第44話「悪女の名誉」
第44話「悪女の名誉」
春の社交シーズンが本格的に始まると、王都の令嬢たちは茶会へ茶会へと動き回る。
その日の午後、グラーフ侯爵夫人の屋敷では、十数名の令嬢と夫人が集まっていた。庭園に面した広間に白いクロスのテーブルが並び、季節の花が飾られている。
クラウス・フォン・ヴァルトシュタインがその場にいたのは、たまたまだった。グラーフ侯爵と商業的な用件があって屋敷を訪れたところ、夫人から「よろしければお茶を」と引き留められた。
問題は、始まって間もなく、ある話題が出たことだった。
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「ねえ、聞いた? 辺境の話」
ラインベルク侯爵夫人が、さりげなく口を開いた。
「グラフ辺境伯領よ。ヴァルトシュタインのご令嬢が——例の、婚約破棄を受けた方が赴任していらっしゃるでしょう。あちらで鉱山の事故があったそうで、その際に魔法を使って人を救ったとか」
広間の空気が、すっと変わった。
「魔法? 令嬢が?」
「Cランクとお聞きしていましたが」
「それが——かなりの規模だったそうなの。崩落した坑道で、鉱夫が閉じ込められたのを魔法で救い出した。坑道を再構築したとかで、Cランクには絶対に不可能な——」
「死者が出なかったというのは、本当かしら」
「冬の死者ゼロの話は以前から聞いていたけれど」
声があちこちで重なる。
クラウスは紅茶のカップを置いた。
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テーブルの端に、三名の令嬢が並んで座っていた。
エルナ・フォン・ラウエン。ブルーメ男爵令嬢。それから——ヴォルカー子爵令嬢。
この三名の顔に、共通した表情が浮かんでいた。
気まずさ、と言えばいい。目が合うことを避けるような視線。話題の輪に加わらずに、自分のカップをじっと見ている。
(そうか)
クラウスは静かに観察した。
この三人は、一年以上前のあの夜、舞踏会でエリナの前に立っていた。「悪女」と呼んだ声のひとつひとつを、クラウスはまだ覚えている。
全部覚えている。
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クラウスはここで口を開いた。
自然な声で、しかし広間全体に届く音量で。
「妹のことを、皆様もお聞きおよびですか」
広間がしんと静かになった。
クラウスは表情を変えなかった。端整な顔が、柔らかく微笑んでいる。しかしその目の奥は、笑っていない。
「先日、辺境から手紙が来ました。妹が元気だと、教えてくれました」
「ヴァルトシュタイン様——」
「妹は今、辺境で素晴らしい成果を出しています」
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クラウスは続けた。声は穏やかだ。感情的ではない。ただ、事実を並べていく。
「冬の死者ゼロ。食料の輸出成功。温室農業の導入。そして今回の鉱山事故での救出。大鉱脈の発見——これが、いわゆる『悪女』の所業でしょうか」
誰も、答えなかった。
ラウエン令嬢の顔が、わずかに赤くなった。ブルーメ男爵令嬢は目を伏せた。ヴォルカー子爵令嬢は紅茶のカップをソーサーに置いた。磁器のかすかな音が、静かな広間に響いた。
「妹は——婚約破棄を受けた夜、おかしなことを言ったそうです」
クラウスは穏やかに続けた。
「『ありがとうございます』と言ったとか。あの場にいた方は覚えていらっしゃいますか」
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誰も、返事をしなかった。
「わたしには最初、その言葉の意味がわからなかった。でも今はわかります。妹は——あの夜、解放されたのだと思う。自分が本当にいたい場所へ行く自由を、得たのだと」
グラーフ侯爵夫人が、静かに言った。
「ヴァルトシュタイン様。あなたはご立派なお兄様ですね」
「いえ」
クラウスは首を振った。
「わたしは何もしていません。妹が自分の力でやり遂げたことを、ただ誇りに思っているだけです。その誇りを黙っているのは——兄として、少し難しいことでしたので」
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広間に、小さな笑いが起きた。緊張が、わずかに緩んだ。
そのとき、テーブルの端に座っていたラウエン令嬢が、静かに立ち上がった。
広間が、また静かになった。
ラウエン令嬢——エルナ・フォン・ラウエン——は、去年の婚約破棄の夜、エリナを「冷たい女」と呼んだ令嬢のひとりだった。あの場の空気を率先して作ったと、クラウスは聞いていた。
「ヴァルトシュタイン様」
令嬢の声は、落ち着いていた。しかし——その目が、少しだけ揺れていた。
「わたくし、エリナ様のことを——誤解していましたわ」
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広間の視線が、ラウエン令嬢に集まった。
「あの夜、わたくしは確かに、あの方を批判する立場にいました。それは——今でも、申し訳なく思っております」
一呼吸置いた。
「辺境であれだけのことを成し遂げられるなど、想像もしていませんでした。冬の死者ゼロ。鉱山の救出。大鉱脈の発見。どれひとつを取っても——わたくしには、到底できないことです」
ラウエン令嬢が、クラウスに視線を向けた。
「エリナ様が辺境に赴かれたことを、心から良かったと思います。あの方があの場所に行かなければ、救われなかった命がある。でも——わたくしたちのあの夜の言葉が、どれほど的外れなものだったか」
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クラウスは答えなかった。
ただ——静かに聞いていた。
言葉で何かを返す必要はない。この令嬢は今、自分の口から自分の誤りを認めている。それは——口から出たのなら、本人の中で何かが変わったということだ。
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広間の片隅で、アルフレートが立っていた。
今日はたまたまグラーフ侯爵との政務上の用件でこの屋敷を訪れていた。招かれた茶会の席で、この話題が始まったとき——退席する機会を逃した。
クラウスの言葉を、聞いていた。
ラウエン令嬢の言葉を、聞いていた。
エリナの名前が、広間を満たした。
