第42話「辺境伯の過去」
第42話「辺境伯の過去」
雨の夜だった。
夕食を終えた後、廊下の窓から外を見ると、石畳が光を反射して濡れていた。遠くの山には雲がかかっている。本格的な雨になりそうだ、と思ったとき——ヨハンナが燭台を持ってきて、読書でもしてお過ごしくださいと言い残して退がった。
本を手に取る気にはなれなかった。
窓の外の雨音を聞きながら、わたくしは鉢植えの隣に腰を落ち着けた。
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蕾が、また大きくなっていた。
昨日より、もう少し。白い花びらの端が、緑のがくの隙間から少しだけ覗いている。開こうとしている。開く前の緊張感——そういうものが、小さな蕾の中にある気がした。
「もうすぐ開きますね」
思わず声に出した。
誰もいない部屋で、花に話しかけている自分がいる。
(前世のわたくしが見たら笑うかもしれないけれど——こういうことができるようになったのは、たぶん、この土地のせいだ)
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廊下を歩く足音がした。
わたくしは聞き慣れていた。軽い足音ではない。静かだけれど、地を踏む力がある。一歩ごとに確かな重さがある。
扉がノックされた。
「エリナ」
短く、名前だけ。
「はい、どうぞ」
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カイン様が入ってきた。
巡回を終えた後なのか、外套の肩が少し濡れていた。雨に当たったのだろう。
「起きていたか」
「ええ。雨音が好きで——本を読もうと思ったのですが、なんとなく」
カイン様が部屋の中を一瞥した。
「蕾が開いていないか確認しに来た」
「まだです。でも、もうすぐ」
カイン様が窓辺に近づき、蕾を見た。わたくしも横からそれを見た。
ふたりで、小さな蕾を覗き込んでいる。
なんとも不思議な光景だとは思う。でも——不思議なくらい、落ち着く光景だった。
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「光る石に呼ばれている気がした、とおっしゃっていましたね、鉱山で」
わたくしは、窓辺に目を向けたまま言った。
「今でも思うのですけれど——あの鉱脈は、ただの鉱石ではない気がして。何かが宿っている、というか。呼ばれているというか——うまく言えないのですけれど」
カイン様が、少しの間黙っていた。
「……そうだな」
低い声だった。いつもより、ゆっくりと言葉を選んでいる。
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「俺の母も——同じことを言っていた」
わたくしは、顔を上げた。
カイン様は窓の外を見ていた。雨に濡れた石畳を、あの深緑の目が静かに見ている。
「お母様が……?」
「ああ。鉱山に一度だけ連れて行ったとき——土が呼んでいると言った」
カイン様がゆっくりと振り返った。
「お前を初めて鉱山に連れて行ったとき——同じ言葉を聞くと思った」
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(最初から知っていた——というのは、魔力のことだけじゃなかったの?)
「カイン様のお母様は——土の魔法使いでいらっしゃったのですか」
「ああ。Aランクだった」
「では、わたくしの力がCランクではないと気づかれたのも——」
「お前が最初に土に触れたとき、身体の反応を見た。感知だけで見抜けるほど俺の力は高くないが——母に似た反応だとわかった」
一年以上前から。出会ったあの冬から。
あの深緑の目は、ずっとそれを見ていた。
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カイン様が、窓辺の棚に背を預けた。
いつもの真っ直ぐに立つ姿勢ではなく——少しだけ、体の力が抜けている。この部屋では、外とは少し違う顔をする。そのことにわたくしはいつの間にか気づいていた。
「母は——農業魔法が得意だった。土を耕して、作物の根を育てる。それが好きだったようだ」
「まあ」
「辺境の領民に、土の使い方を教えていた。農地が荒れていたこの地に、少しずつ緑が増えていったのは——母が原因だと、古い農民は今でも言う」
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わたくしは黙って聞いていた。
カイン様が過去を語ることは、あまりない。それでも今夜は——語っている。雨音の中で、静かに、少しずつ。
「父が亡くなったのは——俺が十二のときだ。国境紛争で」
「……はい」
「母はそれから、一人でこの辺境を守り続けた。当主代行として。俺が成人するまでの六年間」
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六年間。
十二歳で父を失い、まだ少年の息子を抱えながら、一人で領地を守った母親。
(六年間、一人で——)
「父を失った悲しみは——当然あっただろう。でも母はそれを表に出さなかった。朝から晩まで執務をこなして、農地を回って、冬には救済物資を自ら運んで——」
カイン様の声が、そこで少し間を空けた。
「笑っていた。いつも、笑っていた」
