐると重なっていく。もはや掌というより、何か白い塊のようになっていた。
「カイン様」
「……何だ」
「そろそろ——よろしいのではないでしょうか」
カイン様が手を止めた。
わたくしの手を見た。
じっと見た。
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「……多すぎたか」
「ええ。少々」
「……」
「こういうのは——苦手だ」
「それは——わかります」
(わかりますとも。あの包帯の量を見れば)
でも——笑えた。
こらえようとしたけれど、肩が揺れた。笑い声が出てしまった。
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「笑うな」
「す、すみません——」
「傷の処置をしているのに笑うか」
「だって——」
「だってじゃない」
「でも巻いてくださったのでしょう? だから——嬉しいのですわ」
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カイン様が少し黙った。
「——そうか」
低い声が、短く言った。
声がかすかに上擦っていた。視線は包帯の方を向いていた。わたくしの顔は見ていなかった。
ディートリヒが空を仰いでいた。
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「少しほどいて、巻き直しましょうか?」
「いい。そのままにしておけ」
「でも、これだと書類が——」
「今日の書類は誰かに届けさせろ。お前は管理棟にいろ」
「はい」
わたくしは素直に答えた。
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カイン様が立ち上がった。
散らばった書類を拾って、わたくしの代わりにまとめてくれた。ディートリヒに渡して、何か一言指示をした。
それから——厨房に向かうらしい足取りで廊下を折れていきながら、ぽつりと言った。
「茶葉の在庫が切れていた。三倍ほど補充しておく」
「え、そんなに」
「必要だからだ」
それだけ言って、去っていった。
(三倍。毎日お茶を飲む量から計算しても、一年分はある気がする)
わたくしはその背中を見送りながら、なぜか頬が少し緩むのを感じた。
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「行く」
「はい。ありがとうございました」
「礼は要らない」
颯爽と廊下を歩いていくカイン様の背中を、わたくしは少しの間見送った。
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夜、部屋に戻ってヨハンナに包帯を巻き直してもらおうとして——やめた。
カイン様が巻いてくれた、あの分厚すぎる包帯を手元に引き寄せた。ただのぐるぐる巻きだ。
でも捨てられなかった。
枕に顔を埋めた。
(この方が——温かい気がする)
自分の言葉に、頬が熱くなった。
(わたくし、一体どうしてしまったのかしら)
ヨハンナが何も言わずに、燭台の炎を少し遠ざけてくれた。
薄暗い部屋の中で、わたくしはしばらく、ひとりで静かに赤くなっていた。
——明日もお茶の時間がある。その事実が、今夜は少しだけ眩しかった。