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一つひとつが、耳に刺さった。
冬の死者ゼロ。食料輸出。温室農業。鉱山事故の救出。大鉱脈。
ひとつひとつが、確かな成果として王都に届く。噂ではなく——公文書として。帳簿の数字として。
(悪女の所業か、と聞いたか)
アルフレートの手の中で、茶杯の細い脚が、わずかに歪みそうになった。
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ラウエン令嬢が続けた。
「誤解していましたわ。あの方のことを——本当に、誤解していた。それだけを、申し上げたかったのです」
広間が、また静かになった。
アルフレートの中で、何かが音を立てた。
抑えようとした。しかし——。
グラスが、テーブルに当たった。
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陶器が割れる音が、広間に響いた。
鋭い音だった。誰も予期していなかった音だった。
広間の視線が、一斉にアルフレートに向いた。
茶杯の飾り台が、床で二つに割れていた。アルフレートの手から、強く置かれた衝撃で。
アルフレートは何も言わなかった。
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顔が、歪んでいた。
言葉を探している顔ではなかった。言葉にならないものが、表面に出てしまっている顔だった。
シュテファンが、少し離れた場所から、冷たい目でアルフレートを見ていた。
その目には——同情がなかった。
アルフレートは踵を返した。
無言で。
広間の扉に向かって。
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誰も止めなかった。
誰も声をかけなかった。
貴族たちが、その背中を見送った。
その沈黙は——何よりも、はっきりとした答えだった。
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その話が、その日の夕刻には王城の廊下を流れ始めた。
貴族の茶会での噂は、侍従の口を経由して、気づけばどこにでも届く。
執務室の隅で書類を捌いていたシュテファンの耳にも、届いた。
「グラーフ侯爵夫人の茶会で——」
「わかった」
短く答えた。
書類から目を離さないまま、口端だけが少し動いた。
(ラウエン令嬢が動いたか。そして——兄のクラウス殿が。妹思いの人物だ)
羽根ペンで書類に署名しながら、シュテファンは傍に控える侍従に向けて一言。
「ヴィルヘルム公爵に伝えてくれ。近日中にお時間をいただきたい、と」
「お話の内容は」
「娘御の件について、と言えばわかる」
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ヴィルヘルム公爵がその夕刻に書類を読んだ。
公爵の執務室は王城の北東棟。窓から王城の庭園が見える。
シュテファンが柔らかく言った。
「本日、グラーフ侯爵夫人の茶会でのお話——公爵にもお届けするのがよいと思いました」
「聞いている」
ヴィルヘルム公爵は、書類を机に置いた。
老いてはいるが、背筋は真っ直ぐだ。
「あの子のことは——もう、心配しておらん」
静かな声だった。
「わたしが判断したわけではない。あの子が——そうなっただけだ」
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その言葉を、シュテファンは静かに受け取った。
「辺境伯からの公文書が届いています。エリナ様の功績を正式に記録したもので——同時に、ルーン石鉱脈の報告も含まれています」
「読んだ。カイン・ドラクロワは——まともな男だ」
「左様ですね」
「エリナは、あちらで大事にされているか」
シュテファンは少しだけ間を置いた。それから答えた。
「報告書の文面から判断する限り——はい。非常に大事にされている様子です」
公爵が、かすかに表情を動かした。口元が、ほんのわずかに緩んだ。
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一方、別の執務室では、全く異なる空気が漂っていた。
アルフレートは窓の外を見ていた。
先ほどの茶会から戻って、そのまま執務室に籠もっていた。
(あいつが——なぜ、あんな辺境で評判になるんだ)
エリナのことが、これほど耳に入ってくる。
冬の死者ゼロ。食料輸出。燻製サーモン。温室農業。鉱山救出。大鉱脈。
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(なぜ)
なぜ、魔力がCランクの女が、坑道を再構築する?
なぜ、追放同然に辺境に赴任した女が、鉱山事故の英雄になっている?
なぜ、社交界でエリナの話ばかりが出る?
アルフレートは窓枠に手をついたまま、固まっていた。
あの茶会で割れた杯の音が、まだ頭に残っている。
(俺は——あの場で、何をした)
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廊下で何かが動く気配があった。
「アルフレート様? お顔の色が——」
扉が開いて、メリアが入ってきた。いつもの困ったような笑顔で、目に心配の色を浮かべている。
「——何でもない」
アルフレートはそう言った。
言いながら、何かが胸の底に沈んでいくのを感じた。
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今日初めて、アルフレートはそのことを自覚した。
エリナが辺境に行ってから、もう一年以上が経つ。最初の数ヶ月は「清々した」と思っていた。本当に思っていた。
なのに。
エリナのことが、これほど耳に入ってくる。
(あいつは——最初から、俺のことなどどうでもよかったのだ)
拳が、窓枠の上で握り締められた。
夜の庭園に、風が吹いた。噴水の音だけが、静かに聞こえていた。
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そして王城南棟の一室では。
バウム顧問が記録用紙の束を並べ直していた。
今日の茶会の話は、老魔法師の耳にも届いていた。
辺境の令嬢の魔法——土属性——坑道の再構築——Sランクに迫る可能性。
バウム顧問は記録用紙に新しい一行を加えた。
几帳面な文字で。「報告先を確定する時期が近づいている」と。
王都の夜が、深くなっていく。




