第41話「ルーン石の価値」
第41話「ルーン石の価値」
数字を前にすると、頭の中が静かになる。
前世でも今世でも変わらない。感情の揺れも、迷いも、頭の隅に押しやられて——目の前の数字だけが、くっきりと浮かび上がってくる。
「——この数字、本当に正しいですか」
ルドルフが書類を差し出しながら、にやりと笑った。
「三度確認しました。エリナ様」
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管理棟の長机に、三人で座っていた。
中央にカイン様。右にルドルフ。わたくしは左側。
机の上には、ゲルツ親方からの鉱山調査報告書と、ルドルフが独自に集めた王都のルーン石市場価格表が広げてある。
ルーン石一個。金貨五枚。
それが今の王都での流通価格だった。
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「ゲルツ親方の見立てでは——現在確認できた範囲で、坑道奥行き三十メートル、幅十二メートルの鉱脈が露出しています」
わたくしはゆっくりと数字を整理した。
「辺境の年間収入と比べると、どのくらいになりますか」
「粗い試算ですが」
ルドルフが指を折った。
「採掘可能量の一割だけ出荷したとしても——現在の辺境の年間税収の三十倍を超えます」
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カイン様が書類を手に取り、目を動かした。
「三十倍」
低い声で繰り返した。
「この辺境が、王国の財政を左右する存在になるということか」
ルドルフが少しだけ真面目な顔になった。
「左右どころか——王国の軍事費の相当部分を賄える数字です。ルーン石は魔法石細工の最上級素材ですから。武器防具の強化、魔法装置の動力源——需要は尽きない」
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「待ってください」
わたくしは書類から顔を上げた。
「一度に大量に出せば、価格が崩れます。供給が増えすぎれば価値が下がる。今の価格を維持するためには——計画的な採掘と出荷が必要です」
「……どういうことだ」
カイン様がこちらを向いた。
「たとえば年間の採掘量に上限を設けます。今年は一定の量を出して、来年も同じ量を出す。価格を安定させて、長期にわたる収入を確保する——そういう方針ですわ」
(前世の経済で何度も見た。希少資源を一気に放出して市場を崩壊させた例は枚挙に暇がない。同じ轍を踏むつもりはない)
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ルドルフが身を乗り出した。
「エリナ様のおっしゃる通りです。あたしはずっとそれを心配していた。なろうと思えばすぐ一気に売れる。でもそれでは十年後には二束三文になりかねない」
「十年の安定収入のほうが、五年の大儲けよりずっと価値が高い」
「まったく同意です」
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カイン様が書類を置いた。
「俺には軍事面での話がある」
「鉱山の警備、ですか」
「これだけの鉱脈が露出した以上、警備体制を根本から見直す必要がある。現在のクレイン村の守備隊は二名だ。それでは話にならない」
「体制の話は理解しましたわ。それと並行して、販路の整備も必要ですわね」
わたくしはルドルフを見た。
「ルドルフ、王都に信頼できる石細工商の伝手はありますか」
「三軒ほど、心当たりがあります。いずれも長年取引のある商会です。正規の流通を通せば品質証明もつけられる」
「品質証明は重要です。等級別に販路を分けましょう。上位の石は王都の石細工商へ、中位は地方の魔法道具職人へ、下位は近隣領地へ。それぞれの市場に最適な石を送れば、無駄がありません」
(顧客層を分けて考える手法。前世では当たり前だったけれど、この世界のルーン石にそれが使えるとは思っていなかった)
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三人で二時間、方針を詰めた。
役割は明確だった。カイン様が軍事と警備。ルドルフが販路と輸送。わたくしが生産計画と品質管理。
「年間採掘量の上限は、まずゲルツ親方と相談してから数字を出します。鉱夫の体力と設備の更新を考えないといけませんから」
「わかった。明日、俺がゲルツのところに行く」
「では調査報告書の書式を今日中に用意しておきますわ」
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会議が終わり、ルドルフが席を立った。
「いやあ、よかった。エリナ様がお元気で」
「ルドルフ——心配してくださっていたのですか」