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「俺には——それが怖かった」
低い声が、静かに落ちた。
「悲しくないはずがない。疲れていないはずがない。なのに笑って、一人で全部やっていた。俺は子どもで——何もできなかった。ただ見ていることしかできなかった」
(カイン様が——)
このことを話すのが、初めてではないとは思えなかった。ずっと誰にも言わずに、抱えてきた言葉のような気がした。
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「母は——俺が十八になった年に倒れた」
「……」
「過労だった。体が限界だったのだと、侍医はそう言った。俺が成人して、領地を引き継げるようになったのを確認してから——安心して、倒れたのだと」
カイン様の目が、窓の向こうの暗闇を見ていた。
「三ヶ月、寝たきりで——そのまま、逝った」
声は平静だった。でも——その平静さの底に何があるか、今のわたくしには少しだけわかった。
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「母は——一人で全てを背負った。最後まで、誰にも重さを渡さずに」
カイン様が、窓の外から目を戻した。
深緑の目が、まっすぐこちらを向いた。
「だから——お前には、同じようになってほしくない」
その言葉が——胸の奥で、静かに爆発した。
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(同じように、なってほしくない)
鉱山で倒れた後、カイン様が廊下で一晩待っていてくださった。お茶を持ってきて、水やりをして、野の花を机に置いた。
その全部に——この言葉が繋がった。
そして——前世のわたくしが重なった。
一人で抱えて、誰にも渡せなくて、笑いながら働き続けて、気がついたら終わっていた。カイン様の母が辿った道と——前世のわたくしが辿った道が、どこかで重なる。
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目の奥が、熱くなった。
泣かないようにしようと思ったのに——目が、勝手に滲んだ。
「……エリナ」
「すみません。ただ——」
言葉が出なかった。うまく言えない。何がどう刺さったのか、説明できない。ただ、この人が今語ってくれたことの重さが、胸の中でどんどん大きくなっていた。
「お母様は——温かい方だったのですね」
ようやく出てきた言葉は、それだった。
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カイン様は、少しの間黙っていた。
「……ああ」
「雨の日に歌う方、だと聞きました。ヨハンナから」
「歌が好きだった。朝、雨が降ると——厨房から歌声が聞こえた。自分で朝餉の用意をしながら、歌っていた」
「朝餉を——ご自分で」
「偉い人間が自分で料理するものだと、子どもの頃は思っていた。大人になってから、それが普通ではないとわかった」
カイン様の口元が、わずかに動いた。
笑ったのだ——と気づくのに、少し時間がかかった。
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その笑みは、すぐに消えた。
でも——見た。
「カイン様」
「何だ」
「わたくしは——大丈夫です」
カイン様が、こちらを見た。
「だって——わたくしには、カイン様がいますもの」
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言ってしまった後で、自分の言葉に驚いた。
(今、わたくし何て言った——?)
頬が、じわじわと熱くなった。顔に出ている。絶対に出ている。夜の灯りしかない部屋でも、きっとわかるくらい赤くなっている。
(言い直したい。でも言い直せない。言い直したら余計おかしくなる。何も言わなかった顔で書類でも見ればよかった——でも書類はここにない——)
ヨハンナが「お嬢様は素直になりましたね」と最近よく言う。素直になった結果がこれか。
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カイン様が、固まっていた。
「……」
「……」
沈黙が部屋を満たした。雨音だけが続いている。
わたくしはさりげなく窓の外を見た。カイン様も窓の外を見た。ふたりで、揃って雨に濡れた石畳を見ている。
(耳が——赤い)
気づいてしまった。
夜の灯りの中でも、はっきりとわかる。あの落ち着いた横顔の、耳の縁が——確かに赤い。
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「…………。そうか」
長い沈黙の後、カイン様が言った。
「そうか」しか言わなかった。それ以上何も言わなかった。
でも窓の外を見たまま、動かなかった。
視線が、揺れたままだった。
わたくしの心臓が——今日一番大きな音で鳴っていた。
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雨音が続いていた。
蕾は、まだ閉じている。
でも窓辺のその小さな花の隣で、今夜わたくしは——何かが、静かに開いた音を聞いた気がした。