「商売相手が倒れたままでは困りますから。ひどいことを言うようですが、本音です」
「正直で助かります」
ルドルフが入口の扉に手をかけたまま振り返った。
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いつもの底抜けに明るい目が、このとき少し別の色になった。
「これだけの資源があると知れたら——王都の人間が黙っていませんよ」
「……」
「特に——権力欲の強い人間は」
ルドルフの口調が、わずかに低くなった。笑みは崩れていない。でも、目が笑っていなかった。
「辺境伯様。エリナ様。お二人のことは、あたしが商会の力でできる限り守ります。ですが——向こうが本気で動いてきたとき、あたし一人では限界がある。ご承知おきを」
扉が閉まった。
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管理棟に静寂が戻った。
カイン様は書類に目を落としたまま、何も言わなかった。
わたくしも、しばらく黙っていた。
ルドルフの足音が遠ざかってから、カイン様が口を開いた。
「エリナ」
「はい」
「鉱山に王都から使者が来た場合——対応はお前に任せる」
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「わたくしに、ですか」
「ルドルフが言った通り、早晩誰かが動く。その際、交渉窓口を一本化する必要がある。俺が直接出ると、軍事的な圧力と取られる場合がある。商業的な交渉はお前が向いている」
わたくしはしばらく考えた。
(確かに——辺境伯が直接出れば、相手は政治的駆け引きを前提に動く。間に経済顧問を立てれば、あくまで商業交渉として処理できる。カイン様はそれを見越している)
「わかりましたわ。ただ、最終的な意思決定はカイン様でなければなりません」
「当然だ」
「その前提であれば、喜んで」
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そのあと、書類の整理が続いた。
机の上の燭台に火を灯す時間になって、ルドルフが置き忘れた資料の束を棚に戻しに歩いた。
棚の近くに、ゲルツ親方が調査参考に持ち込んだルーン石のサンプルが置いてあった。小さな石だ。掌にのせると、ほのかに温かく、かすかな光を帯びていた。
「きれいですわね」
思わず声が出た。
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カイン様が書類から顔を上げた。
わたくしが石を掌にのせて眺めているのを見て——ふいに、手元の燭台の火を消した。
管理棟が、暗くなった。
淡い緑の光が、部屋を満たした。
ルーン石が、暗闇の中で光っていた。昼の光の下では気づかなかった色だった。深い森の奥で木漏れ日が水面に落ちたような——静かで、穏やかな緑。
「……ああ」
カイン様が短く答えた。
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二人で、石の光を見ていた。
わたくしは石をテーブルに置いた。光がテーブルの木目に滲んで、二人の顔を淡く照らしている。
どちらが先というわけでもなく、同じ場所を見つめていた。
カイン様の横顔が近い、と気づいたのは、少し経ってからだった。
淡い緑に照らされた深緑の目が、石を見ていた。肌の輪郭がぼんやりと浮かび上がっている。まつげの影が頬に落ちているのが見えるほどの距離。
それから——その目が、ゆっくりとこちらを向いた。
わたくしは息を止めた。
(近い——)
暗い部屋の中で、ルーン石の光だけが二人の顔を照らしている。窓の外から夜の風がかすかに入って、石の光が揺れた。
カイン様が何か言いかけた。口が、わずかに開いた。
でも——言葉にならないまま、閉じた。
沈黙が、長かった。
石の光の中で、互いの呼吸だけが聞こえていた。
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カイン様が灯りを再び点した。
部屋が元の明るさに戻った。
「…………」
「そ、そうですわ。等級の高いものほど光が澄んでいると、ゲルツ親方がおっしゃっていました。品質証明にも、光の色味を基準に使えるかもしれません」
わたくしは声が少し上ずっているのを自覚しながら、書類に視線を落とした。仕事の話をしなければ。仕事の話に戻らなければ。
「……そうだ」
カイン様も書類に目を戻した。
声が——いつもより低かった。
台帳の数字が、今日はまるで頭に入ってこない。ルーン石一個、金貨五枚。その数字を三度読み直して、やっと意味が繋がった。
(石の光のせいだ。暗い部屋のせいだ。近かったから——それだけ)
自分にそう言い聞かせたけれど、掌にはまだ、あの石の温かさが残っていた。




